おとしあな。
道の駅というにはちょっと小さいが、通りがかりの観光客たちに人気のその店に、赤い野菜ばかり卸す人がいました。
30か40ぐらいの、何年か前にひとりでこの土地に引っ越して来た女性です。
ここは年々人口が減っている、寂れた山奥の田舎です。
何を好き好んでこんなところにと思う反面、今都会で流行っている田舎暮らしにあこがれて移住してきた人なんだろうと周りの人たちは思っていました。
ただちょっと気になったのが、長いこと空き家になっていた、その集落でも割と奥にある、ぽつんとした古い家に彼女が住み着いたことです。
怖くないのかな、若いから平気なのかなとその集落の人々は思いましたが、都会の人は干渉されることを好まないだろうと理由は聞かず、遠巻きに彼女のことを眺めていました。
彼女の家は土地が広かったので、畑仕事を始めました。そして車でその店まで苗や肥料をよく買いに来ていました。
会えば笑顔で挨拶もするし、ちょっとした雑談にも応じる。
積極的に彼女から土地の人に話しかけることはありませんでしたが、冷たい人ではなさそうでした。
ある日、荷物がとても多かったので配達してあげようとその店の店員が言うと彼女は「また来るから」と断りました。
ですが店員は「2度も往復するのは面倒でしょう」と半ば強引に、車で彼女のあとをついて行きました。
門の前でいいと言う彼女を押し切って荷物を中へ運ぼうとする店員に、彼女はいよいよ迷惑そうな笑みを浮かべて、「気をつけてくださいね」と言いました。
なんのことだろうと店員は思ったそうですが、それよりも初めて立ち入る都会から移住してきた彼女の家に興味深々で、あまり深くは考えませんでした。
門と言っても古い木戸で、周りはぐるりと腰ぐらいの垣根で囲まれているだけで、中の見通しはいい家です。
木戸をくぐると大きな平たい石が、けんけんぱ、みたいに調子よく玄関まで並べてあります。
彼女はひとつも踏み外すことはなく、ひとつひとつその敷石を踏みながら玄関へ進みます。
店員もそれに倣ってひとつひとう踏みながら荷物を持って後へ続きました。
家の前はまばらに雑草が生えていて、庭にしては寂しいものです。その少し向こうから畑が始まっていますが、ところどころに今から何か植えるのか、掘り返した穴がありました。
今日買った苗をあの辺に植えるのだろうと、店員は敷石を外れてあちらへ苗を運ぼうとしました。
「あっちに持って行きますね」
「下りないで!」
とっさに彼女が叫び、店員は驚いて敷石から下ろそうとした足を戻しました。
「この辺、落とし穴がいっぱいあるんです」
「落とし穴?」
店員は驚いて眉を寄せました。
彼女の話によると、猪やタヌキ、ハクビシンなど、野生の動物が畑の野菜を狙ってよく寄って来るらしいのです。
そこで苦肉の策で落とし穴を作っていると言います。
他にも箱罠を仕掛けたり、畑と畑の間にも落とし穴や箱罠を仕掛けているそうです。
玄関のところでいいという彼女を無理に宥め、店員は畑の方まで苗を運びました。そして落とし穴を見てみました。
本当に彼女が掘ったのかと怪しむほど大きくて深い落とし穴でした。
猪が罠にかかった時のために、あらかじめ掘っているのだと言います。猪を捕まえてから掘ると時間がかかるのでと。
猪は食べないのかと店員が訊くと、彼女は「肉は食べない」と答えました。
それにしても、罠にかかった猪をここまで運んできて埋めるのも大変でしょう、人手が必要な時は遠慮なく言ってくださいねと店員が言うと、彼女は
「ありがとうございます。直接穴に落ちてくれるのが一番楽なんですけどね」
と笑いました。
田舎の噂話は広がるのが早いものです。
彼女の家には落とし穴がいっぱい仕掛けてある。だから夜這いをかけるときには気をつけろ。
下卑た話題に眉を顰める者はいましたが、冗談か本気かバカな男が「じゃあ気をつけて行ってくるわ」と言ったそうです。
本当に行ったかどうかはわかりません。
なぜなら、その男は姿を消したので。
飲んだ後、ひとりどこかへ行った男は自宅へ戻りませんでした。
朝になり、昼になり、夜になっても戻らなかったその男の女房は「亭主を返せ」と彼女の家に乗り込みました。
女房の剣幕に一瞬驚いた彼女でしたが、すぐに「何のことですか?」と答えました。
カチンときた女房は土足で彼女の家の中に上がり込み、あちこちの襖を開けて、家の中を隅々まで亭主の名を呼び探し回りました。
結局出てこない亭主に唖然として座り込んだ女房に、彼女はいたって冷静に囁きました。
「ひとり暮らしの女性を強姦しようとしたかもしれない男を、ご丁寧に探してらっしゃるんですか?」
女房は驚きと嫌悪の眼で彼女を見ました。
「そんな人、来ませんでしたよ」
彼女はにっこり笑って言いました。
「よかったですね。あなたの旦那さんは私を強姦していません」
警察にも届けられ、有志で山の中も捜索しましたが、男は見つかりませんでした。
こんな山奥で女のひとり暮らしは危ないので、もう少し集落の近くで住んだ方がいいのではないかと彼女に助言する人が出てきました。
あんなことがあった後だし、せめてもう少し集落の人間と繋がりを持ってはどうかなと。
この場所がいいのです、と彼女は首を縦に振りませんでした。
そもそも、女性が山奥でひとりで暮らすことの何が危ないのですか?と。
襲わなければいいことでしょう、あなたたちが。と。
季節が一周するごとに、彼女の卸す野菜は増えていきました。量も増えるし種類も増える。赤い野菜の赤みも増えました。
豊作ですねと店員が笑うと、
「いくら野菜ばかり食べているとはいえ、食べきれなくて」
彼女も笑って答えました。
彼女の作る赤い野菜はいつしか通りがかりの観光客たちに人気となり、たちまち品切れになりました。
彼女の赤い野菜が目当てで来る客もいます。
そんな客を売り切れでがっかりさせないためか、地元の人間は誰も彼女の赤い野菜を買いませんでした。
その店は集落の奥さん連中がほとんど取り仕切っています。
例の土足で彼女の家に乗り込んだ女房もいます。
だからか、彼女が品出しに来たときも、彼女の野菜が売れるときも、働いている奥さん連中はニコリともせず、ただ苦虫を噛み潰したような顔をしていました。
夜中にトントンがしゃがしゃと玄関の引き戸を叩く音がしました。
もう一度トントンがしゃがしゃ。
気のせいかと思いましたが、それはずっと引き戸を叩き続けます。
こんな夜中に気味が悪いと奥さんは思いましたが、頼みの綱の夫は飲みに出て行ったまんま、まだ帰っていません。
もしかして夫が鍵を忘れていたのかと思い、寝床を起き出して玄関に行ってみると、女の声で
「夜分遅くにすみません」
と聞こえ、肝が冷えました。
彼女でした。
少しためらいましたが思い切って引き戸を開けると、彼女は寝巻の上にパーカーを着て、懐中電灯を手に持って立っていました。
「お宅のご主人がうちにいらして困っています」
奥さんは血の気が引きました。
少し前に同じ集落の女房が、彼女に大恥をかかされたことを思い出しました。だが、あの時、あそこの亭主は彼女の家には来ていなかったのです。
奥さんは急いでつっかけを履くと、彼女と共に彼女の家へ行きました。
夫はこと切れていました。
目を剥き、叫ぶように大きく口を開けて、両手で胸をかきむしるようにして、どす黒い顔で横たわっていました。
「どこから入っていらしたのか、突然お宅のご主人に襲われまして。抵抗してたら急に胸を押さえて倒れたんです」
淡々と状況を説明する彼女に、震えながら夫を揺さぶっていた奥さんは掴みかかりました。
「なにしたの!?あんたが殺したんでしょう!?」
彼女は奥さんの手を握って胸元から離すと、自分のパーカーの前を開けました。
パーカーの前を開くと、ボタンが引きちぎられた寝巻と、押さえつけられたのであろう首と手首の赤い痣、そしてよく見ると彼女の頬にも叩かれて赤く腫れた跡がありました。
奥さんは言葉を失いました。
「ご主人をよく見てください。私が殺した跡がありますか?血は流れていますか?首を絞めた跡は?私がどうやってご主人を殺したと?」
「ど、毒とか……」
「この状況で?信じたくないのも無理はありませんよね。ご家族ですものね。でも事実は曲げられません」
彼女はため息をつくと、パーカーの前を再び閉めました。
「仕方がありませんね。では、警察を呼びましょう」
「待って……!」
奥さんは彼女のパーカーの端を掴んで叫びました。
待ってもらってどうするつもりだったのか、奥さんは考えていませんでした。ただ、警察を呼ばれるのは怖いと思ったのです。
黙っている奥さんをしばらく見下ろしていた彼女は、ゆっくりとしゃがみました。
「大丈夫ですよ。悪いのはご主人です。奥さんやご家族ではありません。強姦未遂をしたご主人です」
彼女は諭すように奥さんの手を取りました。
「責められるべきは奥さんやご家族ではありません。たとえ責められたとしても、堂々としていればいいのです。堂々と、この集落に住み続ければいいのです。下手にどこかへ引っ越しても、悪い噂はどこから洩れるかわかりません。落ち着いて暮らせないでしょう?だったら住み慣れたこの小さな集落で、堂々と生きてください。あなたたちご家族に罪はありません」
彼女は決して責めてはいません。嗤ってもいません。ただ真面目に、滔々と、まるで心の底から奥さんを労わるようにその手を包んでいます。
奥さんは震えました。
「でも……」
この集落は狭い。娯楽もない。この小さな集団の中で、一生、『夜這いに行った先で死んだ夫の嫁』と言われ続けるかもしれません。そして『あんな男の子供』と言われ、『あんな男を産んだ親』と後ろ指を指され続けるのかもしれません。
奥さんは何か得体のしれないものを吐きそうになって口を押さえました。
「怖いですか……?」
彼女は奥さんの目を見て首を傾げました。
奥さんは震えながらこくりと頷きました。
「では、なかったことにしますか?」
奥さんは驚いて目を見開きました。
彼女と奥さんは夫をシーツの上に寝かせると、彼の服をハサミでジャキジャキと切り開きました。シャツもズボンも下着も全部、ジャキジャキとなるべく小さく切り刻み、ふたつのブリキのバケツにまとめて、竈の横に置きました。
丸裸にした男はみっともない姿をしていて、奥さんは嫌悪で眉を思い切りひそめました。悲しいとかそんな気持ちより、なんでこんなことをという、怒りの方が沸いてきました。
男をシーツで包むと、その端を引っ張って、うんしょうんしょとふたりで力を合わせて暗い外へ引っ張り出しました。
そして畑まで引っ張って行くと、あらかじめ掘られていた大きな穴へ裸の男だけ落としました。
叫びたい声を必死に抑え、すぐに土を掛けようとする奥さんを止めると、彼女は倉庫から何か大きな袋を四つ、運搬用一輪車に乗せて持ってきました。
袋を開け、粉を全部まんべんなく男の身体に掛けると、彼女は土をかけ始めました。
奥さんも慌てて一緒にかけ始めました。
穴が全部埋まった頃には、奥さんは息も絶え絶えでした。農作業は慣れているはずなのに、とても、とても、疲労困憊していました。
彼女はお茶を淹れ、奥さんを労いました。
朝が来る前に帰ろうとする奥さんに、彼女はお土産を持たせました。珍しくはないですけれど、と彼女は前置きしました。「うちで採れた野菜です」
奥さんが袋の中を見ると、彼女がたくさん作っている人気の赤い野菜たちでした。
大変なことをしたあとなのに、なんだかよくやっている日常の一コマで、奥さんは夢の中のような、ふわふわした不思議な感じがしました。
「気をつけてくださいね。ビーツの赤い色は服に付くと、取れないので」
「ブラックベリーも始められたんですね」
品出しに来た彼女に、その店の店員が声を掛けました。
「はい。庭の落とし穴にいろいろ落ちてきたので、上に植えました」
彼女はにっこり答えました。
「落ちただけなら獲物は暴れませんか。埋める前に上って出てくるでしょう」
「電気とかあてれば、すぐにおとなしくなりますよ」
「電気で?」
店員は首をひねりました。
「あとは埋めちゃえば、ね?」
彼女はうふふと笑いました。そして一粒、ブラックベリーを店員に差し出しました。
「よかったらひとつお味見されませんか?」
差し出された一粒の試食を、店員は笑って断りました。
「いえ。共食いはしないんで」
おしまい
ビーツの汁は早めに適切な処理をすれば綺麗に落ちるそうです。よかったですね。
ビーツの汁ならね。