37
地下に潜って、どれほどの時間が経っただろうか。感覚が狂っているが、もう一週間は経っている気がする。
日に日に、皆が弱っていく。言葉数が減り、動きが鈍り、戦闘では致命的な隙が増えてきた。
魔物の肉を狩り、水を生成し、見張りを立てて小部屋で息を潜めながら眠る毎日。
探索の成果は芳しくなく、上層へ続く道は、結局、あの門番のいる部屋しか見当たらない。つまり、あの圧倒的な気配を放つ魔物を打倒しない限り、前には進めない。
だが、私たちは所詮Dランク。ランクひとつ上のCランク、例えばシースのような冒険者と比べても、その実力差は天と地ほどもある。
勝てるだろうか。いや、このままでは確実に勝てない。
何とか努力して、実力をつけるしかないのだ。この迷宮内で。
「今日の戦闘、ジズが攻め急ぎすぎた。あのままじゃ、前衛が崩れる。」
「わかってるよ、分かってるけどさ……お前の指示も曖昧だったぞ。タイミング合わなきゃ意味がないってのに、勝手に詰めてどうすんだよ。」
疲労の滲む口調で言い合うジズとアイザ。その間に、ミーゼが困った顔で割って入ろうとしているが、二人は聞く耳を持たない。
リリカはというと、背を向けて、まるで何も聞こえていないかのように黙って手入れをしている。
『ミスト、あの人たちはなんで喧嘩してるの?』
「なんでだろうねえ。」
グリハの疑問に小声でそう返すが、原因は分かりきっている。
閉ざされた空間で、光も希望もない状況が続けば、誰だって壊れる。食事は味気なく、娯楽もない。休まらない睡眠と、日に日に降り積もる疲労は簡単に人の精神状態を蝕んでいく。
逆に、無表情で飄々とした使い魔たちの方が、ある意味で不気味だ。魔物という種族故か、事の重大さを理解していないのか、それとも私の与えた加護のせいか。
私達は今、ひたすら迷宮内の魔物を狩り、その生態を調べつつ戦闘スタイルを改善している。戦術、隊列、攻撃のタイミング。全ては、あの番人を破るために。
あの魔物の様子は、定期的に偵察しているが――いつも変わらず、丸まって眠っている。まるで死んでいるかのように微動だにせず、だが確実に息づいている気配はある。
「そもそもあの魔物を倒す必要はあるのか?あれだけぐっすりと眠っているならそのままスルーして、奥の扉まで到達することも可能じゃないか?」
そう言ったのはジズだ。彼はどうしても早くこの地を離れたいようだ。
「確かにあの魔物はずっと寝ているが、隣を通った時に起きないとも限らない。それに、あの奥の扉は大きいし、見た目通りならかなり重たいだろう。開くには時間もかかるだろうし、大きな音が鳴るはずだ。開けている途中に襲われればひとたまりもない。」
それに対するアイザの返答は至極まっとうなものだ。恐らく私でも同様に返事をしただろう。
どちらにせよ、扉を開くだけの人手と時間を確保しなければならない。
そうなれば、あの魔物を倒す、もしくは長時間拘束する事が必須条件だ。
「拘束、か。ミスト、何かいい魔法はあるか?」
「催眠なら一応使えますが、このダンジョンの魔物は催眠が効きにくい傾向にあります。後は雷系統の魔法で麻痺させるくらいですが……麻痺は拘束時間が短いので扉を開けるには心許ないかと。」
「やっぱり倒さなくてはいけないのか。」
そうして、この戦闘の練習は始まった。
「今日はここまで、これ以上はやめよう。」
数時間にわたる戦闘の後、アイザの一言に全員が一斉に息を吐いた。それは安堵というより、限界の吐息である。
刃についた血を拭いながら、疲弊しきった体を壁にもたれさせた。
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いつもと変わらない、家具の多い薄暗い部屋。
ここは周囲に魔物も少なく、数少ない“安全地帯”と呼べる場所だった。
仲間たちはすでに横になり、静かな寝息を立てている。疲労は限界に近く、今夜は誰も見張りを申し出なかった。
そんな中、唯一私は寝ることなく静かに立ち上がった。
「グリハ、見張りよろしく。何かあったら皆を起こしてね。」
『はあい。』
グリハは小さく軋むような声で返事をし、部屋の入り口にちょこんと座り込んだ。聞き分けのいい子だ。
私はミズハを伴い、部屋から少し離れた地点まで移動する。魔物が出没するには十分な距離だが、仲間を巻き込む心配は少ない。
「この辺りかしら。」
そう呟いた刹那。
闇の奥から、にゅっと長い鎌のようなものが伸び、私の頬をかすめた。
鎌鼬と呼ばれるその魔物は、ギルドの魔物図鑑でも見たことがある。多少毛色は薄いが、動きや姿は変わらない。
鎌鼬は通常、数匹で群れを成して狩りを行う魔物。今回も、二体が私たちの周囲をぐるぐると回り、威嚇してきていた。
どうやらこちらを獲物と見なしたらしい。が、私は狩られに来たわけではない。
私は右手に魔力を集中させ、ぎゅっと拳を握る。その瞬間、小さな閃光が走り、痺れるような感覚が指先を駆け抜けた。
解き放たれた電撃が鎌鼬の一体を捉えた。細い体が震え、地面に崩れ落ちる。
「キュウウウ……」
元より鎌鼬は戦闘そのものが強い魔物ではない。奇襲に特化した軽量の狩猟者。探知と対処に長けた私との相性は、最悪だろう。
「ミズハ。」
私の一声に、ミズハが素早く動く。薄く液状の体を伸ばし、2匹の鎌鼬を包み込んだ。頭部だけを残して、全身をぴたりと拘束する。
一旦深呼吸し、何とか逃れようと暴れる鎌鼬達と目を合わせ、口を開く。
「鎌鼬、教えて欲しい事があるの。」
その瞬間、2匹はぴたりと動きを止め、びくりと身体を震わせる。互いに目を合わせ、戸惑いを滲ませた。
「あの扉の向こうにいる魔物を倒したいの。何か知らない?」
もし彼らが群れを形成する魔物であれば、独自の“言語”を持っている可能性が高い。ならば、意思疎通も不可能ではない。そう見込んでの問いだった。
その予想は当たり、鎌鼬たちはやがて、低い唸り声で応える。
『あいつを、起こすな。』
一体が牙をむき出しにしながら、威嚇混じりに答える。
『あいつが起きたら、皆燃える。』
「燃える?炎系統の攻撃をしてくるってことね。」
『前、同族があの部屋に入ったことがある。あいつ、直ぐに起きて同族を燃やした。』
『あいつは、ずっと寝ている。けど、誰かが縄張りに入れば、すぐ起きる。だから、誰も近づかない。』
拘束から逃れようと、2匹は身体を震わせている。焦りと恐怖が混ざり合い、制御が利かなくなってきた。
「どんな魔物なの?」
『黒くて、大きくて、強い。』
『他に見たことが無い、恐ろしい姿。……早く、離せ!』
ギーギーと唸る声にノイズが入り、声が聞き取りにくくなってきた。理性よりも警戒心が勝り、対話する気が無くなってきたのだろう。
「悪かったわね、今離すわ。」
私の指示に、ミズハが鎌鼬たちを解放する。
自由になった彼らは、振り返ることなく、一直線に闇の奥へと姿を消していった。
静寂が戻る。
「……ま、何も分からないよりは良い情報が得られたわね。」
そう小さく呟き、くるりと後ろを向いた。
「ミーゼさん、まだ起きていたんです?」
そう背後に話しかけると、後ろからミーゼがゆっくりと姿を現した。
「寝れなくて。……見張り番は?」
「使い魔に任せているから大丈夫です。ミーゼさん、一人では危険です。皆のいる所へ戻りましょう。」
「貴方は危険ではないの?」
その声には、皮肉めいた渇いた笑いが混じっている。
「……どこからご覧になっていましたか。」
「分かってて聞いてるんでしょう?貴方があの鎌鼬に話しかけている最中よ。」
ふあ、とミーゼは欠伸をすると、私をじっと見つめた。
「……別に、今更何か聞こうとは思わないわ。最初から貴方はどこかおかしいと思っていたもの。ああ、悪い意味じゃなくてね、年に見合わない能力を持っているなってことよ。……それに、今はそれどころじゃない。借りられるものなら、猫の手でも魔物の手でも借りたいくらいだもの。」
ミーゼは首を振った。
「ただでさえ足を引っ張ってるの。これ以上、問題を起こしたくないのよ。静かにしていたいの。」
分かるでしょう?と自嘲めいた笑みを浮かべた。
ああ、この人はきっと自己嫌悪に陥っているのだ。
いや、別に気が付いていなかったわけではない。気弱な性格も、引っ込み思案な態度も、きっと元からではないのだろう。そうでなければ、戦闘中も今も、きっとこんな悲しそうな表情はしまい。
「私の手では、不満ですか?」
気づけばそんなことを口にしていた。
「……貴方には十分助けられているわ、これ以上何を望むと?」
「何か悩みがあるのでしょう?解決できるかは兎も角、聞くだけならできますから。」
そう言って、私はその場に座り込んだ。この辺に魔物はいない。先ほど襲い掛かってきた魔物を無傷で追い払ったこともあり、周辺に取り巻いていた魔物も警戒して逃げて行ったようだ。
ミーゼもそれを理解したのだろう、少しの間考えていたが、黙って私の隣に座り込んだ。
「……貴方、私についてどう思ってる?」
そんな質問を投げかけられ、一瞬だけ答えに窮する。
「どう、とはどういうことでしょうか?」
「戦闘についてよ。貴方、私達の戦いを良く黙って見ているじゃない。」
ミーゼはため息をついた。いつものおどおどした雰囲気ではなく、疲れ切って自暴自棄になったように身体を壁にもたれ掛けた。
「貴方も思うでしょ、私がもう少し戦えたらって。」
私は黙っていた。何と返答したら良いか分からなかったからだ。
彼女の言いたいことは理解できる。
要するに、回復しかできないことに後ろめたさを感じているのだ。
「しかし、貴方の役目は回復する事だと他の方も仰っていました。アイザさん達前衛の怪我が多いこともありますし、仕方ない面もあるのでは?」
「そう言われているわ。でも、普通は違うの。」
ミーゼが横目でこちらをちらりと見る。
「本来僧侶のやることは、回復だけじゃない。支援魔法も軽い攻撃魔法も使うの。ある程度の器用さが求められる職業なのに、私は回復しか使えない。……他の魔法を覚えようとしたこともあった。でも、私は回復だけは他の僧侶と比べても勝っていた。そこに圧倒的な自信を持っていたから。結局それだけに頼って、努力してこなかったのよ。」
ミーゼは自嘲めいて笑った。
「それがこの結果よね。魔法っていうのは日々努力の積み重ね。時間と気力、そして師が居て初めて覚えられるもの。気持ちに少しでも緩みがあれば魔力は応えてくれない。そうやって少しずつ鍛錬を後延ばしにした結果がこれ。今更焦ったところで、何1つできやしないのよ。」
彼女は戦闘中、周囲を見渡し、的確に回復対象を選んでいる。
一方で、相手が怪我をすると分かっていても、実際に怪我するまでは指をくわえて眺めているしかない。
それだけでなく、自分に火の粉が降りかかったとしてもそれを払う術はない。自分を守らせる人員が必要となり、その分戦力を奪う事となる。
それが彼女の言う、足手纏いの状態だ。
「……ごめんなさいね、こんな話をして。こんなこと、貴方に話しても何にもならないというのに。」
ミーゼの握る杖は綺麗だった。戦いの場にいながら、傷もほとんどない。それだけ他の誰かが代わりに傷を負ってきたということだ。
でも、それが耐えられないのだろう。自分のせいで他人が傷つく。回復で癒しても、その痛みや恐怖が完全に消えるわけではない。
「ミーゼさん。もし、他の魔法が使えるようになるとしたら、使いたいですか?」
同情故か、それとも打算故か。気づけばそんなことを言っていた。
「本職の方には及びませんが、私は支援や攻撃魔法も使えます。やり方を教えることも可能です。覚える気はありますか?」
「……そういえば、貴方はリリカにも炎魔法を教えていたわね。あの子、炎魔法が苦手だったのに。」
「ええ、やり方を教えるのは簡単です。すぐにでも使えるようになるでしょう。しかし、元から使える攻撃魔法の属性を増やすことと、攻撃魔法を一から覚えるのとでは全く異なります。」
支援や攻撃に関わるということは、行動の責任も増える。状況を読み、魔力を管理し、適切なタイミングで的確な判断を下す必要がある。器用な立ち回りが求められる僧侶は、それだけ負担も増すのだ。
それを考えれば、彼女に回復だけに集中するように命じた仲間の考えはよく分かる。低ランクのうちはそれで殆ど問題ないからだ。
だが、今は状況が違う。
一刻でも早く力をつけなければならない。本来なら時間をかけて成長していくところを、各々がそれぞれの限界を超えるしかない。
私が彼女に力を与えようとする理由は、単純な善意だけではない。
正直なところ、私だって早くここから出たいのだ。彼らに死なれては困る。あの魔物を倒すとすれば、それは私以外の何者かでなくてはならないのだから。
「力を扱うには責任が伴います。使うために知識は授けられますが、それ含めた立ち回りは御自身で習得してもらわねばなりません。その覚悟はお持ちですか?」
魔法を教えるのは一瞬で済む。精霊が私に教えたようにすればいい。
一方で、戦闘における立ち回りは教えられないから、自分で何とか習得してもらうしかない。やれることが増えたからと言って、判断に迷いが生じる位なら、最初から教えない方が良い。教えない利点を上回る程の結果を出して貰うには、本人に努力する気がないと無理だ。
私の言葉に、ミーゼは暫く考えこんでいた。胸の前で腕を組み、視線をじっと落としている。やがてこちらを向くと、ゆっくりと口を開いた。
「できることなら、何でもするわ。まだ死にたくないもの。」
私は頷き、そっと彼女の手を取った。私よりも少し大きなその手を両手で包み込み、静かに魔力を流し込む。
ミーゼは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに目を閉じて魔力の流れに身を任せた。
「……これで魔法の使い方は伝授できました。簡単な攻撃魔法であれば感覚的に使えるようになっているはずです。」
ミーゼはそっと目を開き、杖を取り、試しに小さな炎を飛ばした。
球状の火はまっすぐ前へと飛び、ダンジョンの壁に当たって消えた。
「驚いた、本当にすぐ使えるようになるのね。……ここまでできるのに、貴方自身はどうして戦闘に加わろうとしないのかしらね。」
ミーゼの疑問に、私は無言を貫いた。
本当の理由なんて、教える訳にはいかないから。
幸いにも彼女は私の様子から"訳アリ"だと察してくれたようだ。
「恩人に聞く事ではなかったわね。何だっていいわ、戦うのは私達の役目だもの。」
「お気遣い、感謝します。」
「さて、そろそろ戻りましょう。しっかり眠らないと、体力も魔力も回復しませんから。」
私はそう言って立ち上がり、ミーゼの手を取った。私よりも温かく柔らかい手だった。