27
少女の緩やかな視線がシースに向けられた。
その目が合った瞬間、シースは心臓を取られたような、冷たい手で掴まれたような感触に陥った。どこまでも穏やかで優しいのに、どこか冷たくて人間離れしたような、そんな形状し難い恐怖であった。
しかし、その恐怖も彼女が口を開くと一瞬で緩和された。
「シース。」
名前を軽く呼ばれただけだ。しかし、そのお陰で少女――ミストが彼自身の知る彼女であることを再確認でき、シースは何とか凍り付いた身体を動かせるようになった。
「シースさん、来てくれたんですね。ありがとう。」
いつも通りの細く透明感のある少女の声が、月下で妙に艶めいて聞こえる。鈴の鳴るような声が風で揺れる木々の中で不自然な程はっきりと響いた。
「ミスト、無事でよかった。」
何とかひねり出した言葉は、何の変哲もない安堵だった。
その言葉を聞くと、少女は一瞬きょとんとした表情で首を捻り、数秒ほどしてからくすくすと小さく笑った。
「心配してくれたんですね。シースさんも無事で何よりです。」
そこでようやく凍り付いた思考が動き出し、現状を認識できるようになった。
「ミスト、これはお前がやったのか?」
周囲を囲むように横たわる黒い狼たちと、少女に頭を預けて眠る白い狼。それは紛れもなく自分達が必死に戦っていた敵であった。
Bランク冒険者ですら数体をやっと同時に相手できる程度の相手を、どうやって彼女がこの数を相手に?
「彼らは、自分の意思で死を選びました。私はそのお手伝いをしただけにすぎません。」
「自分の意思で?お手伝い?どういうことだ。」
「……物凄く端的に言えば、私、魔物と会話できるのです。」
彼女は語った。彼女は何故か魔物と会話できることを。そして、この森を襲撃してきた暗黒狼達が本当は人肉ではなく、死を望んでいたことを。
そういえば、数週間ぶりに彼女が森の奥から帰って来た時、魔物を連れていた。あれも魔物と会話できる故だったようだ。
「そんな訳で、私は彼らが苦しまぬように上手く殺す術を使いました。これが全てです。」
正直、怪しい所は幾つもあった。
何故魔物と会話ができるのか、どうして危険を冒してまで暗黒狼と会話しようと思ったのか。
通信機を誤魔化してまで自分の痕跡を隠そうとした理由も、そもそも『苦しまぬように上手く殺す術』とは何か。
分からない事ばかりで、通常なら間髪入れずに彼女を問い詰めていただろう。
しかし、今は何故かそんな気分になれなかった。
夜にも関わらずやたらと明るい月に狂わされたか、それとも彼女の瞳に魅入られたか……
再び周りを見渡すと、確かに眠る狼たちは皆どこか幸せそうだった。戦場の強張った顔ではなく、どこまでも穏やかで優しく、魔物のこんな顔は今までの人生で一度だって見たことが無かった。
そんな中心部に居る彼女――ミストは、最早今まで自分が守ろうとしてきた無力な少女ではなく、大きな狼を従える神の遣いと言う表現の方が正しい。
「君は天使なのか?」
そんな素っ頓狂なシースの質問に対し、ミストは一瞬呆気にとられ、そして再びクスリと笑った。
「私が天使に見えます?」
「天使なんて見たことがない。ただ俺の知っている言葉の中で、今の君を表現するには最も妥当だ。」
「そんな訳ないでしょう、どうして天使が地上に居ると思うの?」
彼女はあっさりと否定し、目を細めた。表情は笑っているが、目だけが鋭い。
「あまりに現実味が無さ過ぎた。いや、そもそもこれは現実なのか?君が言っていることが本当だとして、それでもこんな出来事自体が夢だと言った方が余程現実味がある。」
「どっちでもいいでしょう、そんなことは。」
「いや、それでも1つ聞いておきたい。はっきりさせておきたい。――君は一体、何者なんだ?」
「私はミスト。冒険者よ。」
明らかに人間でない何か。シースはそんなものを感じ取った。
自分とは全く異なる異質の存在が、人間の皮を纏っている。もしかしたら本当に天使かもしれないし、或いは高度な魔物なのかもしれない。
だが、それでも本人が冒険者だと名乗るのならば、それ以上は問い詰められない。
有無を言わさぬ圧が、彼女から放たれている。シースはそれに気圧され、疑念を抱く余地などない。
自分よりも小さく無力であった少女はもういない。
目の前にいるのは、自分よりも遥かに多くの狼たちを討伐した――救済した立派な冒険者だ。
シースは理解することを諦めた。
それは現実を受け入れたということでもあるし、見ない様に目を伏せたということでもある。
これ以上の追求はできない。する気が起きない。
シースは彼女に笑いかけた。いつも通り、今までと変わらない表情で。
「ギルドには報告しないのか?耳の通信機を壊しただろう、心配していたぞ。」
「ああ、そうでしたね。このことは秘密にしたかったので。私の事の力を公開したら、心無い大人に悪いことに使われてしまうかもしれないでしょう?ね、お願い、秘密にしてくれます?」
ミストのいたずらっ子のような表情に、シースは頷いた。
「ありがとう。このまま狼たちは放っておいて、別の冒険者に後日見つけさせましょう。大丈夫、もう動かないから。私の事は、撤退中に襲われかけて気を失ったとでもいい訳しておいて。」
「わかった、そうしよう。お前が望むなら。」
最早逆らう気等起きなかった。
完全に彼女のペースに呑まれてしまった。
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いつも通りのローブを身に纏い、いつも通り長い白髪を後ろで結わえる。
これで準備はばっちりだ。
「グリハ、ミズハ、ご飯だよ。」
眠い眼をこすっている使い魔たちの名を呼び、昨日森でこっそり拾ってきたモノを放り投げる。彼らは餌に飛びつく犬の様に、綺麗にキャッチして見せた。
彼らが雑食で、何でも食せるのは幸いだった。腐りかけの死肉でも美味しそうに一心不乱に食している。
ご飯の後はギルドに向かわねば。
いつも通り宿屋のおばさんに手を振り、いつもの道を通ってギルドへ向かう。
待ちゆく人々の顔はどことなく疲れていながらも、希望の光はしっかりと宿っている。
「おかえりなさいませ!あらミストちゃん、調子はどう?この間は大変だったもんね、もう回復した?」
「ありがとうございます。大丈夫です、もう仕事に戻れます。」
私は偵察からの撤退中に狼に見つかって必死に逃げるうちに転んで気絶し、そこをシースが見つけてくれたということになっている。
シースも一緒に話しを合わせてくれたのでギルド側も特に疑うこともせず、ただ無事でよかったと喜んでくれた。
いつも通りの受付嬢の笑顔に、いつも通りの酒場の活気。
全てがいつも通の日常に戻った。この街の平和は守られたのだ。
これも全て、冒険者たちが必死にこの街を守った結果だ。
勿論、その代償は高かった。
沢山の犠牲を出したために以前より冒険者の数は減った。しかし、彼らは町を守った英雄として祀られ、街の端に立派な墓が用意された。
彼らの遺族には莫大な報酬が領主より与えられたので、暫く生活に困ることは無いだろう。勿論生きている冒険者達にも報酬は用意された。
御陰で、私の懐は随分と潤っている。
更に、身を挺して皆を守った彼らに憧れて、新たに冒険者として志願してくる若者も出てきた。私の見た目年齢よりはずっと大人びているが、まだ青年と呼べるような年齢の子等だ。
彼らは若いうちに年上の冒険者達にしごかれ、将来は良き冒険者になるだろう。
こうやって冒険者の数は維持されるらしい。
「シースさん、こんにちは。」
「こんにちは、ミスト。元気か?」
「ええ、元気よ。」
シースは眉尻を下げた。
あの出来事から、シースの私に対する態度が変わったことは無い。記憶に蓋をして、見なかったことにしているのだろう。或いは、夢の中の出来事として処理しているのだろう。
私はあくまで若手冒険者であり、それ以外の何物でもない。そう彼は認識してくれているようだし、あの夜の出来事を誰にも話すことはないだろう。
それでいい、ありがたい。まあ、罪悪感が無いと言えば嘘になるけれど。
「あのね、シースさん。私、この街を出ようと思うのです。」
私の言葉に、シースは一瞬目を大きく開いたが、直ぐに元の穏やかな顔に戻った。
「そうか、やっぱり君は外に出るんだね。」
「予想していました?」
「まあな。この街じゃあやれることも学べることも限られてくる。お前は前、俺に言っただろう。やりたいことがあると。」
「……言いましたっけ?」
「言っていた。やりたいことがあるならやればいい。俺は寂しいけどな。」
シースは手にしていたビールをぐいっと持ち上げた。
昼からビールだなんて、珍しい。今日は休みだろうが、きっと理由はそれだけじゃない。
「何でもお見通しですね。その通り、私にはやりたいことがあります。そのために、この広い世界を見て回ろうと思うのです。」
「使い魔たちは連れていくのか?」
「はい。ね、貴方達。」
連れていたグリハは私の言葉に頷き、水筒に入ったミズハはちゃぽんと音を立てた。
「本当に仲がいいんだな。お前は魔物使いとして大成するよ、或いは魔法使いとして。冒険者証はしっかり持っていけよ、この大陸内であればどんな地でも身分証として使える。身寄りがないなら尚更それを持っていないと、どこにも入れてもらえないからな。」
「はい、そうします。……たまには、この街に戻ってきますね。」
別れは随分とあっさりしていた。
さよならもまたね、も言わなかった。
ただ互いに無言で手を振り、そのまま目線を逸らした。
受付嬢にも街を離れると伝えると寂しそうにしていたが、止めることはしなかった。
冒険者とは本来流れ者であり、留まることなく移動し続ける職業だ。故に、冒険者が冒険することを彼女等に止める権利はない。
手続きは何もない。ただ本能の赴くままに色々な場所に行けばいい、背を押してくれた。
私は、目覚めてから実に色々な事を経験してきた。
魔物と会話して仲間に引き込んだり、狂った魔物と戦闘したり、精霊を取り込んで地脈を操ったり。
しかし、この世界にはまだ分からないことも多い。何より、私は力を付けなければならない。
全ては、天界にいる天使達に復讐するために。
私はこの街の外に出なければならない。
しかし、どこか期待もしている。
私が長い間眠っていた間に、世界はどのように変わったのか。人は何を考え、何を作ったのか。
魔物や竜は何故生まれたのか、精霊はどこに姿を消したのか。
そして何より、天使について。
何だって知れるものなら知りたい。聖龍は人一倍好奇心は強いのだ。
「さて、グリハ、ミズハ、行こうか。」
ギルドを出ると、力強い太陽が私を照らしていた。
まるで、私の決断を歓迎する様に。
第1章完結です。
暫くプロット作りに専念します。