15
「どうしてあの狼たちを治したか、ですって?」
「ギャ。」
ゴブリンは干しブドウを齧りながら頷いた。
一部始終を見ていたゴブリンは、私が影狼たちを見逃しただけでなく、治療したことを不思議に思っていた。
他者を治療する回復魔法は人間の中でも限られた者しか使えず、ましてや魔物には無理だ。自己回復に頼るしかない魔物にとって、回復魔法なんて貴重な事この上ない。
そんな貴重なものを使うのは、何か裏があるせいだと疑っているのだ。
「別に、理由なんて無いわ。貴方にとっては貴重な魔法でも、私にとっては呼吸よりも自然に使える魔法よ。昔いっぱい練習したからね。……それより、今後もあんな調子じゃ進むのに時間がかかりそうね。」
魔物を殺せるなら早く済む話だが、殺さず何とかいなすとなると時間がかかる。
さっきみたいに話して分かる相手ならいいけれど、狂った魔物は無理だろう。そうなったら、やっぱり峰内で逃がすか気絶させるしかない。
「ギ、ギイ?」
そういえば、あの影狼とは何を話していたのか?とゴブリンは首を傾げた。あの時話が通じ合っていたのは私とボスだけで、ゴブリンはボスが何を話しているのか分からなかったらしい。
「あの子の鼻がいいわねって話よ。ああ、あと狂った原因は森の奥で死体を食したせいだとも言ってたわね。大丈夫よ、貴方達は私の加護があるからいくら食べても狂わないわ、多分。……それにしても静かね、ゴブリン、貴方何か話してよ。」
突然の無茶振りに驚きながらも、ゴブリンは故郷の話について熱く語ってくれた。
まあ、何を話してもゴブリン語だったせいで半分も分からなかったけれど、彼が楽しそうだったので良かった。
ゴブリンもいつかあの影狼ボスみたいに意思疎通が簡単にできるようにならないかな。
森は嘘のように静かだった。それは囀る小鳥がいないせいだと気づいたのは、ゴブリンが話疲れて黙った時だ。
強い魔物が後先考えず暴れたせいで、小さな生き物は住処を失った。
小さな生き物がいなくなれば、それを食べて生きている強い魔物もいずれ死ぬ。
「……もうここまできたら、原因を止めても中々戻らないかもね。」
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森の中を進み始めてから数日が経った。
太陽と星で常に方角を意識しているおかげで、今のところ地図通りに真っすぐ進めている。
相変わらず魔族と遭遇する回数は多いが、魔法で脅すと大抵の小型魔物は逃げていくので戦闘にまで発展することは少ない。
……はずだったが、随分と森の奥まで来たせいで、比較的臆病な小型魔物よりも中型魔物が多くなってきた。
中型魔物は脅しても逃げていかない。寧ろ攻撃性を刺激されて戦闘モードに入ることが殆どだ。
そうすると、相手を殺す手段を持たない私は逃げる他なくなってしまう。
正に、今がその状況だ。
後ろからの轟音に振り向くと、巨大な大木がこちらに飛んできていた。
何とか横に逸れて避けると、その隙を狙っていたとばかりに巨大な影が襲い掛かってきた。
太陽光をさえぎるように頭上から降ってきたそれは鋭く光る先端を振り上げ、こちらに勢いよく振り下ろした。
宙に浮く能力がなければ、体勢が取れずに串刺しになっていただろう。己の能力に感謝しながらも前方へ飛んで避けた。
「シャアアア!!」
「流石に言葉は通じなさそうだし、これだけ逃げても追いかけてくるなら返り討ちにするしかないわね。」
目の前に立ち塞がっているのは、馬車を容易く蹴り飛ばせそうなサイズの大蜘蛛だった。
真っ黒な体にまばらな鮮紅の目が8つ。体の金属のような鈍い光沢を放ち、脚同士が擦れ合う度に固い耳障りな高音が鳴り響く。
特徴だけ羅列すれば、この化け物は"金属蜘蛛"という中型魔物に違いない。生息地もここら辺のはずだ。
だが、その姿は図鑑で見たものとは大きく異なっていた。
重そうな頭部と今にも破裂しそうな程膨らんだ腹部を、大小バラバラな無数の脚が支えている。通常の8本どころじゃない。腹から、頭から、地面につかない程小さな腕まで沢山生えている。
ここまでくると虫ですらなく、ただの異形だ。
獲物を捕らえるはずの瞳は常にぎょろぎょろと明後日の方向を睨みつけ、最早こいつ自身に意識があるのかも定かでない。
勿論、ただ逃げているだけじゃない。隙をついては魔法を撃ってちゃんと応戦している。それなのに、硬い身体の表面で弾かれてしまうのだ。
身体が金属の様に硬いせいで物理攻撃が効かないことは知っているが、弱点であるはずの炎魔法すら効かず、全く怯む様子がない。
「困ったわ、これじゃあ永遠に追いかけ回されるしかないじゃないの。」
殺意を感じて屈むと、頭上を巨大な枝が掠めていく。
巨大な影が降ってきた瞬間反射的に顔を上げると、大蜘蛛の鋭い牙がこちらに迫ってきていた。何とか魔法壁で弾き、空を噛んだ隙に加速して距離を取る。
「炎もダメ、水もダメ。風はどう見ても通らなさそうだし、後は……氷?」
後ろの轟音に反応して横に逸れると、大木が前方へ爆速で転がって行った。
周囲の木々を破壊して投げつけてくるなんて、やってることが出鱈目だ。
飛んできた大木を避けた先に、金属蜘蛛が飛び掛かってきた。
即座に避けるが、大木に目を取られていたせいで反応が遅れてしまった。後ろに背負っていたゴブリンの腕が脚先に引っかかり、引き裂かれて鮮血が飛び散る。
「ギャアア!」
ゴブリンの悲鳴が響き渡るが、まだ命に別状はないはず。
蜘蛛はゴブリンの血の匂いにつられ、一瞬動きを止めた。8つの目が飛び散った血の方へ流れた。
チャンスだ。
巨大な体を支えている脚は無数にあるが、その中でも特に太い脚が目の前にある。
瞬時に魔力を込め、冷気に変換してその関節部分に浴びせてやる。
蜘蛛の意識がこちらに戻ってきた瞬間には、再び加速して距離を取っていく。
すると、追いかけようとした蜘蛛は自身の脚が上手く動かずバランスを崩し、その勢いのまま前にこけてひっくり返った。
パンパンに膨らんだ腹部が押しつぶされるような感覚に悲鳴をあげ、無数の脚をばたつかせている。しかし、起き上がるのには時間がかかりそうだ。
「今のうち!」
背中に背負ったゴブリンは片腕を痛めながらもしっかり捕まっている。スライムは私の背中とゴブリンの腹の隙間に上手く挟まっている。
多少重いが、どうせ重力を無視して飛べるのだから関係ない。
木々の間を縫うように飛び回り、耳をつんざくような蜘蛛の悲鳴が聞こえなくなる頃になって、ようやく一息つくことができた。
「全く、さっきから何度も狂った魔物に遭遇してるわね。特にあの蜘蛛は危なかったわ。」
辺り一面の栄養を吸い取って更地に変えた挙句ツルを振り回している食肉植物や、額から血を流しながらも突進をやめないイノシシ。
それでも食肉植物は放っておけば栄養不足で勝手に死ぬだろうし、イノシシも失血死間近で目が見えてないからすぐに逃げ切れた。
ただし、あの蜘蛛だけはしつこかった。周りの草木を蹴散らし、岩で身を削りながらひたすらたまたま縄張りを通りがかっただけの私達を追いかけ続けてきた。
やっぱりこの森の狂気は精神面だけでなく肉体面でも変化をもたらすらしい。
「この調子じゃ奥に行くのは時間かかりそうね。……あ、ゴブリン動かないで。」
ゴブリンの腕の傷はそれ程深くない。10秒程度手をかざせば、傷跡なんて元からなかったかのように綺麗さっぱり消えてしまった。
「ギギ!……グルル、グギャ?」
「どういたしまして。……どうしたの、何か見つけたの?」
治療を受けたゴブリンは私の背後を指さした。
つられて後ろを見ると、森の木々の間の僅かな隙間から、何やら異質な風景が見えた気がした。木陰が途切れて、太陽光が地上へ降り注いだ明るい空間だ。
警戒しながらもゆっくり近づいていくと、漂う異臭と共にそれは段々とはっきり姿を現した。
「これは、住処?」
辺り一面の腐敗した臭いに思わず鼻を覆う。ゴブリンも顔を顰めている。
森を切り開いて作った広場に、乱雑に積み上げられた木材でできた家のようなものと、石でできた道具のようなもの。
幾つも散らばった毛皮に、バラバラに割れた粘土細工。
そして何よりも、その辺にばらまかれた肉体や骨の破片と、辺り一面に広がった黒ずんだ血の跡。
それらは全て、ここの元住人が残虐に殺されたことを物語っている。
「建造物の形式、死体の姿から見るに……ここはオークの集落だね。」
オークは豚と悪魔が入り混じったような二足歩行の中型魔物だ。ゴブリンと同じく集団で生活をする習性がある。
その力は強く、大木を殴って倒せるほどだと言われている一方で、動きは非常に遅く鈍い。
他の肉食魔物とは折り合いが悪い為、互いに生息域を避けているそうだが……私達は大分遠くに来たようだ。
「こんな不気味なところ、直ぐに離れたい気持ちはあるけれど。スライム、貴方お腹空いているんでしょ?そこら中に転がっている死体を食べたいってうずうずしてるじゃない。」
普段よりもスライムが多めに跳ね回り、小刻みに震えている。
スライムの主食は他の肉食魔物の食べ残し。凄惨な光景もこの子から見ればご馳走の山らしい。
周囲に魔物がいないことを確認してokサインを出すと、スライムは早速一番近くの死体に飛びついた。
透明な体の中で、赤黒い血肉がじわじわと融けて取り込まれていく。
死体を全て融かしたら隣の死体へ。余すことなく栄養に変えていくスライムを見ていると、彼らが"森の掃除人"と呼ばれているのも頷ける。
一方で、ゴブリンは集落内に貯め込んでいたであろう物資を探しに行っている。
小さい体で倒壊しかけた家の中に潜り込み、保存肉や木の実、光物を次々と見つけては私に見せに来た。
臭いも光景も慣れたようで、特に何も臆することなく動き回っている。
そういえば、ゴブリンとオークは縄張りや物資を奪い合う天敵同士だっけ。図鑑にそんなことが書いてあった気がする。
普通に力だけならオークが強い一方で、動きは案外ゴブリンの方が素早く、ゴブリンの集団相手だとオークが負けることも多いとか。
ゴブリンは天敵の滅んだ住処を漁っているせいか、寧ろどことなく楽しそうだ。
何とも魔物らしい、人間とは違う感性や残虐性をちゃんと持っている。
「さて、そろそろここを離れないと、この臭いに誘われて別の魔物が寄ってくるかも……あら。」
スライムが粗方オークの残骸を食べ終え、ゴブリンに手渡された食料と宝石で鞄がいっぱいになった頃合いを見計らって立ち上がると、何かが探知に引っかかった。
ゴブリンやスライムよりも大きく、歪んだ魂。明らかに狂った魔物だ。こちらに一直線に歩いてきている。
離れるのが遅かったか、向こうも魔力探知で誰かがこの集落に居ることに気づいている。
少し離れた所に居るゴブリンとスライムに目配せし、物陰に潜むように指示した。
そして特大の魔力弾をいくつも撃ち出し、それを集落中に沢山ばらまいておく。こうすることで、魔力の低い2匹を魔力探知から隠すことができる。
中級冒険者が初級冒険者を逃がす時に使う手だ、冒険者になる前の魔物対策講座を真面目に聞いておいてよかった。
さて、どうやって迎え撃とうか。開けた土地が吉と出るか、凶と出るか。
集落に近づいてきた影は、重い足音と共に姿を現した。
ゴブリンよりも濃い緑色の肌、下顎から上方に飛び出した長い牙、頭部の短い2本の角。
巨大なハンマーを担いだ大柄な肉体に、異常な目つき。
何よりも、所々筋肉が肥大化してボコボコと膨らんでおり、左右で腕の太さも長さも異なっているアンバランスさ。
一目見て分かった。この集落を壊滅させたのは、こいつだ。
オークの狂化個体。それが、今にも襲い掛かろうと私を見つめていた。