飢える銀瞳の獣
「はあはあはあ……逃げ切ったか?」
あの恐怖の羽音はしない。どうやら彼らのテリトリーから無事に抜け出したようだ。あやうく体が風穴だらけになるところだよ。
「ふぅ~命びろいしたー」
地面に倒れ込み安堵する。
「これは先行き不安どころじゃない。もうくじけそうだよ。あんなのがそこら中にいるとか反則通り越してエキサイティングだよ……」
背筋に悪寒が走る。
大丈夫だろうな? と聞き耳を立てていると、別の音が流れていることに気づいた。
まさかと思い周囲を見渡し目を見張った。
「――!」
小川のせせらぎが耳に心地よく照り返す日の光が川面を黄金に染め上げていた。
「川だっ!」
川岸に駆け寄り、ひざまずく。
さらさらと流れる川面に手をいれ、その透きとおる水晶のようなきらめきにぼくは歓喜のあまり涙した。
「よかったっ。生きられる。これで生きられるよ」
あっちの生活では水で苦労することなんかなかった。水がこんなにありがたいなんて。ぼくは輝く水を両手で掬いとり口もとに運んだ。
こっちの世界に来て初めての水だ。
――旨いっ。
「水が、こんなに旨いなんて知らなかった。うん旨いっ。旨いよっ」
『スキル【新商品】により水を獲得』
「――――ん、何か声が。スキル? 水がどうこうって……」
そこで初めて気づいた。川面に見知らぬ誰かが映っている。
随分と幼い顔をしている。見たところ小学生から中学生あたりの男の子だ。
「誰だ!?」
背後を振り向いた。
しかしそこには誰もいない。
「??――」
もう一度川面を覗き込む。
そこにはやはり幼い顔をした男の子が映っていた。どこか見覚えがあるから不思議だ。男の子のほうもこちらを不思議そうに見ている。
そこで電気が走ったように思い立った。
「――、そういえば」
『まあ――ついでに少しだけ若返らせてあげられるわね――』
女神様は確かにそう言っていた。
「見覚えがあって当然だよ。これ小学生の頃のぼくだ」
いや女神様少しだけって言ってなかった? ぼくは二十歳くらいを想定してたんだが、これ十二歳くらいだよ。若返りすぎでしょ。
あの女神とことんふざけている。エリートっぽいてのは取り消す。とんだポンコツなんじゃないか?
「ま、細かいことはこの際、気にしないことにしようとにかく水は確保できたんだ。1度、小屋に戻ろ……」
そこでふと気づいた。
「ここ、どこだっけ? ぼく、どっちから来たっけ?……一心不乱に逃げてたからもはやここがどこかわからない」
水は発見できたけど、今度は帰り道がわからず暗礁に乗り上げた。
気づけば空は茜色に染まっている。流れる雲を眺めながら羨ましく呟く。
「あー、ぼくが雲だったらこの森を見下ろせて小屋までの帰り道がわかるのに」
そんなことを泣きそうになりながらつぶやいてると、背後から音がした。
反射的に鉈を持つ手に力を込める。「……蜂か?」森の陰から姿を現したのは鋭い銀瞳を持つ斑もようの一匹の獣であった。その銀瞳の獣はふらふらとした足取りでこちらに近づいてきていた。
その姿はまるで――、
「猫?」
見た目は完全に猫である。ぼくは鉈を構えた。
ここは異世界だ。そしてこんな森にあっちの世界のいわゆる猫がいるはずもない。
きっとモンスターに違いない。
猫(仮)は銀色の眼を異様にぎらつかせながらこちらにふらふらと近づいてきて、辿り着く前にパタリと倒れた。
「……あれ?」
ぼくは慎重に猫(仮)に近づき鉈でちょいちょいと揺すってみる。
ピクリとも動かない。
「死んだ、のかな?」
「にゃ~……」
弱々しい鳴き声が口もとから漏れ出てきた。まだ息はあるようだ。見たところ傷はないようだけど。
なんかの病気? ここは川だ……あっもしかして、水が欲しかったのか?
「……」
どうする? 助けるか? いやでも、息を吹き返して襲われでもしたらこちとら小学生だ。一見してあっちの世界の猫と大差ない大きさだけど……小学生の頃に一度近所の家の飼い猫に餌をあげようとしたらそれはもうものすごい勢いで飛び掛かられなす統べなくエサを奪い取られた記憶がある。
見た目が可愛いからといって決して侮ってはいけないのだ。
「にゃ~……」
猫(仮)は目を開く力もないのか弱々しく鳴くばかり。見れば斑だと思ったのは体毛が泥やなにやらで汚れているからのようだ。
「っく、ああもう分かったよ」
ぼくは小川で水を掬い猫(仮)に持って行った。
「ほらっ、飲め」
猫(仮)は一度眼を開くとぼくを見つめ、やがてぺろぺろと水を飲み始めた。
ぼくの手から弱々しく水を飲む猫(仮)を見ていると、変な母性が出てくるから不思議なものだ。
「か、かわいいじゃないか」
「にゃ~~」
「あ、無くなったのか。どうしよう小学生に戻ってるから手がちっちゃいんだ。でも水を汲めるようなものなんか持っていないし、そうだスキルだ! あれ? SPがいつの間にか減ってる。そういえばさっきスキル【新商品】がどうのって、だあぁ今はそんなこと言ってる場合じゃ……っそうだ!」
ぼくは頭に被っているヘルメットを脱いだ。
「これだったらたっぷりと汲めるぞ」
小川から水を並々に汲み猫(仮)に持っていく。ぺちゃぺちゃと音を立てて食いつくように飲み始める。どうやら元気が戻ってきているようだ。
「よかったよかった。いいか? ぼくはおまえの命の恩人だ。元気になったからって決してぼくを襲うんじゃないぞ。わかったか?」
頭を撫でようと手を出すと、猫(仮)「シャーっ」と威嚇したのでやめた。
「…………」
なんだよ。少しくらいいいじゃないかと心中愚痴ってると、急激な腹痛に襲われた。
「ななんだ? 腹が急に、腹が痛いっ、いたっ、いたたたたたっ」
あ、あまりの痛さに意識が朦朧としてきた……。
なにか変な物でも食べただろうか……。いや、そもそもぼくは昼ご飯も食べていない――。
あ、そういやぼく川の水そのまま飲んだ。
……せめて、煮沸するべき、だった。
まずい、こんな所で気絶するわけには……。
視界が暗転した。