第2話 “主人公”
無事、一限目を終え、俺は引き続き二限、三限と“国語教師・作田”を真っ当にこなしていく。
だいぶこの不思議な感覚にも慣れてきた。
それに、朝からの数時間で分かったこともある。
操られているかのような気色悪さは否めないが、黙っていれば俺の体は教師として勝手に動くこと。余計なことさえしなければ、何ら支障はない。
もちろん今朝、上原を困らせたように、俺の意思で自由に動くこともできる。
だが、まだよく“この現実“が分かっていない間は、あまり自我を出さずに、おとなしくしていた方がよさそうだ。
・・・
結局、名前の違和感の原因を突き止めることはできず、五限目の授業まで終える。
これで今日の授業はすべて終了したことになる。
やっと一息つける。授業や生徒達に縛られてさえいなければ、この他人のような体でも多少の気は休まるはずだ。
まずはゆっくりと一人になりたい。俺は真っ先に自宅へと帰ろうとした。
「あれっ、作田先生! どこ行くんですか?」
「──あぁ、一輝か。これから帰るところだ」
突然廊下で男子生徒に話しかけられたが、自然とその子の名前が口から出てきた。
しかも、教師と生徒の関係ながら下の名前で呼ぶということは、それなりに親しい関係性だと思われる。
急ぎ足で帰ろうとする俺を、一輝は慌てて引き留めた。
「帰っちゃうんですか? あの……今日の部活は……」
「部活……?」
なるほど。“作田”は部活動の顧問を担当しているんだな。
だけど、今日は心身共に疲れた。いいだろう、一日くらい休んだって。
「すまない。先生は用があって帰るから、今日は君達だけでやっててくれるか?」
「あ、はい。分かりました」
一輝にそう告げ、俺は再び荷物を取りに職員室へと歩き出した。
これで無事、教師としての一日を終えることができる……
──しかし、そう思った矢先、異変が起きる。俺の目の前に広がる景色が……“色”を失い始めたのだ。
「な、なんだこれ……」
思わず声をあげてしまったが、何やら辺りの様子がおかしい。
年季の入ったひび割れた薄緑のタイルや、クリーム色がかった廊下の壁。
すべてがセピア色へと変貌を遂げている。また、それらは物だけにあらず、すれ違おうとしていた生徒達にまで影響を及ぼしているのである。
「と、止まってる……?」
色を失った二人組で歩いていた女子生徒は、まるで時が止まったかのように完全に停止していた。
何が起きたのか理解が追い付かなかったが、その数秒後、場面は一転する。
廊下にいたはずの俺は、瞬時に先程までいた教室の外へとワープしたのだ。
そして、鳴ったばかりの授業の終わりを知らせるチャイムが校内に響いた。
「これって……もしかして、時間が戻っている?」
そんな馬鹿なことがあるかと、先程と同様に俺は廊下を歩き始めた。
すると、前から一輝がこちらに向かって歩いてくる姿が見える。
すれ違いざまに、一輝は俺に再び声をかけた。
「あれっ、作田先生! どこ行くんですか?」
一文字一句、挙動までも相違ない。これは数分前と全く同じ状況だ。やはり時間が戻っている……
「──あぁ、一輝。ちょっと忘れ物をしてな。一度職員室に戻るところだったんだ」
咄嗟に俺は、先程とは違う解答を選んだ。
理由は分かりはしないが、もしかしたら先程の『帰る』という選択肢が、よくなかったのではないかと判断したからだ。
「そうなんですね。じゃあ僕、先に行ってますね。先生、またあとで!」
「……あぁ」
走っていく一輝を俺は見送るも……特に変わったことは起きない。
また辺りが色を失い始めるのではないかと注意して見ていたが、何も起きる気配はない。時間は刻々と過ぎていく。
この体……色々と制限があるのか? 俺は部活の顧問で、きっと毎日部活に参加している。
あまりにも“作田”の常識から外れることは、俺の意思だけではできないということなのか……?
あくまで俺の推測で、これだけでは断言できない。けれども、たった今、はっきりしたことがある。
やはりこの世界……そして、“この体”……明らかに普通ではない。
・・・
俺はこの後、担当している硬式テニス部の部活動に顧問として参加した。
身を委ねれば、体は勝手に動いてくれるものの、疲労だけはきっちりと感じさせてくれる。
意思はなくても、体は俺そのもの。あまり無理はできなそうだ。
学生の頃は考えてもみなかったけど、教師って大変なんだな……
授業だけでも頭使ってやってんのに、終わったら部活動。これじゃ自分の時間が全然ない……
結局、遅くまで部活は行われ、家に着いたのは夜の十時過ぎだ。
作田は車通勤だったようで、自家用車で帰宅した。
自分の家の場所すら分かるわけないが、そこは同様に、身を任せれば何とかなった。
家は1Kの一人暮らし。近所のコンビニで夜ご飯を買い、家でご飯、風呂を済ませた頃には、すでに十一時を越えていた。
「もうこんな時間か……今日は疲れたな……」
思えば、やっと自由な時間が訪れた。丸一日、朝から演じ続けた“作田”から解放されたのである。
家には自分以外誰もいないし、愚痴ぐらいは溢せそうだ。
「あーーぁっ、くそっ! 一体何なんだ、この世界、この体は! こんなんがずっと続くのか? 勘弁してくれよ……」
未だに自分の身に何が起きているのか、全く把握できていない。
せめて何かストレス発散できる物はないかと部屋を見渡すと、机の上にノートパソコンがあることに気づいた。
「お! いいものあるじゃん」
俺はパソコンの電源を入れ、起動を待つ。
「あーイライラするな……ストレスで爆発寸前だ……そうだ! こんな時は、やっぱ“小説”だよな」
昔から俺は小説が大好きだった。もちろん読むのも好きだが、自分で話を書くことも好きだった。
小説の世界なら、何だってできるんだ。どんな俺の夢も叶えてくれる。正義のヒーロー
にだってなれるし、現実ではありえない、超可愛い彼女だってできる。
ちょっと痛い妄想かもしれないが、現実逃避できる、俺には最高の場所だったんだ。
しかし、パソコン内のどこを探しても、自分が書いた小説が見当たらない。
あるものとすれば、国語の授業に関するもの。いわゆる、その題材は小説であったりするのだが……
俺が探している小説は、“これ”じゃない。
「──ない!! どこにもない!! せっかく地道に書いてきた、俺の小説が……」
だが、ここで俺はようやく、あることに気づく。
「待てよ……もしかして……これって“俺”の記憶? “作田”じゃなく……“俺”の……」
俺は無意識に自作の小説を探していた。
よほど俺は小説が好きだったのだろう。そのことが功を奏したのか、一瞬、“本当の自分”の記憶が甦ったのだ。
そして、僅かに自分を取り戻したと同時に、俺は重要なことを思い出す。
「──作田!! そうか!! 作田って……あの作田か!!」
今まで俺は、ずっとこの『作田』という名前に引っ掛かりを覚えていた。
どこか聞いたことがあり、自分の名前ではないはずなのに、決して自分とは無関係と装えないかのような……
その答えが、はっきりと今、分かったのだ。
「そうだ……“作田 明”。こいつは俺が作り出した、小説の主人公だ!」