第1話 “操り人形”
幼い頃から本の匂いが好きだった。
インクの独特の香りが、妙に俺の心を落ち着かせてくれる。
新品の本を買った際には、読む前に必ず匂いを嗅いでから中身に入るくらいだ。
「──先生……作田先生!」
どこか意識の遠いところで、誰かに名前を呼ばれている気がする。
しかし、俺は今、不思議とインクのいい香りに包まれていた。この幸福の時間を、もっと味わっていたい。それどころではないのだ。
「いい加減に起きなさい! 作田先生!」
そう声が聞こえた瞬間、俺の後頭部に衝撃が走った。
「──痛った!!」
衝撃と共に、俺は正気を取り戻す。
目の前には、学校の職員室の景色が広がっていた。
「相当お疲れのようですね。開いた教科書の上で寝るだなんて」
「──梅野先生……す、すみません……」
どうやら俺は職員室で居眠りをしていたようだ。
開きっぱなしの、国語の教科書を枕代わりにして。
「今はいいですけど……生徒の前ではしっかり頼みますよ」
「はい……」
机の上には、何冊もの教科書が並んでいた。一番手前に、一際目立つ大きさの国語辞典が置かれている。
もしかして、こんな分厚い本で俺の頭を叩いたのか? どおりで痛いはずだ。
何も、そこまでしなくてもいいのに……
「珍しいな作田。こんなとこで居眠りするなんてよ」
そう馴れ馴れしく声をかけてきたのは、隣に座る同僚の達也だ。
「──達也」
「やめろよ。学校の中じゃよ。上原で頼むわ」
「あ、そうか。わりぃ、上原先生。それにしても、まだ痛い……頭がボーッとする」
「大袈裟なやつだな。ほら、シャキッとしろ。お前の気になる相澤先生……こっち見て笑ってるぜ」
ぼそりと耳打ちした達也の目配せに、俺も目線を合わせる。
対面に座る右隣の席には、俺が想いを寄せる相澤先生の姿があった。
相澤先生は、こっぴどく叱られた俺の姿を見て、手で口を抑えながら、くすりと笑っている。
うわっ……やっちまった……また俺のイメージが下がる……
俺がしょげていると、間もなくしてチャイムが鳴り響いた。
「──よし、行くか。作田先生ものんびりしてないで行くぞ」
気だるそうにして達也……いや、上原は立ち上がった。
何となく予想は着いていたが、まだ完全に状況を飲み込めていない俺は、念のために上原に尋ねる。
「行くって……どこに」
「授業に決まってんだろ。まだ寝ぼけてんのか? ほれ」
そう言って上原は、机の上に開きっぱなしだった“国語”の教科書を閉じて俺に手渡す。
「あ、あぁ」
何だろう……この違和感は……
俺が国語の教師? 俺って……本当に教師だったっけ?
妙な疑問を残したまま、俺は上原に着いていくように後ろを歩いていった。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
廊下ですれ違う生徒達から、挨拶をされる。それに対して、少し偉そうに上原は挨拶を返す。
教師と生徒という立場なら、何らおかしいことではないのかもしれない。
生徒達は皆制服を着ており、見た目からしても、まだまだ子供だ。恐らく中学生といったところだろう。
高校生にしては幼すぎるし、例え小学生なら制服である確率は低い。
「作田先生、おはようございます」
ふと横を通った女子生徒が、俺を名指しで挨拶をしてきた。
「……おう、おはよう」
どこか照れ臭さは残るが、上原のように少し偉そうに返してみる。
今の俺からすれば、すべてが違和感に思えるが、きっとこれが“俺の日常”なのだろう。
そもそも、この景色だけじゃない。先程から何度も呼ばれている──“作田”。
この名前にすら疑問を感じているのだ。
俺は本当に、“作田”なのだろうか……?
比較的話しやすく、交遊関係がありそうな上原に、俺は背後から小声で尋ねた。
「なぁ、俺って……作田……なんだよな?」
上原は軽く振り返り、呆れた顔で答える。
「何当たり前のこと言ってんだよ。おまえの名前は“作田 明”だろ? 何だか今日のおまえおかしいぞ?」
作田 明……どこかで聞いた覚えがある。そりゃ俺の名前なんだから、当たり前だが……
違う……どこか違う気がする。俺の名前は作田ではないはずなんだ……
なぜか引っ掛かりを覚えるも『作田』と呼ばれれば無意識に返事をしてしまう。
仲のいい同僚の上原、想いを寄せる相澤先生……今日初めて会ったはずなのに、そう俺の中で認識することができる。何なんだこの違和感は……
どう説明していいか分からないほどの、もどかしさ。
俺は考え込んでいた。下を向きながら上原の後ろをひたすらに着いていく。
「……おい。作田。どこまで着いてくるつもりだ」
「──えっ?」
気づくと俺達は二階の教室の端まで来ており、『二年一組』の前だった。
「おまえ今日の一限目は三組だろ? 担任のクラスの場所も忘れちまったのか?」
「あ、あぁ……そうだった。わりぃわりぃ」
俺はすぐさま廊下を引き返そうとするが、今のやり取りを見ていたと思われる女子生徒二人が、俺を茶化し始めていた。
「何あれ、作田先生ボケちゃったのかな……?」
「ボケるにしては早くない? やっば! こっち見てる……!」
悪口が本人にバレたと思った女子生徒は、そそくさと逃げるように自分達の教室へと走っていった。
は、恥ずかしい……あんな若い子にバカにされるなんて……
いくつになっても、女子にバカにされるのは避けたいものだ。
例え相手が幼かろうと、カッコ悪いところは見られたくない。これは男の性だろうか。
俺の持ち場は三組なんだな。とにかく、今は急がなきゃ……
納得できるものは何一つ俺にはなかった。だが、今の状況を受け入れるしかない。
“俺は国語の教師”、“俺は二年三組の担任”──そう心の中で、自分自身に言い聞かせた。
不安さながらに三組の教室を開けると、日直の起立の号令がかかった。
俺は緊張しながらも、教壇の上に立つ。
国語の教師と言われても、一体何をしたらいいのか分からない。急にこの場に放り出されたに等しいのだから。
きっとまごまごとし、何もできず完全な“事故”になるに違いない……
嫌だ……またバカにされる……もう女子に笑われたくない!
俺は諦めていた。卑下される心の準備をしていた。
しかし、不思議なことに俺の口は、意思とは別にペラペラと喋り始める。
「よーし、前回の続きからやるぞー。教科書の五十七ページを開いて」
──えっ……何だこれ? 体が……口が……勝手に動く……?
俺の心配とは裏腹に、見事に国語教師をこなしてみせたのだ。
自分の意思にそぐわぬ体の動き……まるで操り人形になったかのようだった。