夢を見た
フラグだったらぶった切りのために書いといてみる
私達家族がタイに本格移住(日本からタイへの完全引っ越し)のために、日本の家は売っていた。
買い叩かれた値段だったが、マンションと建売以外は売り物にならない時代なので仕方がなかった。ネットで見ても、近隣の物件、妥当な額を付けてもずっと売れないような有様だったので。
何が私に今朝の夢をみさせたのかわからない。
311の時のように、何かの警鐘なのか、はたまた、実家の残滓が見せたものだったのか・・
もしくは、嫁の日本(住んでいた家及びその生活)に対する名残り惜しさからだろうか
何か日本に行かねばならない用事が出来て渡航した。
偶然、都内で元近所の人に会った。(昔も営業周りしている時に近所の人に偶然会ったりしたこともあるので不自然ではない。東京たって、実際狭いものだ)
その人が言うには、元の実家はリノベーションして新しい持ち主が住んでるとのこと。
「**が住んでたときとあまりかわらないよ」
とのことだったので、ひと目だけ見に行こうという気が起きた。
家がそのまま残っているのだけ確認したかった。取り壊されてない、ということを自分で確認したかったのだろう。
駅からバスには乗らずに歩いていく。この道程も懐かしいものだ。終バス後に駅に着いた時は歩きしかなかったので、よく歩いたものだった。嫁もよく歩いていた。バスに乗る必要性がなければ歩いていたのだ。
元家に近くにあるスーパーも昔のまま。
と、近所のおばさんと会った。
「**の奥さんの引越し先聞いている?お子さんと犬と住んでるわよ、早く迎えに行ってあげなさいね」
という話。
そこで急に”思い出した”。
あ、残してきたんだったっけ
新興住宅地の方だったので昔と比べて様変わりしている、というので、道を聞いて行ってみる。
迷ってると、偶然妻が居た。買い物に出た様子。
やっと迎えに来てくれたの、と侘しげに。
妻に付いていくと、新築のアパート。今風の小さな部屋。1K。
小さな低い棚みたいな場所に赤子篭。その中に昔のまんまの赤子。
あ、、、
その赤子に触れる私を警戒してか、室内犬が側で子供を見て尻尾を振っている。
この子(犬)も大きくなったな、赤ん坊だったのに。
過去の記憶の最後で会った時は、まだ手に乗るくらいの小ささだった犬。
子供を抱き上げる。
(やっと来たか。もう我は消えるから、迎えに来てもらった。)赤子の意思が心に入ってくる。
そう、嫁と2人でいるのが寂しく、神?が与えた赤子だった。ひとではないので成長しなかったのだろう。
(嫁は?)と赤子に尋ねる。バンコクにも嫁が居る。同一人物。分裂していることになる。
(・・・・消える)赤子
(向こうに着いてからじゃ、だめかな?)俺
(・・・・よかろう)赤子
バンコクの嫁に連絡し、到着便を教えて迎えに来て貰う約束ができた。通常こんな必要のないめんどくさいことを嫁はやらない。通常なら「自分で帰ってこい」と取り合わないだろう。
が、
わかるのだろうか、なにかの力なのだろうか、すんなり了承した。また、その約束は守られるだろうと思った。
便が出るまでの数日、何をして何を言ったかなど覚えては居ない。が、犬は良い人に里子に成ってもらった。それ以外は3人で食事したり散歩したり、だったみたいだ。
バンコクの空港、カスタムもスルー(荷物がほぼ無い)で壁の向こうに出た
横にいた嫁が微笑んだと思ったら、消えた。
柵の向こうにはバンコクの嫁が迎えに来ていたのが見えた。
赤子も衣類含めて消え去っている。
作の向こうに呆然とする嫁(バンコク側)、
駆け寄る前に、崩れ落ちる
実家側の嫁の記憶が流れ込んだのだ、とわかった。
しゃがんで泣きじゃくる嫁を抱きながら、俺も泣いた。
どれだけの期間、赤子と2人+犬のみで寂しい思いをしていたのだろうか。
自分が消えると判ってて、でも、こっちの自分を見て「やっと戻れる」と思ったような、一瞬輝いたような笑みだったな、と思い返す。
いなければ、嫁は犬とだけではおかしくなっていただろう、逆に嫁を見ていてくれた赤子。
いつ、向こうの嫁に別れたのかわからない。
私が家を引き渡すとき、最後に家を出たときかもしれない。
どうやって暮らしていたのかも知らない。
嫁は実家近くで働いたことがある。3箇所で。3つ目はタイに戻るから退職する、というギリギリまで5年ほど働いた。他の者達(日本人や外人)が週4−5日なのに、嫁はできれば7日働いてほしい、と言われるほどだった。が、過労がひどすぎる時は私が嫁の勤め先の上司に電話して強制で休ませていた。
そしてわかった。
実家側嫁の記憶は、私達夫婦以外のそれは消えているだろうことを。
近所の人も、多分、そんな記憶は無いだろう。
これは、今朝の夢だった。
初夢がコレ? って感じだよな?
でも、目醒めたとき、泣いた。
ごめん、長く寂しかったよな、早く迎えに行かなくってごめん、
ーーー
今年、日本は何事もなく過ぎてほしいものだ。
昔から、日本には悪神が多く、また、全日本を範囲とする神も、特に何するという意思が多いわけでもなかった。
そこで、我が国を守ってください、とお願いするのが巫女としての天皇一族の仕事だった。
日本の天と通ずるのは唯一この一族だけだった。卑弥呼系なのかどーかは知らん。
「だった」と書いた。
今はその力も「削がれて」しまってほぼ・・・
何に削がれた?
周囲にいる者達の汚れが酷すぎだから。+、国の有力者達の汚れもかつて無く酷すぎるから。
神事を行ってもほぼ・・・
ただ、
元旦にだけは、今年あるであろう凶事を警告する、ということだけはしてくれている様子だ。
ただそれだけは、未だ行ってくれている様子。
一人でも多くの人が近隣の神社でいいから、短い祝詞でいいから上げて、日本の神の存在に感謝してほしい。それが多ければ、回避できるかもしれない。
中には自覚なしに、それなりの力を持っている者も少なくない。そういう者が祈ってくれれば万人分に匹敵するだろう。
ついでにちょっと寄る、程度でいいから、
自分の欲のお願いではなく、
短くてもよいから(可能なら長いやつ)祝詞と感謝、を。
で、大半は「キチ?」とか思うだろう、今回のは。
でも、
「なんか、わかる」
と少しでも感じた者は、力が一般よりもかなり多めです。なので強力ヨロ!
いつものごとく、モブ共にキチとか思われようが関係ないのだ。判る人だけに届けば良い。
じじぃだから先が長くないのわかってるんで焦ってんだよ! w
少しでも多く発掘(自覚)させてーんだよw
2025,11,16 追記
久々の実家(売ってしまってる家)だ。長く放置していたため、カーテンなど縦に裂けてたり・・。
何かの用事で仕方なく実家に戻った様子。当然誰も居ない・・
日も暮れてたので灯りかんかんだと中丸見えだしまぶしいだろうし、と、居間の開いていた掃き出し窓(2間)を閉めてそのぼろぼろカーテンをそろーっとしめなきゃな、、
そのとき
ほらほら、いろいろまだでしょ!、みたいな感じで小さい女の子が郵便受けから持ってきてくれたり、玄関から中に入って
一緒にカーテンを閉めはじめ、
ああ、子供を残してきたんだった、、と「わかった」。
で、
お隣さんの車が戻ってきた。あー面倒かな?と一瞬思う。良い人たちだが自分は近所付き合いは「やりかたぎょくわからん」ので苦手なのだ。
が、****さーん帰ってきたの?と裏口の外から声かけてきて、
++さんなら?、++さんならPPPねー!、\\さんなら?、\\さんなら>>かなー、
と、自分には意味不明な掛け合い?みたいのをお隣のおばさん(自分より半周り以上うえ)と「私の娘」が始めた。
??と思ってたら、(近隣の人たちの)好きなものよ!、と娘が教えてくれた。それらを用意して宴会でも、というのだろうか。
というか、娘はそこまでご近所さんたちから面倒見てもらっていた、だから幼子一人でやってこられた、のであろう、とわかった。
場面変わり
前の話の「赤子」がおさな子にそだってイマココ、となったらしい。
一人放置してしまった、どれだけ心細かったろう、よくここまで頑張ってくれた、とその心細さなどいろいろ可哀想になり涙ながら思い切り抱きしめた。
(・・あたらしい、別の世界、つくってもらったろ?)
前の話の「残してきた嫁の居た世界」のこと
(あそこを見てるのだ)
所謂ひとが言うところの神様みたいな立場らしい
あのあとのことは記していないが、少し後にわかったのだ、あの世界はあり、できたてで、あの赤子がその世界だと。
当時わかったのは、その世界はちいさいものなのか、感知できる範囲はそう大きいものではなかった。
他には、物理空間ができたばかりのところ、
また他に、物理空間+光ができたばかりのところ、
そして我々の現実である世界。
物理界は、この4つしか感じられていない。
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「向こう側」とは精神で関わることしかできない。
夢を見るのと同じようなものだが、明らかに違うものだ。
(もし、同じ様に「夢のようだが、夢とは明らかにチガウなにか」を見た者は、その記憶を大切にして置くがいい。)
なにかに憤るのもよい。何かを愛おしく思うのもよい。なにかをたのしむのもよい。人間らしく生きるのは、肉体を持ってる者だ。それで良い。
だが、自分の魂をより清浄にあれ、と、常に生きていくこと。面倒臭がる・逃げる自分と闘い、少しでもきれいにしていこうと一瞬一瞬を過ごすが良い。
そして、
この「存在を作ってくれてるなにか」「維持してくれているなにか達」に、曖昧でもよいから、日々感謝して生きるが良い。
魂が清浄であれば、そのときには、戻るべきところに戻ることができる。
それまでは、
少しづつ近づいていれば、ふと導かれるときがあろう。従ってみるとよい。
ブッダの言うことも、神道の祝詞のいくつかも、結局それらの一部の説明なんだな、と気づくときもあろう。
中世の者達が「神を理解する、神に近づく」ために芸術や学問を進めたのが、その気持ちが判る気がする。
あの時代、いまよりも余程「近かった」のだろう。
とか、覚書w




