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【魅了】

「あぁ、もう……一張羅がぼろぼろなのだわ」


 漆黒の獣が十分に離れたのを確認してから、『淫魔』は灌木の茂みの外へと這い出して、立ち上がる。破れ目だらけのドレスに付いた葉や泥、羽虫を手で払う。


 周囲には、野太くごつごつと節くれ立った杉の大樹が幾本もそびえ立ち、その幹にはつる状の植物がびっしりと巻き付いている。


 昼間であるにも関わらず、妙に薄暗いのは、森のなかにいるせいだけではない。この次元世界(パラダイム)の陽光は弱く、夜闇は深い。


「さて、どうしたものか」


『淫魔』は、額に手を当てて思案する。全身に、軽い虚脱感を覚える。連続で危機的状況に直面したため、消耗が激しい。


 このまま自分の部屋に戻れば、あの厄介な獣を排除する、という目的は達成できたことになる。戻れれば、の話だが。


「どこかで、精を補充しないと……」


 空腹感を覚えて、『淫魔』は下腹部を抑える。後先考えずに能力を行使したため、魔力の欠乏が著しい。このままでは、帰りの『扉』を作るのもおぼつかない。


「それに、この次元世界(パラダイム)の管理者、ぎゃーぎゃー小うるさいし」


 無貌の怪物を投棄しただけなら、まだしも、『淫魔』当人も落下してきたとなれば、次元世界(パラダイム)の管理者に露見している可能性は大いに高い。


 軽い頭痛を感じながら、『淫魔』は目を閉じる。因縁をつけられるのも、厄介だ。


「……ん?」


『淫魔』は、まぶたを開く。大樹の影から、気配を感じる。複数だ。周囲から、包囲するように近づいている。


「ウルガァ……」


 威嚇するようなうなり声をもらしつつ、のっそりとした動きで包囲者たちが姿を現す。でっぷりとした体格で、二足歩行の異形たちだ。


 緑ががった褐色の肌の上半身は裸で、衣類のたぐいは腰みのていどしか身につけていない。それぞれ、棍棒、槍、手斧といった原始的な武器を手にしている。


 なにより特徴的なのは、大きくつぶれた鼻と、口元から伸びた形の悪い牙だ。この次元世界(パラダイム)の原住民のひとつ、豚頭の種族、オークだ。


「アレの雄叫びに引き寄せられてきた、ってところ?」


 値踏みするように包囲網を狭めてくるオークの群れに対して、『淫魔』はにらみ返す。オーク全般に言えることだが、あまり友好的な相手ではない。


 聞き慣れない咆哮を耳にして、縄張りの様子を見に来たのだろう──『淫魔』が、そう考えたところで、オークたちの腰みのが大きく膨らんでいることに気がつく。


 オークたちは、基本的に牡しか産まれず、繁殖には他の人型種族──この次元世界(パラダイム)ではエルフ──の牝を用いる。彼らの性欲は旺盛だ。


「……引き寄せちゃったのは、私の匂いのほうみたいだわ」


『淫魔』は、ため息をつく。豚頭どもは、下品な鼻音を鳴らし、口元からよだれを垂らしながら、いまにも飛びかかってきそうな有様だ。


「オークの精って、臭みが強くて美味しくないし、消化もよくないんだけど……」


 再度、深いため息をつきながら、『淫魔』はオークの群れを睥睨する。


「ぜいたく言ってる場合ではないのだわ。相手してあげる。いらっしゃいな」


「ウルガアアァァァ──ッ!!」


 豚頭どもが、歓声をあげる。お世辞にも高い知性を持っているとは言えないオークたちは、『淫魔』の一瞥で魅了の手中に落ちる。


 包囲者たちは、手にした武器を苔むした地面に投げ捨て、目前の牝に群がっていく。生温かい悪臭の吐息を吹きかけられて、『淫魔』は顔をしかめた。




「よし……あなたたち、さっきの叫び声は聞いていたわね。アレを追うのだわ」


「ヴルル」


 投げ捨てた武器と腰みのをふたたび身につけた豚頭どもは、『淫魔』のまえに整列し、その指示に対してうなずきを返す。


 肉の接触によって『淫魔』に精神を掌握されたオークたちは、驚くほどに豹変した従順さを示している。


「行きなさいッ!」


『淫魔』の命令を受けて、豚頭の一団はリーダーを先頭に原生林の闇のなかに駆けていく。漆黒の獣が去っていった方角だ。


「……うぷっ」


 しばし、オークたちの背中を見送っていた『淫魔』は、控えめなげっぷをこぼしつつ、口元を抑える。豚頭の悪臭が、気道を逆流してくる。


「気持ちわる……」


『淫魔』は、こみあげる吐き気を必死に抑えこむ。せっかく補充した、貴重な精だ。無駄にはできない。


「……ついで、というわけではないけれど」


 あの無貌の怪物を始末するための、戦力も手に入れた。


 いまや、あの豚頭どもは『淫魔』の指示に忠実に従うだけでなく、その気になれば五感を共有することもできる。


 オークたちがターゲットを補足すれば、自動的に『淫魔』も気づく寸法だ。


「こうなったら、最後までやってやるのだわ」


『淫魔』は、顔を上げる。杉の大樹のすきまから、薄暗い空が見えた。


「……とはいえ、オークどもだけでは、いささか心細いのだわ」


 ぼそり、と『淫魔』はつぶやく。


 徒党を組んだオークの群れは、恐るべき略奪者となる。だとしても、『淫魔』が一戦交えたかぎり、これからしとめようとする怪物は、それ以上の規格外だ。


「他に、良い追加戦力を調達できれば助かるのだけど……」


 頭を上に向けたまま、『淫魔』は腕組みする。この次元世界(パラダイム)は、規模が大きいわりに、人口が少なく、自然環境も荒れ放題だ。


 必然的に、戦力となりうる優秀な戦士と出会える可能性も低くなる。


「まったく、ここの管理者はなにをやっているんだか」


 愚痴をこぼす『淫魔』は、周囲にただよう悪臭が鼻につく。うまく避けたつもりだったが、オークの精液が少しばかりドレスにかかったようだ。


 同時に、げっぷと吐き気が胃袋から沸きあがってくる。『淫魔』にとってのオークの精は、カロリーこそあるが、臭いがきつく、脂身の肉塊のように胸焼けする。


「ああ、もう……本当に、救いようもなく、厄日だわ……」


 独りごちつつ空を見つめる『淫魔』の視界に、梢の狭間を横切る大きな影が見える。猛禽の類よりも、はるかに大きい。


「……そういえば。この次元世界(パラダイム)には、あいつらがいたのだわ」


 にやりと笑いつつ、『淫魔』は黒翼を広げる。ゆっくりと羽ばたかせながら、ホバリングの要領で浮揚する。


 高度が上がるにつれ、杉の枝と葉がひしめきあい、そのあいだに幾本もののツタが橋を架けている。強い緑の匂いが、オークの獣臭を忘れさせてくれる。


 杉の幹の裏側に隠れるように、巨大なクモの巣が張っている。人間の頭ほどのサイズもあるクモが、粘糸に引っかかったリスの血をしたたらせながら貪っている。


 枝葉とクモの巣をかわしながら、『淫魔』は樹冠に到達する。杉の枝に身を隠すようにしながら、開けた空の様子をうかがう。


 霞がかかり陽光も弱々しい薄暗い空を、我が物顔で飛翔しているのは、恐竜のように大柄な体躯を持ち、前腕が翼となった魔物──ワイバーンたちだった。


「好都合だわ」


 ワイバーンは知性の低い魔物だが、龍の血を引いていることは事実で、より上位のドラゴンの眷族であることも多い。その場合、近くにボスとなる龍の巣があるはずだ。


 小声でつぶやく『淫魔』は、ワイバーンの群れの動きを周囲の景色を観察する。翼竜たちが旋回する中心には、ドラゴンが寝床に好みそうな岩山がある。


「弱すぎず、強すぎない、ちょうどいい程度のドラゴンだとありがたいのだわ」


 都合の良いことを口にしながら、『淫魔』は苔むした地面へと降下する。少し遅れて、リスの亡骸と思しき血の付いた骨片が落ちてくる。


『淫魔』は、目測でドラゴンの巣らしき岩山へと獣道を歩き出す。漆黒の獣とオークどもが向かった方角とは、逆方向だった。


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