第2章 お静伝説物語 2-5 怨霊
長浜城が開城した後、秀吉は美濃に進駐する。
12月20日、秀吉に岐阜城を取り囲まれた信孝は、三法師を安土城に送り、母と娘を人質に出して降伏した。これで、一連の武力紛争は一先ず終息した。
長浜城で新年を迎えた勝豊が、年賀の行事を終え、寝所で寝ていたところ、女の声を聞いた。
「カツトヨー、こんな所に隠れていたのかー」
勝豊が身を起こすと、漆黒の闇の中にボーと浮かび上がる白いものを見た。
「何者だ!」
「ワタシを忘れたかー」
勝豊が目を凝らすと、白い着物を着た髪の長い女が立っている。明らかに、この世のものではなかった。
「わっ!」
と、勝豊は悲鳴を上げながら飛び起き、枕元の刀掛けから刀を取った。
女の幽霊は手に持ったヒョウタンを見せる。
「これでも、思い出さぬかー」
勝豊は見覚えのあるヒョウタンにハッとした。
「お前は、もしや丸岡のお静か?」
「思い出したか。あれほど約束したのに破りおって。呪い殺してやる」
「待て! 約束は果たすゆえ、待て!」
「ワタシの子を二人共殺しておきながら、約束を果たすと言うのか。この期に及んで、また騙そうとしおって」
お静は勝豊にゆっくり近づいてくる。
勝豊は刀を抜いてお静を斬った。確かに斬った。だが、手応えは無かった。
「怨霊となった者を切ることなどできぬわ」
傷一つ負っていないお静は、後ずさる勝豊につかみかかる。
「ギャーッ」
と、叫んで転んだ勝豊の上に、お静がのし掛かった。
「親子の恨み、知るがよい」
「助けてくれ、殺さないでくれ」
「直ぐには殺さぬ。お前が約束の証にくれたヒョウタンで、じわじわと殺してやる」
お静は勝豊の首を手で押さえ、ヒョウタンの中の水を口元に掛ける。
勝豊は逃れようとするが、金縛りにあったように体が全く動かず、注がれた大量の水が口と鼻を塞ぐ。鼻から空気を吸い込もうとすると、水が鼻孔に流れ込み、口で呼吸をしようとすると、喉に水が流れ込んでくる。呑み込んでも、呑み込んでも、水は途切れない。ヒョウタンからは、無限の水が出るかのようであった。
(息ができない。苦しい……)
勝豊は意識が遠のいて行くのを感じた。
勝豊は鳥の鳴き声で、目が覚めた。朝になっていた。
「悪い夢を見た」
勝豊は、乱れた布団から抜け出し、はだけた寝間着を直していると、床に転がっている抜き身の刀に気付いた。慌てて鏡を見ると、首に手の跡が残っている。
「うわっ!」
と叫び、尻もちをついた。
勝豊はその日の内に僧侶を呼び、除霊の祈祷をさせ、寝所にも悪霊退散の札を貼った。
夜になり、勝豊が眠りに就くと、寝所にまた女の声が響いた。
「カツトヨー、親子の恨みを思い知れー」
勝豊が目を開けると、体の上にお静が座っていた。岩が乗っているかのように、体が重い。声も出ない。
お静は勝豊の顔にヒョウタンの中の水を掛ける。
「カツトヨー、苦しめー」
勝豊は息ができず、苦悶しながら意識を失った。
次の日から、勝豊は寝所を替えたり、僧侶や小姓を同室させたり、色々と試みたが、効果は無かった。毎夜、お静が現れては勝豊を苦しめた。
勝豊は精神的に追い詰められ、徐々に衰えていった。
3月中旬、秀吉は長浜にいた。
この2カ月前の正月、勝家側の滝川一益が伊勢で挙兵した。秀吉は伊勢攻撃を始め、一益が篭る長島城を包囲していたが、2月末に、勝家側が近江へ出陣したとの報を受け、伊勢を出て長浜まで北上していたのである。
秀吉は陣羽織を羽織ったまま長浜城に入ると、寝所で寝込んでいた勝豊を訪ねた。
「病気と聞いたんやが、具合はどうきゃあ?」
勝豊は身を起こして挨拶をする。
「お出迎えもできず、申し訳ないことにございます」
「ええがや、無理せんで横になっておればええ。休んでおりゃ、直に良うなるで」
と、秀吉は言ったものの、勝豊の顔を見て思った。
(死相が出ておるでにゃーか。こりゃー長くはにゃーで)
「どこが悪いんか。薬師には診せておるんか?」
「実は、病気ではございませぬ」
と、勝豊は切り出し、亡霊に取り付かれて、除霊などを色々とやってみたが、無駄に終わったと説明した。
「そうやったか。ワシが京の高僧を紹介するで、そこで養生するんがええがや」
「ありがたいことでございますが、家臣を率いて戦の指揮を取らねば……」
「戦のことは家臣に任せればええ。勝豊殿は自分の身を案じればええがや」
「羽柴様のお言葉、誠にありがたく、お礼の申しようもありません 。ご温情に甘えさせていただきます」
勝豊は深々と頭を下げた。
秀吉が長浜城を訪れた翌日、勝豊は、秀吉に言われた通り、戦の指揮を家老にゆだね、近習を伴って京に向かった。
臨済宗の東福寺に入った勝豊は、結界を張った庵に住み込んだ。住職による祈祷が効いたのか、この寺に入って以来、お静の亡霊は現れていない。
ここに来て1カ月近く経った日の夜、体力が回復した勝豊は、安心しきって庵で寝ていた。
勝豊は急に体が重くなったのを感じ、首から下が全く動かないのに気付いた。勝豊は恐る恐る目を開けた。
「うわぁー!」
お静が体の上に座り込んでいた。
「カツトヨー、ようやく探し当てたぞー。逃げおって、このまま殺してくれるわ」
「止めてくれ! 俺は当主の指示により丸岡城を建てねばならなかったのだ。恨むなら当主を、柴田家を恨んでくれ」
「わかったわ!」
「わかってくれたか」
「お前をこのヒョウタンで殺してから、柴田家もヒョウタンで滅ぼしてやるわ」
お静はそう言うと、勝豊の顔を抑え付け、ヒョウタンを傾けて水を注ぐ。大量に注がれる水は、途切れることなく顔全体を覆った。勝豊が息をしようとすると、水が口や鼻に流れ込んでくる。まるで、頭を水槽に沈められたのと同じであった。
しばらくすると、勝豊は苦悶の表情を浮かべたまま、瞬きもしなくなった。勝豊は畳の上で溺死した。27年の短い人生だった。
勝豊が死んでから8日後、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家が、北ノ庄城でお市と共に自刃し、柴田家は滅んだ。
炎上する北ノ庄城を見守る軍勢の中に、金色の逆さヒョウタンの馬印が輝いていた。
<終わり>