第2章 お静伝説物語 2-4 軍議
清洲会議後、織田家中の亀裂は徐々に深まり、二つに割れた。羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興は信長の次男・織田信雄に付き、柴田勝家と滝川一益は信長の三男・織田信孝に付いた。
最早、二つの勢力の衝突は不可避であった。
勝豊が長浜城に入ってから4カ月ほど経った12月2日、秀吉は信雄を担いで挙兵した。信孝が三法師を岐阜城に抑留していたことに対し、清洲会議の合意に違反したとして、挙兵したのである。
秀吉挙兵の知らせは、直ぐに長浜城へも伝わり、勝豊は北ノ庄城へ援軍要請の使者を出した。しかし、数日後にもたらされた勝家からの返答は、雪のために援軍は出せない、籠城して城を守れというものだった。
返答を受け取った勝豊は、見捨てられたという思いになり、佐久間兄弟が越前と加賀の領主になるという噂は、真実だったのではないかと感じ始めていた。
秀吉の挙兵から9日後、秀吉は5万の兵で長浜城を取り囲んだ。兵力差はあまりにも大きく、城方の負けは明らかだった。
この絶体絶命の事態にどう対処するか決めるため、勝豊は長浜城の本丸大広間に重臣らを集めた。
勝豊が上座に座り、10人あまりの家臣が左右に並んで座る。
軍議が始まると、家臣達は思い思いに発言した。
「敵は5万、とても敵わぬ。和議を請うしかないじゃろ」
「北ノ庄の殿は、籠城をお命じだ。籠城するしかない」
「援軍は来ないのだぞ。我らは見捨てられたのだ。籠城しても無意味だ」
「武士としての面目を保つのだ。城を枕に討ち死にだ」
主戦派と恭順派の意見が飛び交う中、門番が慌てた様子でやって来た。
「秀吉の使者が来ました」
重臣の一人が門番に問い掛ける。
「何人じゃ」
「正使一人に、副使二人です」
「追い返せ」
と、主戦派で勝豊の家老・山路正国は言い放った。
「待て。話を聞いてからでも遅くはあるまい。使者をここに通せ」
勝豊は門番に命じた。
しばらくして、使者の3人が大広間に入って来て、上座に座る勝豊の前に座った。
「羽柴家家臣、大谷吉継と申す。使者として参った。後ろの二人は副使である」
正使として侮られぬよう、吉継はやや尊大に言った。
「城主、柴田勝豊である。役目ご苦労。話を聞くゆえ、申してみよ」
「城を明け渡していただき、我が軍にご加勢いただきたい」
「城を渡したうえに、秀吉の軍に加われと言うのか!」
山路が震える声で怒鳴った。
吉継は動じず、静かに言う。
「美濃の曽根城主、稲葉貞通殿もこちらのお味方になりましたぞ」
「なんと、稲葉の父上までが羽柴側に付いたか」
稲葉貞通は、勝豊の正室の父で、西美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄の息子である。
勝豊は、信孝の配下である義父の寝返りに、衝撃を受けた。
「稲葉殿が裏切るわけがない。証はあるのか?」
と、山路が言うと、吉継は懐から書状を取り出し、勝豊に渡した。
勝豊は黙って書状を読み、顔を上げた。
「若殿、書状には何と?」
重臣の問い掛けに、勝豊が答える。
「稲葉の父上からである。羽柴側に味方せよ、さもなくば娘を返せとある」
「他には、 他には何と?」
勝豊は何も言わずに書状を宿老に渡す。受け取った宿老が書状に目を通すと、顔色が変わった。
「宿老殿、何と書いてあるのです?」
「羽柴殿の力を借りて、柴田家の乗っ取りをたくらむ奸臣の佐久間兄弟を追い出し、若殿が家督を継げとのことじゃ」
大広間がざわめく。
勝豊が家督を継ごうとすれば、当主の勝家との敵対は避けられない。家臣らは、当主と戦うことになるのかと、不安に思うと同時に、心の中を見透かされた思いにもなっていた。
佐久間勝政が柴田家に入って以来、佐久間盛政は当主の代理のように振る舞い、勝豊を軽んじていた。勝豊付きの家臣は、佐久間兄弟の行いに怒りをおぼえると共に、柴田家を乗っ取られるのではと危惧していたのだ。
宿老は吉継に聞く。
「羽柴殿はこのことをご承知か?」
「我が殿は、勝豊殿が我が軍に加わるなら、勝豊殿にご助勢致すと申しておられる。もし勝豊殿が家督を望むのであれば、それについても協力は惜しまないつもりである」
これを聞いた家臣達は、秀吉は本気だと思った。憎い佐久間兄弟を討って、勝豊の家督相続が叶えば、自分達は冷や飯食いから解放され、柴田家の家政の中心に立てるとの思いが頭をもたげる。
山路以外の家臣達の心の中は、いつの間にか「籠城か開城か」から「籠城か佐久間兄弟討伐か」に変わっていた。
長い沈黙が流れた。しびれを切らした重臣の一人が声を上げる。
「羽柴殿にお味方するのが良いと思うが、いかがであろう」
「柴田家に受けた恩義を忘れたか! 不忠者め!」
と、山路がたしなめると、たしなめられた重臣が反論する。
「柴田家に巣食う奸臣を取り除くのが、本当の忠義であろう!」
家老と重臣の言い合いに、宿老が割って入る。
「我らは若殿の家臣じゃ。我らが忠義を尽くす相手は、若殿に対してじゃろ」
そう言われると山路に返す言葉はない。山路は不利とみて、勝豊に判断を迫ることにした。勝家の養子が、反目する秀吉に付くことはあり得ないと思っていたのである。
「我ら、若殿に従いますゆえ、ご判断を」
「羽柴殿にお味方致す」
勝豊はそう宣言すると、吉継に向かって言った。
「大谷殿、聞いての通りである。開城する旨をお伝えくだされ」
使者はそれを聞くと、満足そうに大広間を出て行き、それを見送った勝豊と家臣らも部屋から出た。ただ、山路だけが残された。
家老の山路は、勝豊が長浜城に入ったときに、勝家の直臣から勝豊の家臣になった人物であった。だから、勝豊や長く勝豊の家臣であった者が、佐久間兄弟に負わされた屈辱感や柴田本家に対する不信感を理解していなかったのである。