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第1章 丸岡城について

 福井市中心部から東に向かい、国道8号線を10kmあまり北上し、右手に進むと小高い森の上に築かれた天守が現れる。重要文化財の丸岡城天守である。

 この二重三階の望楼型天守は、現存する12棟の天守の一つであり、北陸地方で唯一の現存天守でもある。

 現存天守とは、江戸時代以前に建築され、今も維持されている天守のことをいう。国宝の姫路城のように、修理を繰り返しながら築城当時の姿を保っている天守もあるが、丸岡城天守はそうではない。昭和23年[1948年]の福井地震で、天守が完全に倒壊した後、元の部材を使って昭和30年[1955年]に再建されている。それが現在の天守である。


 丸岡城天守は戦後に再建されてはいるが、創建は安土時代とされている。そのため、現存する最古の天守ともいわれるが、異論もある。天守構造の分析から、慶長18年[1613年]の建造とする説もあるのである。

 天守の建造年は定かでないが、城自体が造られた年、つまり築城年は天正4年[1576年]で間違いない。それ以前は、坂井平野にポツンと存在する丘に過ぎなかった。


 この丸岡の丘に、城が築かれることになった切っ掛けは、織田信長が越前一向一揆勢を打ち破り、越前を平定したことだった。信長から越前を与えられた柴田勝家は、現在は福井県庁が建っている場所、つまり福井城跡と呼ばれている場所に北ノ庄城を築城し、その支城として、丸岡城を勝家の養子の柴田勝豊に築城させたのである。

 丸岡城を完成させた勝豊は、初代城主に納まった。ところが、本能寺の変後の清洲会議で、織田家家臣の領地変更が行われたことにより、勝豊は天正10年[1582年]に近江長浜城に移った。

 その後、丸岡城の主は次々と移り変わることになる。


 2代目は、勝家の家臣の安井家清だった。家清は城代として入城するも、主君の勝家が羽柴秀吉[後の豊臣秀吉]によって自刃に追い込まれてしまう。家清が主であった期間は、1年足らずに過ぎなかった。


 3代目の城主は青山宗勝。4代目の城主は、宗勝の嫡子である青山忠元が務めた。

 宗勝が城主に納まったのは、宗勝の主君であった丹羽長秀が、越前の新しい領主になったからである。長秀によって、城主に引き上げられた宗勝であったが、長秀の死後は秀吉の家臣となって城主に留まり、子の忠元に引き継いだ。青山親子は17年あまり丸岡を治めたが、関ケ原の戦いで西軍に味方したため、改易の憂き目に遭う。


 5代目城主は、結城秀康[別称、松平秀康]の重臣だった今村盛次がなった。

 関ケ原の戦いの後、徳川家康の次男である秀康は、越前一国の領主となり、越前北ノ庄藩を立藩する。家老の盛次には、丸岡2万5千石が与えられた。

 それから11年後の慶長17年[1612年]、秀康の嫡子である松平忠直が2代藩主のときに、家老・盛次と付家老・本多富正の派閥対立によって生じたお家騒動が起こる。いわゆる越前騒動である。

 若い藩主を取り込んだ盛次は、付家老派の排除を進め、多数の死傷者を出す武力衝突を引き起こした。幕府は、この騒動の裁定に乗り出し、盛次を陸奥磐城平藩預かりとした。盛次は11年あまりで越前を去ったのだった。


 6代目城主には、幕府から北ノ庄藩の付家老に命じられた本多成重が、慶長18年[1613年]に就いた。成重は、旗本5千石から丸岡4万石の領主となったのである。

 成重は従兄弟の本多富正と共に若年の藩主・忠直を補佐したが、大坂の陣の論功行賞に不満を抱いた忠直の行状は、酷くなるばかりだった。元和9年[1623年]、ついに忠直は、将軍に隠居を命じられ、豊後府内藩で謹慎させられる。

 忠直が藩主の座を追われたことにより、北ノ庄藩は福井藩、丸岡藩、大野藩、勝山藩の5つの藩と幕領に分割されることになった。丸岡藩は、寛永元年[1624年]に大名に取り立てられた成重が初代藩主の座に就く。これ以降、丸岡城は藩主の居城となり、藩主が城主となった。


 7代目から9代目の城主は、藩主を継いだ成重の子孫が務めた。2代藩主・本多重能、3代藩主・本多重昭のときは平穏無事に過ぎたが、4代藩主・本多重益のときに、越丸騒動と呼ばれるお家騒動が起こった。

 重益は、酒色に溺れ、藩政を家臣に任せきりにした暗愚な藩主だった。そのため、奸臣による藩政の私物化、抵抗派藩士による奸臣の追放と藩主押し込め、奸臣の復帰と抵抗派の粛清、多数の脱藩者の発生、ということが次々に起こる。元禄8年[1695年]、幕府はこの事態を重視し、家臣の統率ができていないとして、重益を改易処分にした。

 本多家が丸岡を治めた期間は、82年間だった。


 10代目から最後の城主となる17代目までは、有馬家が代々務めた。

 有馬家の初代丸岡藩主となる有馬清純は、越後糸魚川藩から転封されて丸岡に入っている。

 キリシタン大名・有馬晴信の曾孫であった清純は、初めから糸魚川藩主だった訳ではなかった。元々は日向延岡藩の3代藩主だった。このときに、圧政を敷いたため、領民が逃散、その責任を取らされて糸魚川藩へ転封させられていたのである。

 藩政に失敗して取り潰された藩に、藩政運営に問題を起こした人物が入ったことになるが、子孫は出世を続けている。2代藩主・有馬一準のときには、外様大名から譜代大名へと格上げされ、5代藩主・有馬誉純は若年寄、8代藩主・有馬道純は老中に就いている。

 最後の藩主となる道純は、幕閣として活躍していたものの、戊辰戦争が始まるといち早く新政府軍に恭順し、版籍奉還後は丸岡藩知事になった。しかし、廃藩置県が明治4年[1871年]に行われると、丸岡藩は廃藩となり、藩知事も廃止となる。道純は役職を失い、東京に移住したのだった。

 176年という長きに渡った有馬家の丸岡統治は、ここに終止符が打たれた。


 城主が存在しなくなっても、柴田勝豊が築城を始め、青山家が内堀や外堀などを作り、本多家が完成させた城郭は残されたままだった。五角形の内堀の内側には天守、本丸、二の丸が配置され、内堀と外堀の間には三の丸や武家屋敷などが建てられていた。

 しかし、現在は、そのほとんどが失われている。

 明治6年[1873年]の廃城令により、多くの城が破壊されたが、丸岡城も例外ではなかったのである。門や石垣、樹木など、使い道があるものは売り払われ、解体するにも多額の費用が掛かる天守だけが残った。

 政府に不要とされた城だったが、町民が金を出し合い、明治34年[1901年]に政府から天守を買戻した。天守は町に寄付され、公会堂として使われるのである。

 このような経緯で天守は残ったが、堀は徐々に埋め立てられ、昭和初期頃に姿を消した。


 現在、城の遺構は天守と野面積みの石垣だけになっている。天守のある丘の周辺は日本庭園様式の「霞ケ城公園」として整備され、レストランを兼ねた休憩所や、この城の伝説を伝えるものなども設置されている。

 伝説を伝えるもの中の一つに、天守南側にある「雲の井」という井戸がある。城が一向一揆の残党に襲われたとき、この井戸から大蛇が現れ、霞を吐いて城を隠したという。この伝説によって、丸岡城は「霞ケ城」とも呼ばれるようになったそうである。

 他にもう一つ、伝説を伝えるものが天守東側にある。「お静慰霊碑」がそれである。築城の際、天守台石垣が何度も崩れたため、人柱を立てることになり、城下に住んでいたお静という隻眼の未亡人が選ばれた。二人の子供を抱えて困窮生活を送っていたお静は、二人の子供のうち一人を侍に取り立ててもらうことを条件に承諾する。お静は天守中柱の下に埋められ、天守は無事完成した。ところが、城主が他城に移ったために、約束は反故にされる。お静はこれを恨み、毎年卯月の頃に大雨を降らせて堀を氾濫させたという。人々は、この雨を「お静の涙雨」と呼んだそうである。

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