0・オカモトはビート・イット
執筆者No.007
その高速バスは中央道諏訪インターチェンジの近くで渋滞に巻き込まれていた。バスは、まるで力が拮抗して膠着状態におちいった力士のようにほとんど動いていなかった。となりの車では、運転手の五十半ばくらいの男が、何か歌を口ずさんでいた。
オカモトはバスのシートに身をもたせかけていた。彼のイヤー・フォンからは、マイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット」が流れていた。マイケル・ジャクソンはこういう何もすることがないときに聴くのにはうってつけだ。何しろ、マイケルの声は高くて刺激的だからだ。
「今夜はビート・イット」が終わって次の曲「ビリージーン」が流れはじめる。そのとき、となりに座っていた女が話しかけてきた。年数はおそらく四十代後半といったところだ。
「あなたこのバスでどこまで行くの?」
「飯田の方へ帰る予定です」
オカモトは不意に話しかけられて戸惑ったが、イヤー・フォンを外してそう答えた。
「どこへ行ってきたの?」
「家族で東京へ行ってきました」
女は不思議そうな顔をした。まるで、雲一つないのに、雨が降ってきたときのように。
「でもあなた、今一人でバスに乗ってるじゃない。お父さんとお母さんはどこなのよ」
「父親と母親は東京から帰ってくることができなくなったんです。まあ話すと長くなっちゃうんで話しませんが」
「長くなってもいいわよ。どうせバスはほとんど進んでないし。気になるから話してごらんなさい」
これは言ってもいいことなのだろうか。オカモトは迷った。でもまあいいだろう。彼はそう思うことにした。自分がこの見知らぬ女にこの話をしたところで、何かが起きるわけではないし、誰かが傷つくわけでもない。
「東京で昼ご飯を食べるってなったときに、父親がたまにはいい寿司でも食おうって言いだして、すごく高そうな店に入ったんです。そこの店の寿司はびっくりするほどおいしくて、僕たちは我を忘れて寿司をしこたま食べたんです。そしたら会計が九万八千円にもなっちゃいました。父親は財布に十万円を用意してあったつもりだったんですが、お金を入れ忘れてて財布には三十二円しか入っていませんでした。ということは当然無銭飲食したわけです。父親と母親は板前に頭を下げました。どうか許してください、何でもしますからって。そしたら板前は『半年間ここで皿洗いをするんなら、この無銭飲食を無かったことにしてやろう』って言いました。それで両親は僕を飯田に帰して、自分たちはその店で皿洗いをして生活することにしたんです」
オカモトはここまで一息でしゃべり終えた。
そのあとにはしばらくの沈黙が待っていた。女は呆然としていた。まるで、白鵬が格下の力士に負けたときのように。
しばらくして女が言った。
「ということはこれからしばらく一人で暮らさなきゃいけないってことでしょ。あなた高校生くらいの年でしょ。大変ねえ」
「まあちょっとの不都合はあるかもしれないけどこれはこれで気楽でいいもんかもしれないですよ。だって親の目を気にすることなくエロ本も読み放題だし、アダルティーなビデオだって見放題なんですから」
「やあねえ、高校生ったら。そんなことばっかり考えてるんだから。まったく男子高校生っていうのは性の獣なのかしら」
女は笑いながら言った。するとオカモトはふいにまゆをひそめた。
「笑わないでください。僕は遊びや冗談でエロ本やアダルティーなビデオを見てるんじゃないんです。エロ本やアダルティーなビデオに本気なんです。人生かけてるんです。それを笑うなんていささか失礼ですよ」
「それは失礼なことをしたわね。悪かったわ。でもまさかあなたが性に対してそこまで本気だとは思わなかったから。あ、そうだ、あなたの名前を聞いてなかったわね。教えてもらえるかしら」
「あ、そうだ、まだ言ってませんでしたね。オカモトです」
「あら、オカモトっていうの。私なんか好きよ。オカモトっていう名前。なんでかしらね。よくわからないけど、あなたの名前好きだわ」
「あなたの名前は何なんですか?」
オカモトは女に尋ねた。
「私の名前?私はサガミっていうのよ。何かあなたとは共通点を感じるわ。それでいてライバルのような……。あなたにはわからない?」
「僕も同じようなことを思いました。不思議ですね」
バスは渋滞を抜け動き始めた。女は箕輪のバス停で降りていった。それから一時間ほどして、オカモトは家に着いた。時刻は二十三時をまわっていた。明日は学校だ、早く寝なければならない。オカモトはベッドに倒れ込み、吸い込まれるように眠りに落ちていった。
七時になる少し前にオカモトは目覚めた。体は少し疲れていたが満足感があった。夢に大好きなフジさんが出てきたからだ。夢の中ではいろんなことができて楽しかった。人に話すことができない内容だが……。
オカモトは顔を洗い、朝食を食べ、歯みがきをした。それでも学校に行くまでにはまだ時間があったので、二十分くらい成人向けの雑誌を読んだ。気づけばもう学校に行かなければならない時間になっていた。オカモトはかばんを背負い家を出た。
校門のところでオカモトはフジさんとバッタリでくわした。オカモトは好きな人が親にバレたときと同じくらい動揺した。夜見た夢の内容が頭に浮かんできて、彼女のことを見ていられなかった。
次回は1月4日(木)午後7時に掲載予定です。