甘いココアと大人談義
朝、目が覚めると私は子供になっていた。
いつもより低い目線とだぼだぼの服。小さな手足とぎこちない発音。
『なんてこった』
原因に心当たりはない。
昨日は慣れないお酒で酔いつぶれて寝たはずだ。
お酒が究極的に身体に合わなかったのだろうか。きっとそうだな。
とりあえず私は大きめのTシャツを着て外へ出た。
平日の早朝。住宅街に人通りはない。
しっとりした空気はまだ肌寒かった。どうせならパーカーやジャンパーでも着て来たら良かった。
そんな後悔が頭を過るが私は戻らなかった。
高い塀の上を歩く三毛猫。
昨夜の小雨で濡れた紫陽花。
庭先の小屋でまどろんでいる大きな犬。
ごみ置き場を漁るカラス。
普段なら五分とかからず通り過ぎるはずが、今日に限って十分以上かかった。
まあ、子供の足だからしょうがないのかもしれない。
あとは大きすぎるスニーカーのせいだ。
いつも、道の先を見て歩く。今も同じように歩いたのに、目に映るのはやたらと平和な風景だった。
同じ道。同じ場所。
違うのは私の身体。
「こんな時間に何してるんだ?」
ふと、真横から声をかけられ飛び上がるほど驚いた。
紺のジャージを着こんで、走りにでも行くのだろうか。
「駄目じゃないか、一人で。親は知ってるのか?とりあえず名前と住所を」
青年は門から出てきて私の前に屈みこんだ。
いや、青年と呼ぶほど他人でもないのだが。
彼は私の昔馴染みだ。
中学が同じで、卒業してからはたまに道で見かける程度。
やっぱり他人、かな。
『りょーた。寒いから家の中に入れてくれないかしら』
涼太は間抜けな顔で私を見た。
「美希の知り合いか?そんな冗談には乗らないからな。家に帰りたくないならちゃんと理由を言え。聞いてやるから」
どうして大人になると、子供に対してここまで上から物を言えるようになるのだろうか。
知識の量とか、未熟さとか、そんなもので見下してしまうからなのか。
『何を言っても信じてもらえないようね。なら、貴方から見て私はいったい何歳に見えるのかしら』
出されたココアを吹いて冷ましながら、涼太をちらりと伺う。
呆れたような顔をしていた。
彼の気持ちも分からないでもない。
「十歳くらいじゃないのか?随分大人びた口調をしてるが、大人の真似をしたって大人になれるわけじゃないんだぞ」
そうね。私もいまだに大人になれたとは思ってないわ。
『ねぇ、りょーた。私は見ての通り子供になったわ。だからこそ思うのだけど、大人っていつになったら、なれるものなのかしらね』
鏡に映る老けた自分を見て、大人になったものだと感傷に浸っていた。
私は大人の身体を失い、けれど心は以前のままだ。
二十数年の時を生きてきた心だ。
そんな私を見て、涼太は十歳くらいだと言った。
なら、大人とは身体の年齢のことを言うのか?
心なんて見えないモノだから、大人と判断する材料にはならないのか?
「身も心も成熟した時を大人って言うんだよ。大きくなれば分かるさ。さあ、いい加減名前と住所を教えてくれないか。警察を呼ばなきゃいけなくなるんだ」
身も、心も。
身体が成熟していなければ子供。
心が成熟していなくても、また、子供。
『身体が小さくなるだけで、こんなに不安になるものなのね。前は自分が大人かどうかなんて悩んだりしなかったのに』
不思議な感覚だ。
いつもの景色が大きくなって、視界に入るものも全然違う。
頼りない身体。
頼りない心。
早く大人になりたいと願ったあの頃。
子供のままでいたいと諦めたあの時。
『人はいつ、大人になれるのかしらね』
涼太は答えなかった。
呆れて話すのが嫌になったのかもしれない。
「お前は、どんな大人になりたいんだ?」
ぬるいココアが半分になる頃、涼太は口を開いた。
驚いて見上げると、彼は酷く優しげな顔でこちらを見ていた。
私はその顔を父親のようだと思った。
包み込むような、少し羨むような、そんな顔。
『どんな大人……』
理想の大人。
仕事ができる人。
優しい人。
皆を導く人。
賢い人。
『私は幸せな大人になりたいな』
どこまでも自分本意で幼稚。
でも純粋だった幼い日、私の描く未来はいつだって幸せだった。
皆が笑顔だった。
ああ、きっと大人は自分の幸せが守れる人のことを言うのだ。
子供はどうしても大人の都合の下にいなければならない。
未熟さ故に自ら幸せを壊すことさえある。
そうならない、強さを持ちたい。
早く大人になりたかったのは、欲しいものを手に入れたかったからで、忙しそうな両親を助けたかったからで、誰かの役に立つことを望んだからだ。
私はいま、幸せだろうか。
幸せを守れているだろうか。
「幸せな大人か。お前ならなれるよ」
きっとそれは無責任な言葉。
ココアよりずっと、温かな言葉。
私はいつ、大人になれるだろうか。
きっと今日にも、大人になっているだろう。