3
夜が更け、星霜が驟雨のように降り注いでいる。
大地を穿とうと流れ星が落ち、空気が爆ぜるように虫が飛び交った。
手の甲に虫が止まり足と羽をゆっくり動かす、止まり木では無いのを悟り、夜の闇に飛んだ。
俺は気配を断ち、臭いすら放たず、精神を安定させていた。
唯一の障害は、罪の無い者を殺すことだ。
俺の最初の標的は、この地域の領主だ。
時間を戻してから、俺は毎日訓練をして、肉体の力を蘇らせようとしている。
長年の戦争で鍛え上げられた肉体は、時間が戻ってから一番影響を受けた。
貧弱だった少年時代が恨めしかった。
お陰で最初の標的を狙うのに時間がかかってしまった。
だが『影』と呼ばれた俺の力は肉体だけでは無い、影の能力は弱々しくなったが、無理をすれば禁術も可能だった。
だが時を戻す禁術を使った影響は出ていた。
胸に黒い大きな痣が浮かんでいた。
やはり禁術は負荷が大きいようだ。
あと何回時を戻せるのだろうか。
だが身体が朽ちるまでに世界を改変させてやる。
上等だ。
時を戻せるだけ、俺は幸福だ。
たとえ俺が死のうと、世界を変えてやる
俺は樹に背を預け、後ろの道を領主が来るのを待った。
領主は居城から禁猟区へ移動するところだ。
警護は多いが、夜の闇は隠れるのに十分すぎるほど満ちていた。
後々に魔王に寝返る領主だった。
次代の魔王となる救世の聖女を俺から連れ去り、俺が革命軍に入るきっかけを作った出来事だ。
聖女は俺と出会うよりも早くに領主と出会っていて、その特殊な力を評価されていた。
救世の聖女は癒しの力を持っている。
数千の命を救い、数万の命を奪った聖女にして――次期魔王だった。
救世の聖女を浚った男を殺す。
だが――今に罪は無く、後に罪がある。
そして裏切りは、まだ起きていないのだ。
平穏な心に、雑音はそれだけだった。
闇夜の光帯が美しく、死人の魂を洗い流そうとしている。気配を探りながら、ウツラウツラとしていると、前世の死人たちが俺の足に絡みついてきた。
思い出すたびに心臓が痛み、耐え難い苦しみで死にそうだった。
だが、この世界で俺が苦しみを摘んでやる。
摘めば、死人の魂は助かる。
馬の足音が響き、人の声がざわめいている。
来た――。
なんて楽しそうな会話だ。
それは平穏そのもので、美しい日常の会話だった。
俺の脳が殺意を錆び付かせて、剣を抜くのを躊躇わせた。
決心がつかないまま、俺は好機を失ってしまった。
「駄目だ」
俺は罪の無いものを殺すほど人間性を失っていなかった。
樹の陰から出て、領主たちの後姿をみると、そこには次代の魔王となる聖女がいた。
前の人生では、この時まだ出会っていないが、昔話を聞いていて近くまで来たことがあるのを知っていた。
俺は時間逆転を行おうと思ったが、体に負担がかかり過ぎるので後をつける事にした。
本当だったら移動中に襲撃をしようと思っていた。
禁猟区を見回っているときは、領主たちは周囲の獣を警戒しているので、突然の襲撃はできないと思ったからだ。
襲撃をしたのは、禁猟区に入る前だ。
鞘から剣を抜き、近くに居た兵士に鞘を叩きつけた。
鞘は粉砕して、兵士は崩れ落ちた。
突然の襲撃に領主たちは騒ぎ、馬を混乱させた。
混乱した馬は取るに足らない。
足を狙い、肉体を縫うように動き、次々に足を斬った。
元来馬とは臆病な生き物だ。臆病を御するのは騎手の実力による。
救世の聖女の馬は切らなかったが、馬の尻を蹴ると戦場から走って逃げていった。
領主を睨むと、臆病な馬をなだめて、俺に向ってきた。
俺は混乱している馬の陰に隠れながら、俺の影のそのまま残した。
領主は俺の影を斬り付け、手ごたえが無いのに驚いた。
俺は領主の馬の足を切り抜いた。
足は物の様に倒れて、領主は地面に落ちた。
俺は領主を見下ろした。
「何故?」
「貴様の未来に罪がある」
俺は剣を振り下ろした。
「駄目」
剣は領主には落ちず、目の前に割り込んできた聖女の鎖骨に落ちた――止まった。
殺意のこもった打ち下ろしは瞬時に止まった。
視線が交錯した。
俺を見つめる眼には恐怖しかなかった。
俺の目の前が真っ赤になり、視界が溶けたようだった。剣を抜き、周りの連中を切り倒して、よろよろと退いた。
殺意が後ろから飛んできた。
俺は地面を転がり、近くの兵士を切り倒した。
殺意は矢となり襲ってきた。
その矢は俺のいた場所を通過して、救済の聖女を貫いていた。
気づいた時には、俺は樹の陰に隠れていた時間まで戻っていた。
口の端から血が流れて固まっている。
「殺してしまった」
聖女は覚醒しきっていない、一般人の少女と体力は同じと考えていいだろう。
あのままでは確実に死んでいた。
胸の痣はさらに黒くなっていた。
「最悪だ……」
俺は領主と聖女が離れ離れになるのを狙うことにした。
そうなると眠った後だ。
だが、眠っている時は警戒も厳しくなっている。
俺は禁猟区に先回りして、館へと先回りした。館の鍵が無いので中に入れなかったが、誰かがいる気配はあった。
俺は領主たちが来るのを待ち、鍵が開いた隙をついて中へと入った。
玄関には背を向けた兵士がいた。
俺は部屋の角に行き、目の前に俺が居なかったときの部屋の角を映した。
兵士は後ろを振り向いたが、そこには誰もいなかった。
俺は悠々と兵士の動きを見て、館の中を探索した。
探索して気づいたのは、この館には静養中の領主の母親がいたことだ。
救済の聖女の癒しの力で、肺の病を治そうとしているそうだ。
親孝行な領主だが、俺の毒牙は彼の命を奪おうとしている。
部屋の中に先回りして、眠っている間に濡れた布を顔にかけた。
息ができなく暴れながら起きたが、俺が身体を抑えた。
咄嗟に布を取っていた。
領主の脈を確認すると気絶していただけだった。
布を片付けて、暴れた形跡を消した。
俺は慎重に扉を開いて、音をたてずに玄関まで向かった。
玄関の前には兵士が立っており断念した。
誰もいない部屋を探して、窓を開けた。幸い音が出ずに、屋根の上に出ることができた。
地面へ飛び下りて、近くの樹の陰に隠れた。
見回りの兵士が音を聞きつけたが、俺はそこには居なかった。
殺すことができなかった。
俺は家へ帰る前に、何度も嘔吐した。