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ハルオは泉と智也を送りながら、智也の母親に対する気遣いぶりに感心していた。
自らは車道側を歩き、母親を歩道の真ん中あたりに誘導して歩いているのだが、その歩道も普段ハルオは気付かないが、かなり障害物が多い。
置き看板や立て看板、自転車などのはっきり分かる障害物も勿論だが、歩道のわずかな起伏や、やや、はがれかけたタイル。商店のテント布が少し破れて、大人の頭の高さのあたりにたれてきている物。
日ごろ目に留めていない物が、泉の歩行を妨げないように、しかも、他の歩行者の邪魔にならないように、注意を払いながら智也は母親を誘導している。これほど幼くても十分に泉の目の代わりを務めていた。
「す、すごいですね、智也君。り、立派に、い、泉さんの、エ、エスコートが出来てる」
ハルオは舌を巻いた。
「この子は物心がついた時から、主人と一緒に私を誘導してくれていますから。もう、身体の感覚で分かってくれているんです。今では主人や兄と一緒に歩くよりも、頼りになるくらいです」
泉も誇らしげに答える。
「な、何だか、た、大変ですね。ご、ご自分が、ふ、不自由で、お、お子さんもいらっしゃるのに、お、お兄さんがこんな稼業に、く、首を突っ込んでいるなんて」
「それは大丈夫です。兄の事は兄の事。私達の生活には関係ありません。むしろ、こてつ組の会長さんには、私達はとてもお世話になったんです。兄がその恩返しをしようとするなら、私に止める権利はありませんから」
泉は意外なほど、自然な笑顔で答えた。
「で、でも、ふ、不安や、し、心配になるんじゃ、な、ないですか?」
「そうでもないですよ。今よりも、堅気でいた時の兄の方が、心配でした」
「か、堅気の方が? な、何故です?」意外な言葉にハルオは戸惑う。
「兄は堅気でいた時の方が、人を信用しようとしませんでしたから。私の事を抱えていたし、そういう環境に暮らしたのだから、ある程度は仕方ないんでしょうけれども、それにしても兄は人を疑い過ぎる傾向がありました。自分はいつだって切られかねない。存在が無かったものにさせる。そんな思いをいつもどこかに抱えていたんでしょう」
泉の言葉に、少し、苦い物が混じる。しかし、泉はそのまま話し続ける。
「人はね、手を伸ばしてもらえない事が辛いんじゃないんです。勿論、それがなければ生きていけない時もあるし、必要な時もあります。でも、いつかは自分たちの努力で解決する日が来ます。不便はいつの日か乗り越えられる。だけど、見放され、諦められてしまったら、可能性を信じてもらう事が出来なかったら、それは本当につらい事なんです。兄はきっと、堅気の世界よりも、今の世界の方が、見放されることは無い。自分の可能性を信頼してもらえる。そう、思っているんじゃないかしら?」
泉の口調は、ハルオに語ると言うよりも、兄の心を自分に言い聞かせているようなものになった。
「兄は、今の方が幸せなんでしょう。私が、目を失う前より、今の方が幸せであるようにね」
泉はやわらかくほほ笑む。
一樹さんはこっちの世界に自分の可能性を見出して、それを信じているのか。俺は自分の可能性なんて、見出せていない。ようやく刃物を握りだしたが、ちょっとしたことで動揺しちまう。だからさっきも香さんを守りきることができなかった。香さんに軽蔑されても仕方がないか。ハルオはため息をついてしまい、泉はそれを聞きつけたようだ。
「大丈夫。ハルオさんも香さんに、可能性を信じてもらっているから」泉は明るくいった。
「そ、そうでしょうか? い、今だって、か、香さんに、お、追い返されたし」ハルオは暗い声を出す。
「それは違うわ。彼女、智也を身を張って守ってくれた。そんな智也を守ってもらうのに、香さんは兄ではなく、あなたを選んだのよ。自分よりも、自分が守ろうとしたものを任せるなんて、本当にあなたを信頼しているの」
すると智也と泉がアパートの前で足を止めた。ここに住んでいるらしい。
「送ってくださってありがとうございました。早く香さんのところに戻ってあげて。すぐ、仲直り出来るから」
そういいながら、泉は手慣れた様子で鍵を開ける。
「お母さん! 早くおやつ!」家に着いて智也もホッとしたのか、子供らしい無邪気な顔で、泉にまとわりついて催促をする。それを見てハルオも「し、失礼します」と言って、来た道を急いで戻って行った。