懐中時計とナイフ
それが夢であったと分かってから、僕はやはり現実の有り様にひとしきり失望し、それに納得するだけ納得すると、ようやく重い腰を上げた。父のわずかに遺した銀色の懐中時計と研きこまれたナイフとを鞄に詰め込み、僕は失望とともに、何の魅力も持たなくなったこの故郷に別れを告げることにした。
急に思い立った訳ではない。最後の肉親である父の病状が悪化し、彼の命が救うことのできないそれであると判明してから、僕は以来数年の歳月をかけてこれから始める旅の計画を練っていたのだ。
ドアを開けると実に清々しい風が吹いた。嗅ぎ慣れたこの風の香ともお別れなのだ。計画していたとはいえ、別れとなると寂しくなるものだ。胸一杯に風の香を吸い込むと、肩に提げたカバンを気持ちの良い位置へと提げ直し、ここからしばらく先の駅へと向かった。
駅に着くと少年とその母親が汽車を待っていた。どうやら同じ汽車に乗るようだが、だとすればあと30分間は汽車の到着を待たねばならなかった。
「ママ、汽車はまだ来ないの?ぼく、待ちくたびれちゃったよ」
「そうね、もう少しよ。さっき駅員さんから聞いたでしょ?あと30分間よ」
「もう少し、もう少しって、ママはさっきから同じことばかり繰り返しているよ」
「そうね、ごめんなさいね。ママが悪かったわ」
「ねえ、ママ、もうダメだよ、喉が渇いて仕方ないよ」
「りんごがあるわ。りんごを食べてあと30分間だけがんばりましょう?」
何てことのない親子の会話であった。しばらくここで汽車を待っているようで、少年が待ちくたびれてぐずり始めたのだ。
「りんご、食べる。ねえ、ママ、皮を剝いてちょうだい」
「そのままかじるのよ?ここはお家じゃないんだから」
「いやだよ、皮を剝いてくれないと食べれないよ」
そんな親子のやり取りを聞いて、僕は母親を気の毒に思った。小さな子を連れて汽車の到着を待つだけでも大変なのに、その上、ぐずり始めて無理な注文を突き付けられ、困っているだろう。
僕はその親子に近づき、こう申し出た。
「こんにちは。もしお手伝いできるなら、僕がりんごの皮を剝きましょうか?」
親子は初めこそ用心を見せたが、僕が怪しい類の人間ではないだろうことが分かってから、
「すみません、お願いできますか?」
と母親が言った。
僕はカバンから父の形見の一つであるナイフを取り出し、慣れた手つきでりんごの皮を剝いていった。
家族を失ってからというもの、りんごの皮剝きくらい朝飯前なのだ。
「はい、どうぞ。ちゃんとお母さんにもあげるんだよ?」
少年は幾つかに切り分けられたりんごを手に取ると、
「うん!ママ、はいどうぞ」
と言って母親にりんごを差し出した。
汽車に揺られながら外の景色を見た。街は既に闇に染まりつつあった。
ところどころに灯りが見えるが、汽車の騒音が景色のずっと向こう側の人々の生活を余計に静かなものであるように感じさせた。
汽車には様々な乗客があった。待合室で出会った親子の他に、身分の良さそうな紳士もいたし、旅行中の身なのであろうか、僕と似たような格好をした若者たちの姿もあった。誰もが何かのためにこの汽車に乗り、誰もがその目的のために、やがて到着する駅で汽車を降りるのだ。
僕は車内では誰とも話さなかった。これから待ち受けるであろう旅先での運命に思いを馳せながら、やはりぼんやりと外の景色を眺め、汽車に揺られていた。
汽車はムスペルヘイムに到着した。乗客たちは長い時間に渡って汽車に揺られていたために、皆降車すると一様に背伸びをした。
ムスペルヘイムは伯父の住む街であった。
父が生前、
「父さんが死んだら、ムスペルヘイムの伯父を訊ねるといい。スルトという腕の良い鍛冶屋を訊ねてまわればすぐに会えるだろう」
と言っていたのだ。伯父とはこれまで一度たりとも会ったことはない。父が死んだとはいえ、それで伯父を頼りにするというのも何とも心苦しい感じがした。かつて鉱山で鉱脈を掘り当て、一夜にして大富豪になった家族があったが、同時に一夜にして知人が倍にも増えていたのを何となく思い出した。
伯父を訊ねるついでに、ちょうど昼食をとれる店をまわってみた。
ムスペルヘイムは豊富な鉱山資源で栄えた街であった。ゆえに鉱山で働く男たちが多く、昼食の休憩をとる男たちも見るからに屈強そうな者たちばかりであった。
「てめえが悪いんだろうが!のされる前に出て行けや!」
昼食を食べていると、突然店内からそんな怒号が聞こえた。




