朧晃の霧
玉寧寺に学ぶ僧・薛諸は、孝昇寺への使いの帰路を急いでいた。貴重な陶器が収められた行李を大事そうに抱えて。
「この陶器、よほどの値打ち物だろう、金子にすれば数年は安泰・・・あくせく修行したところで高僧となれる保証もなし、どこか足のつかない市場で売りさばけば・・・」
慈学に反する悪しき考えが頭をよぎる。心も千々に乱れれば足取りも乱れ、気づけば、深い霧の中に迷い込んでいた。張り上げた声さえ霧に吸われ、薛諸はますます動転する。
どれほど走ったか、一歩一歩が鉛のように重い。それでも歩いているうちに、幽かに明るい兆しを感じた。そちらに歩を定めると、カラカラと音が聞こえ、やがて水車小屋が霧の中から姿を現す。
「人里か!」
安堵のため息を深くする。 先ほどより幾分晴れてはいるが、依然霧が濃い。どうにか街並みの全景を見ようと目を凝らしていると、背後からの声に振り返る。
「来自哪里(どこから来たの)」 見ると膝ほどの童だ。
「大方、この霧を見物に来たのでしょう」
「い、いや、私は迷い込んで」
「同じことじゃない」
童はころころと笑い声を上げる。
「ところで、小宝(坊や)、ここは何と言う街だい」
「朧晃」
朧晃、と思わず繰り返した。つい先ほど、朧気な光に誘われた薛諸にとって、その地名は実に相応しいものと思えた。
「あれ、どうやらこの辺の人じゃないね」
「しっ、聞こえるよ」
振り返ると、通りの反対側、柳の下で、女が2人こちらを見ながらひそひそと話していた。
「聞こえたって構うものか、すぐわかるよ、霧でずぶ濡れじゃないか、服も行李もね」
その一言にはっとなり、行李を検める。あの陶器がない! 慌てた薛諸は女に問う。
「ご婦人方、陶器を知りませぬか!?」
「陶器ねえ、相すまないけど、久方見ていないねえ」
「でも、失せ物があったら老太上に聞きなさいとは言うよ」
「どこです、その老太上という方は」
「あの階段を登ったらすぐさ」
踵を返し、霧に濡れた石畳に転ばぬよう注意しながら、階段を駆け上がる。果たして、階段の中ほどに座り胡麻団子をつまみ食べる老婆がいた。
「老太上!いつから、そのように座っておられるのですか」
「こないだ月が出た時からだよ、もう大分長いよ」
「この朧晃とは、不思議な街ですね」
「そうさね、何せ渓仙様が谷の中に拵えた街だもの。丁度この階段が元は滝のあたりだったのだよ」
「それで今も霧の雫が流れ落ちているのですね」
「なかなか話の分かるお人だ、一つお食べ」
団子を食べると不思議と腹が膨れ、後は寝るだけとなった。しかし地べたに寝ては余計にずぶ濡れとなってしまうだろう。 運良く、階段の裏側が邸店となっており、そこに投宿することとなった。
「この部屋からは湖がよく見えるね」
「へえ、この宿一番の見晴らしの良い部屋でさ」
その晩は延々と続く廊下を掃き清める夢を見た。 あくる朝、宿の主人に問うて、
「ここから玉寧寺まではどう行けばいいかな」
「西です、西、ずっと西を目指してください」
「船を雇えぬかな」
「勿論ですとも、西に漕ぐよう伝えましょう」
濃い霧の中を船で渡っていると、不意に船頭が声をかけてきた。
「旦那、お許しください。実は陶器を盗んだのは私なんでさ。陶器と、お詫びに千金をお納めします」
薛諸はたいへん驚いたが、
「陶器さえ返してくれれば良い」
と答え、もとの行李に仕舞った。すると嘘のように霧が明け、気づけば玉寧寺の郊外に出ていた。
振り返れば、船頭が霧の中に戻るところであった。
「薛諸殿、お励みあれ」
薛諸から陶器を受け取った玉寧寺の住持は、しげしげと彼の顔を覗き込んだが、「ご苦労」と声をかけた他は何も言わなかった。




