第7話 旅立
このころ私は新しいリラクゼーション法を見つけていた。それは彼の曲を聴きながら、深呼吸をする、というもの。不思議とこころがほぐれていくから、毎晩の日課になっていた。
「おやすみなさい」
私は夜寝る前に聴くとお決まりにしていた曲を聴き終えると、すやすやと眠りについた。
このころは夜明け前に妙な景色を見ていた。それは光り輝く菊の紋章が回転しているものであったり、石板に書かれてありそうな文字が光ってローリング表示されていったり、絵の描かれた板であったり、数字の描かれた板であったり、とにかく色々なものを繰り返し見せられて、不思議な気持ちで眺めていた。それは、数分間つづくこともあり、それは何故か怖くはないものだった。綺麗だなと思って見ていた。
そのうち、私はネットで知ったのであるが、その文字はおそらく「ヘブライ語」で、それは右から左へ読むらしい。読んでみようと試みた朝もあったが、もちろん私にわかるわけはなくて、徐々に天井をスクリーンにしたかのように目の前に映し出されていく、その不思議な形の文字を、ただただ目で追っていた。
あるとき私は西へ行かなければならない気がして、できたら北の方がいいとも思った。そして古い神社があるところがいいと思った。その方角にある何かを調べて、2つ候補があがったけれど、より北にあって、より古い神社の方に、行き先を決めた。それは古い神殿跡で、今も大きな神社が位置している。近くの温泉宿を予約して、新幹線と特急列車の切符をとったのであるが、その時には何故か涙が出てきて、あれっと不思議に思った私は、涙のいく末を見守り、その温もりを感じていた。その涙はただすっと綺麗に流れ落ちた。感情は動かなくて、それでいて綺麗な涙だった。
ある時には旅立ちの予感がして、それはなぜか強いものであって、大人になってそうそうない号泣をしたのであった。喜びと悲しみと覚悟が入り混ざったような大きな気持ちが渦になって、目が腫れるくらいわんわんないた。
ある日の仕事の帰りの電車では、信号機の中にどんどん増えていく光る数字をみて、なんとなく「あぁ、これは次元調整であるな」なんて感じていた。私の体は多次元に対応しようとしていて、それを誰かが導いているのだと、思った。
もう限界かもしれないと思って、ユウコには仕事に行けなくなるかもしれないと、伝えておいた。身を案じてくれたユウコは、「こっちのことは気にしないで」と言ってくれて、気持ちは楽になった。私はしばらく休みをもらうことになった。
出発前日には、てのひらの中で、透明で青く光る小さな地球を作っていた。上に、下に、ひっくり返して、愛しくまぁるく整えた。私はそんな幻想を見た。また、涙が出てきた。荷物を用意する気分にもなれなかった。しあわせだった。
旅の当日は、とりあえず必要になりそうなものを手当たり次第にカバンに詰めて、その日に着る服も適当に選んで出発した。心のなかで、明るく誰かがカウントダウンした。3,2,1,GO!それと同時に玄関を出た。晴れた明るい早朝だった。
長い電車の旅の末に辿り着いた駅から宿への道のりは寂しげでいて、控えめな草花が愛しかった。温泉宿に着くと、建物は古いが、なかはなかなか優雅な旅館であって、落ち着いた雰囲気のロビーではコーヒーをいただけて、色とりどりの浴衣から好きなものを選べた。こういう仕組みは楽しくて嬉しくなるから好きだ。私は桃色の花柄の浴衣を選び、部屋へと案内された。このときは、まだぎりぎりの平常心を保っていた、はずだった。
通されたのは、妙に広い部屋だった。それはラッキーというより、ちょっと怖いように思えた。予約した部屋とは違うように思えて不思議であったけれど、まぁいいかと特に何も聞かなかった。
上品な仲居さんがお茶を入れてくれて、少し会話をしたあと、下がっていったから、私はくつろごうとしたが、落ち着かない。慣れない和室ということと、ここが広くて静かすぎるからではないかと思った。私は、受け取った1枚の街歩き用の地図をながめながら、外に出てみようと決めた。
早速、隣の部屋に移って部屋で浴衣に着替えようとしたけれど、進まない。体がうまく動かなくて、気が散る。
誰か来る──。
あれ? なんで? 頭が混乱してきた。
早く着替えて、街歩きに繰り出して、それから部屋の露天風呂に入って、美味しいご飯が待っているというのに!
ここは精神集中だ! と、煩悩をつよく振り切って、動きの制限された身体でなんとか着替えをすすめていったのだけれど、まだ誰かが来る気がしてならないのだ。
その誰かとは彼、そう、つまりオクトシアブルのボーカルであった。
私は、ついに頭がおかしくなったのかと思った。もうすでに身の回りでは十分に奇特なことは起きていたのであるが、ついに越えてはならない一線を越えてしまった気がした。
――なんという妄想だ。勘違いも甚だしい。
その葛藤はこころに秘めて、なんとか桃色の浴衣へと着替え終わったら、もうすぐごはんの時間であったから、外には出られないことが決定した。ここはレストランでの食事で、海鮮に和牛の豪華なメニューのプランを予約していたわたしは、予約を検討しているときからとても楽しみにしていた。のだけど、このときは食欲とはほど遠いところにわたしの意識はあって、おなかにはくすぐったいようなじんわり温かいなにかが流れていて、正直ごはんどころではない気分だった。
レストランへ、いかなくちゃ。なんだか意識がぼーっとする。
少し洋風で優美なレストランでは窓際の席へと案内されて、私はとりあえずワインを頼んだ。ワインリストを受け取り、白ワイン、シャブリをお願いした。
洋を感じる調度品と装飾は、少しだけ私を落ち着けて現実へと引き戻してくれた。よく冷えたワインだけは味もして、その硬質な液体の潤いと喉に流れ落ちる触覚の刺激はこのときの私の状態によく調和するもので、それは心地よく進むのだけれど、肝心のお料理はひと口を口に入れても味のしない柔らかくぷにょぷにょしたゴムのようで、それはただの物質でいて私の身体は弾こうとしてきた。ふたたびワインでじゅうぶんに潤して、ふたくちめを口にいれるが、私の身体はそれを食べ物だと認識をしてくれなくて、食べることができない。
おなかがすいていない、そんな単純な理由だけでなくて、とにかく食べられなかった。胸にロックがかかっているようだった。
気にかけてくれたお店の方に途中で正直に事情を話して、お料理をストップしてもらった。
デザートのフルーツだけは、私の身体と心はそれが私の食べ物であると認識をしてくれたのか、少しは食べることができた。
このときの私はお店の方からどのように見えていただろう。
用意してくださった、おにぎりと、飲み残したワインボトルを受け取って、部屋へと帰った。
部屋に帰る途中の階段で、何かを感じた。
そこからの記憶は、正直なところ、とぎれとぎれで、私は論理的にここで語ることはまだできない。
旅館の窓際にあるスペースで、ワインボトル片手に宇宙の幻想を見た。
私はわけのわからない状態で、指でサインを送ってみたり、腕を大きく上に上げたり回したりして舞い踊ったり。
それは、きっと、なにかの「技」らしい。なにも教わったことはないのに、なぜこんな動きが自然にできるのかは、全くわからなかった。
なぜだか私は重大な責任を感じながら、集中して丁寧に、心を込めて舞っていった。
はだけた浴衣を気にする余裕もなくて、ただ迫ってくる光の魔人のような幻想をやっつけて、なにかとなにかを重ね合わせて、なにかになにかが当たらないようにして、それを誰かと力を合わせて技を繰り広げて乗り切った。
──私は宇宙戦争を止めた。気がした。
その旅館の窓際のスペースは広縁というらしい。私は、あれから広縁には入ったことが、まだない。とてもとても、この日は濃い1日であった。
私はあれから永く思えた長い時を経て、ようやく紐解き書き綴っている。
ひふみよいむなやまであるこの小説
なからひちにと かえてゆくよ
ながいゆめ たどりつくのは 此処ですね
詞のことだま 響けエデンで
めをとじて みたゆめのあと かさねたね
わたしのみたま ここでひらくよ
まぼろしの なかでみた物 わすれない
あらたな日々よ ここで描くよ
あそびゆく こころのゆくさき ここだった
わたしのおもいよ あがりゆけなむ




