第52話「交差する選択、名もなき旅人」
川は、夜のあいだも止まらなかった。
水音は一定ではなく、
深くなるところでは低く、
石にぶつかるところでは鋭く跳ねる。
街の音と違って、
そこには“正解の音量”なんてものはない。
ただ、流れているだけだ。
◆
焚き火は完全に落とした。
残ったのは、炭の熱と、
かすかな焦げの匂いだけ。
それでも、誰かが近づけば分かる。
旅人は、音より先に“気配”を連れてくる。
◆
灯が、川下のほうで微かに揺れた。
警戒ではない。
拒絶でもない。
接触の予兆。
俺は立ち上がり、
リルナの肩に手を置く。
「起きろ。
誰か来る」
リルナはすぐに目を開けた。
眠ってはいたが、
深くは落ちていない。
旅は、人を浅い眠りにする。
◆
川沿いの闇の中から、
人影が現れた。
ひとり。
背は高く、痩せている。
外套は古く、何度も繕われている。
武器は持っているが、
抜く気配はない。
その歩き方で分かる。
この男は、逃げてきた者だ。
◆
男は、こちらに気づくと立ち止まった。
距離はまだある。
互いに手を出せない距離。
ちょうどいい。
「……火、使ってないのか」
男が言った。
声は低く、疲れている。
「ああ」
俺は答える。
「追われてる」
それは質問ではなかった。
確認だ。
俺は否定しない。
「お前もか」
男は、短く笑った。
だが、その笑いには
自嘲しか混じっていない。
◆
男は、川を背にして腰を下ろした。
こちらを警戒しつつも、
逃げるほどの余力はなさそうだった。
「……街を出た」
男は言った。
「理由は?」
俺が尋ねる。
「息ができなかった」
それだけだった。
詳しい説明も、
正当化も、
怒りもない。
ただ、事実だけ。
リルナが、男をじっと見ている。
この男は、
彼女がいた“少し先の未来”だ。
◆
「追手は?」
俺が聞く。
「いた。
……たぶん、今もいる」
男は肩をすくめた。
「でもな、
俺はもう戻らない」
その言葉に、
リルナの指が少し動いた。
◆
男は続ける。
「街は正しい。
安全だ。
誰も飢えないし、
誰も泣かない」
そこで一拍置く。
「でも……
誰も、選ばない」
リルナが、思わず口を開く。
「……それ、苦しくない?」
男は、ゆっくり彼女を見る。
年は二十代後半か、
三十に届くかどうか。
疲れ切った目だが、
その奥には、まだ火が残っている。
「苦しいさ」
男は言った。
「だから、出た」
リルナは息を呑む。
彼女は、初めて見る。
自分と同じ選択をした“他人”を。
◆
俺は、男に聞いた。
「行き先は?」
男は首を振る。
「決めてない。
決められない」
正直な答えだ。
街を出た者すべてが、
すぐに旅人になれるわけじゃない。
逃げただけの者もいる。
それは弱さじゃない。
過程だ。
◆
リルナが、勇気を出して言った。
「……あたし、さっき道を選んだ」
男が眉を上げる。
「選んだ?」
「うん。
どっちに行くか、
あたしが決めたの」
男は一瞬、言葉を失った。
それから、
ゆっくり笑った。
今度は、自嘲じゃない。
「……すごいな」
その一言は、
リルナの胸に深く刺さった。
誰かに評価されるためじゃない。
誰かに認められるためでもない。
ただ、
自分の選択が“外の世界でも通じた”
という事実が、彼女を強くした。
◆
男は、しばらく考えてから言った。
「俺は……
しばらく川を下るつもりだ」
それは、
逃げでもあり、
選択の芽でもある。
リルナが俺を見る。
「一緒に行く?」
と聞きたそうな目。
俺は首を振らない。
だが、口は出さない。
これは――
他人の選択だ。
◆
男は、リルナに聞いた。
「嬢ちゃんは?」
リルナは、少し考えてから答えた。
「……あたしは、
この人と歩く」
俺を指す。
その声に、迷いはなかった。
男は頷いた。
「いい顔だ」
短い言葉。
だが、そこには祝福があった。
◆
男は立ち上がる。
「じゃあな。
……生きろよ」
その言葉は、
祈りでも命令でもない。
選択を尊重する挨拶だ。
男は川沿いを下っていく。
背中はまだ重いが、
足取りは、来たときより少しだけ軽い。
◆
リルナは、男が見えなくなるまで見送った。
「……あの人、どうなると思う?」
「分からない」
俺は正直に言う。
「でも、
戻らなかった時点で、
もう一度は生きてる」
リルナは、ゆっくり頷いた。
◆
灯が、川面に影を揺らす。
影は二つに分かれ、
またひとつに戻る。
交差して、離れて、
それぞれの道へ。
旅は、共有もできるし、
分かれることもできる。
それを強制しないことが、
旅の条件だ。
◆
リルナが、小さく言った。
「……あたし、分かったかも」
「何をだ」
「旅って、
一緒にいなくても、
同じ方向を向いてなくても、
いいんだね」
「そうだ」
俺は答える。
「だから、強い」
◆
夜が、少しだけ明るくなる。
空が、青を取り戻し始める。
この世界には、
まだ均一の影が残っている。
だが同時に、
選択した者たちの足跡も、
確かに増え始めている。
旅は、伝播している。
音もなく。
炎上もせず。
ただ、
静かに。




