表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/52

第52話「交差する選択、名もなき旅人」

 川は、夜のあいだも止まらなかった。


 水音は一定ではなく、

 深くなるところでは低く、

 石にぶつかるところでは鋭く跳ねる。


 街の音と違って、

 そこには“正解の音量”なんてものはない。


 ただ、流れているだけだ。



 焚き火は完全に落とした。


 残ったのは、炭の熱と、

 かすかな焦げの匂いだけ。


 それでも、誰かが近づけば分かる。


 旅人は、音より先に“気配”を連れてくる。



 灯が、川下のほうで微かに揺れた。


 警戒ではない。

 拒絶でもない。


 接触の予兆。


 俺は立ち上がり、

 リルナの肩に手を置く。


「起きろ。

 誰か来る」


 リルナはすぐに目を開けた。


 眠ってはいたが、

 深くは落ちていない。


 旅は、人を浅い眠りにする。



 川沿いの闇の中から、

 人影が現れた。


 ひとり。


 背は高く、痩せている。

 外套は古く、何度も繕われている。


 武器は持っているが、

 抜く気配はない。


 その歩き方で分かる。


 この男は、逃げてきた者だ。



 男は、こちらに気づくと立ち止まった。


 距離はまだある。

 互いに手を出せない距離。


 ちょうどいい。


「……火、使ってないのか」


 男が言った。


 声は低く、疲れている。


「ああ」


 俺は答える。


「追われてる」


 それは質問ではなかった。


 確認だ。


 俺は否定しない。


「お前もか」


 男は、短く笑った。


 だが、その笑いには

 自嘲しか混じっていない。



 男は、川を背にして腰を下ろした。


 こちらを警戒しつつも、

 逃げるほどの余力はなさそうだった。


「……街を出た」


 男は言った。


「理由は?」


 俺が尋ねる。


「息ができなかった」


 それだけだった。


 詳しい説明も、

 正当化も、

 怒りもない。


 ただ、事実だけ。


 リルナが、男をじっと見ている。


 この男は、

 彼女がいた“少し先の未来”だ。



「追手は?」


 俺が聞く。


「いた。

 ……たぶん、今もいる」


 男は肩をすくめた。


「でもな、

 俺はもう戻らない」


 その言葉に、

 リルナの指が少し動いた。



 男は続ける。


「街は正しい。

 安全だ。

 誰も飢えないし、

 誰も泣かない」


 そこで一拍置く。


「でも……

 誰も、選ばない」


 リルナが、思わず口を開く。


「……それ、苦しくない?」


 男は、ゆっくり彼女を見る。


 年は二十代後半か、

 三十に届くかどうか。


 疲れ切った目だが、

 その奥には、まだ火が残っている。


「苦しいさ」


 男は言った。


「だから、出た」


 リルナは息を呑む。


 彼女は、初めて見る。


 自分と同じ選択をした“他人”を。



 俺は、男に聞いた。


「行き先は?」


 男は首を振る。


「決めてない。

 決められない」


 正直な答えだ。


 街を出た者すべてが、

 すぐに旅人になれるわけじゃない。


 逃げただけの者もいる。


 それは弱さじゃない。

 過程だ。



 リルナが、勇気を出して言った。


「……あたし、さっき道を選んだ」


 男が眉を上げる。


「選んだ?」


「うん。

 どっちに行くか、

 あたしが決めたの」


 男は一瞬、言葉を失った。


 それから、

 ゆっくり笑った。


 今度は、自嘲じゃない。


「……すごいな」


 その一言は、

 リルナの胸に深く刺さった。


 誰かに評価されるためじゃない。

 誰かに認められるためでもない。


 ただ、

 自分の選択が“外の世界でも通じた”

 という事実が、彼女を強くした。



 男は、しばらく考えてから言った。


「俺は……

 しばらく川を下るつもりだ」


 それは、

 逃げでもあり、

 選択の芽でもある。


 リルナが俺を見る。


 「一緒に行く?」

 と聞きたそうな目。


 俺は首を振らない。


 だが、口は出さない。


 これは――

 他人の選択だ。



 男は、リルナに聞いた。


「嬢ちゃんは?」


 リルナは、少し考えてから答えた。


「……あたしは、

 この人と歩く」


 俺を指す。


 その声に、迷いはなかった。


 男は頷いた。


「いい顔だ」


 短い言葉。

 だが、そこには祝福があった。



 男は立ち上がる。


「じゃあな。

 ……生きろよ」


 その言葉は、

 祈りでも命令でもない。


 選択を尊重する挨拶だ。


 男は川沿いを下っていく。


 背中はまだ重いが、

 足取りは、来たときより少しだけ軽い。



 リルナは、男が見えなくなるまで見送った。


「……あの人、どうなると思う?」


「分からない」


 俺は正直に言う。


「でも、

 戻らなかった時点で、

 もう一度は生きてる」


 リルナは、ゆっくり頷いた。



 灯が、川面に影を揺らす。


 影は二つに分かれ、

 またひとつに戻る。


 交差して、離れて、

 それぞれの道へ。


 旅は、共有もできるし、

 分かれることもできる。


 それを強制しないことが、

 旅の条件だ。



 リルナが、小さく言った。


「……あたし、分かったかも」


「何をだ」


「旅って、

 一緒にいなくても、

 同じ方向を向いてなくても、

 いいんだね」


「そうだ」


 俺は答える。


「だから、強い」



 夜が、少しだけ明るくなる。


 空が、青を取り戻し始める。


 この世界には、

 まだ均一の影が残っている。


 だが同時に、

 選択した者たちの足跡も、

 確かに増え始めている。


 旅は、伝播している。


 音もなく。

 炎上もせず。


 ただ、

 静かに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ