第51話「選択の重さ、廃れた道標」
草原を抜けると、道が現れた。
舗装はされていない。
轍は不揃いで、足跡もまばら。
かつて多くの人が行き交った痕跡はあるが、今は忘れ去られている。
それでも――道は、道として残っていた。
世界が均一になる前の、
人が自分の意思で選び、迷い、進んだ痕。
◆
リルナは立ち止まり、道の中央に立った。
左右に分かれている。
左は、丘を越えて森の影へ続く道。
右は、川の音が聞こえる低地へ向かう道。
どちらも危険はある。
どちらも安全は保証されない。
街なら、ここに案内板が立つだろう。
「最適な進路はこちら」と、迷いを排除するために。
だが、ここには何もない。
選ぶしかない場所だ。
◆
リルナが俺を見る。
「……どっちに行くの?」
問いかけは、依存ではない。
確認だ。
俺は答えない。
代わりに言う。
「決めろ」
リルナの目が揺れた。
「え……?」
「これは、お前の旅だ」
俺は静かに言う。
「俺は隣を歩く。
だが、選択はお前がする」
その言葉は、
彼女にとって初めて突きつけられる自由の重さだった。
◆
リルナは唇を噛む。
街では、選択はなかった。
いつ起き、
どこへ行き、
何を考えるか――
すべて決められていた。
選ばないことが安全だった。
選ぶことは、間違いとされていた。
だが今――
選ばなければ、前に進めない。
◆
灯が、道の分岐点で揺れる。
どちらを選んでも否定しない。
どちらを選んでも助言しない。
それが灯の立場だ。
世界を映すが、
世界を決めはしない。
◆
リルナは、深く息を吸った。
風の匂いを嗅ぐ。
土の湿り気を感じる。
遠くの水音に耳を澄ます。
そして、右の道を見る。
川の音。
水は命。
危険もあるが、恵みもある。
リルナは、ゆっくりと右へ一歩踏み出した。
◆
「……こっち」
声は小さい。
だが、揺れていない。
その瞬間、彼女の背中から、
目に見えない鎖が一本、外れた気がした。
俺は頷く。
「いい選択だ」
評価ではない。
肯定だ。
間違いでも、正解でもない。
選んだこと自体が価値だ。
◆
道を進む。
川が近づくにつれ、空気が湿り、
草の背が高くなる。
やがて、朽ちた石柱が見えた。
古い道標だ。
文字はほとんど削れているが、
かろうじて読める。
――《王都まで三日》
リルナが目を見開いた。
「王都……?」
俺は石柱を見つめる。
かつての王都。
俺が知っている“滅んだはずの場所”。
だが、この世界では――
王都という概念が再利用されている。
同じ名前。
同じ役割。
だが、中身は違う。
◆
「行く?」
リルナが聞く。
声には、不安と興味が混ざっている。
俺は少し考えてから答える。
「すぐには行かない」
「え?」
「王都は、秩序が一番濃い場所だ」
俺は言う。
「今の俺たちには、少し早い」
逃走者として、
感染源として、
まだ“力”が足りない。
力とは、武力だけじゃない。
選択を重ねる力だ。
◆
リルナは頷いた。
拒まれたわけじゃない。
延期されたのだと理解した。
それだけで、彼女は前より少し大人になった。
◆
川辺に出る。
水は澄んでいるが、流れは速い。
渡るか、
沿って進むか、
ここでも選択が必要だ。
リルナが俺を見る。
今度は、すぐに答えない。
少し考え、
石を拾い、
川に投げる。
流れを観察する。
その姿を見て、
俺は内心で笑った。
この子は、もう考えることを恐れていない。
◆
リルナは言った。
「渡らない。
沿って行こう」
「理由は?」
「……流れが速すぎる。
今は、危ない気がする」
感覚的な判断。
だが、それでいい。
旅において、
すべての理由が言語化できる必要はない。
◆
俺たちは川沿いを進む。
しばらく歩くと、
焚き火の跡が見えた。
新しい。
誰かが、最近ここを通った証拠。
リルナが緊張する。
「……人?」
「ああ」
俺は言う。
「俺たちだけじゃない」
この世界には、
均一に従わなかった者たちが、
まだどこかにいる。
逃げた者。
隠れた者。
あるいは、最初から外にいた者。
◆
その夜、俺たちは川の音を背に休んだ。
焚き火は小さく。
煙を抑え、光を隠す。
リルナは火を見つめながら言う。
「ねえ、アルス」
「なんだ」
「選ぶって……
ちょっと怖いけど、
嫌いじゃない」
俺は答える。
「その感覚を忘れるな」
選択が怖いのは、生きている証拠だ。
怖くなくなったら、
また檻が始まる。
◆
灯が、川面に影を落とす。
揺れる水に、影が歪む。
均一ではない。
不安定だ。
だが、確かに美しい。
この世界は、
まだ終わっていない。
そして――
選択を恐れない者が増える限り、
この世界は何度でもやり直せる。




