第50話「追跡者と、旅が伝播する音」
夜明け前の空は、不安定だった。
青になりきれない黒。
黒に戻ることもできない青。
その境目の色は、街の均一な朝には存在しない。
だからこそ、リルナは眠りながらも眉をひそめていた。
夢の中でさえ、世界が揺れているのだろう。
◆
俺は岩陰から一歩だけ離れ、草を踏む。
音は小さい。
だが、この世界では小さい音ほど意味を持つ。
灯が即座に反応した。
影が伸び、地面に薄く広がる。
警戒ではない。
感知だ。
来る。
まだ見えないが、確実に。
◆
空気が、ほんのわずかに均され始めている。
風が一定方向に揃い、
虫の音が遠のき、
夜明けの冷え込みが、なぜか“快適な温度”に寄せられる。
この感覚を、俺は知っている。
街の外だろうと、
秩序は追ってくる。
街という形を失っても、
規定という概念は移動可能だ。
◆
灯が、俺の横で揺れた。
影が指し示すのは、草原の向こう――
低い丘の稜線。
そこに、人影がある。
ひとりではない。
三、いや四……いや、数を数える意味はない。
あれは個体ではない。
機構の一部だ。
◆
俺はリルナの肩に手を置き、静かに揺らす。
「起きろ」
リルナはすぐに目を開けた。
街で暮らしていた頃の彼女なら、
この時間に起きることはなかった。
だが今は違う。
旅が、彼女を“軽い眠り”に変えた。
「……来た?」
「ああ」
それだけで十分だった。
泣かない。
逃げ腰にもならない。
小さな手が、無意識に俺の外套を掴む。
それは恐怖ではない。
離れないという意思だ。
◆
丘の向こうから現れたのは、
人の形をした存在だった。
鎧を着ているが、街の兵士とは違う。
武装は簡素で、装飾もない。
目がある。
だが、焦点が合っていない。
街の“排除専用個体”とも違う。
もっと曖昧で、
もっと柔らかい。
追跡専用の調整個体。
殺すためではない。
連れ戻すための存在。
◆
先頭に立つ個体が、声を発した。
「逃走者を確認」
感情のない声。
だが、前よりも“人に近い”。
この世界は学習している。
矯正だけでは足りないと。
完全な無感情では、逃走者を捕まえられないと。
だから――
少しだけ人間性を残した。
それが、逆に危険だ。
◆
リルナが小さく息を呑む。
「あれ……人?」
「人だったものだ」
俺は答えた。
「今は、“戻す役目”だけを与えられてる」
リルナは歯を食いしばる。
「……戻らない」
その言葉は、震えていたが、折れてはいなかった。
旅は、もう彼女の中で根を張っている。
◆
追跡者たちは、一定の距離を保って近づいてくる。
走らない。
叫ばない。
焦らせない。
逃げる者が疲れるのを待つ。
恐怖が判断を鈍らせるのを待つ。
それが、最適化された追跡だ。
◆
灯が、俺の背後で揺れる。
影が、草原の影と重なり、
逃走経路を複数描き出す。
だが、追跡者はそれを読む。
均一な思考ではなく、
“平均的な逃走パターン”を学習している。
つまり――
普通の逃げ方は通じない。
◆
俺は、歩き出した。
走らない。
リルナも、走らせない。
追跡者たちが、わずかに足を速める。
困惑の兆候。
逃げない逃走者は、想定外だ。
◆
俺は言った。
「リルナ、空を見ろ」
「え?」
「見ろ」
言われた通り、リルナは空を見る。
朝焼けが、雲を不均一に染めている。
赤、橙、紫、灰色。
秩序の街では存在しない色の混ざり。
「きれい……」
「それを覚えろ」
俺は言う。
「今から起きることが怖くなったら、
この色を思い出せ」
リルナは、強く頷いた。
◆
俺は追跡者たちに向き直る。
「お前たちは、戻すために来たんだな」
先頭の個体が答える。
「逃走者は、共同体の資源である」
資源。
人を、人として見ていない。
それでも、この個体は“説得”という行為を試みている。
学習の結果だ。
「戻れば、安全が保証される」
保証。
街が最も好む言葉。
だが俺は、はっきりと言う。
「安全は、選択の代わりにならない」
その瞬間、追跡者の動きが止まった。
定義に引っかかったのだ。
安全=善
という等式が、
この言葉で崩れた。
◆
灯が動く。
影が、追跡者たちの影を“少しだけ”歪める。
完全に絡め取らない。
転ばせない。
傷つけない。
ただ――
足並みを乱す。
均一な歩調が、一瞬ズレる。
それだけで、追跡の精度は大きく落ちる。
◆
俺は歩く。
追跡者も歩く。
だが、距離は縮まらない。
走らせないことで、
彼らの“疲労待ち戦術”を無効化している。
この状況に、
追跡者たちは対応できない。
彼らは“逃げる逃走者”しか想定していない。
◆
リルナが、俺の袖を引く。
「……ねえ」
「なんだ」
「あの人たち……
なんで、あんな顔してるの?」
顔。
追跡者の表情は、
街の人々よりも豊かだ。
だがそれは喜怒哀楽ではない。
迷いだ。
最適化と、人間性の間で揺れている。
俺は答える。
「選択肢が増えたからだ」
「選択肢?」
「捕まえるか、
見逃すか、
それとも……」
俺は言葉を切る。
「“自分で考えるか”」
リルナは目を見開いた。
◆
追跡者のひとりが、足を止めた。
他の個体は歩き続ける。
だが、そのひとりは動かない。
規定違反。
しかし、即座に修正されない。
世界が――
様子を見ている。
◆
その個体が、初めて感情のある声で言った。
「……戻る理由が、分からない」
その一言で、世界が軋んだ。
小さな音。
だが、確実な亀裂。
旅は、もう感染している。
リルナが息を呑む。
追跡者たちの動きが乱れる。
命令が、
規定が、
揺らぎ始めた。
◆
俺は、振り返らない。
止まらない。
ただ歩く。
背後で何が起きているか、
確かめる必要はない。
旅は、振り返った瞬間に檻になる。
◆
草原の先、
地形が少しずつ変わる。
丘が増え、
木が点在し、
世界が“均されていない形”を取り戻していく。
秩序の影響が、少しずつ薄れる。
リルナが、息を吐いた。
「……行けるね」
「ああ」
俺は答える。
「もう戻れない」
それは警告ではない。
祝福だ。
◆
背後で、追跡者の声が遠ざかる。
完全に追撃を諦めたわけではない。
だが――
この瞬間、彼らは“考えている”。
考えるという行為そのものが、
この世界にとって最大の異常。
旅は、確実に広がっている。
◆
リルナは空を見上げ、
朝焼けの色を胸に刻む。
その横で、灯の影が静かに揺れた。
この世界は、まだ壊れていない。
だが――
もう元には戻らない。
その悪魔が願う未来は、
均一な世界に“考える余白”を生み出しながら、
静かに、だが確実に歩き続けていた。




