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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第50話「追跡者と、旅が伝播する音」

 夜明け前の空は、不安定だった。


 青になりきれない黒。

 黒に戻ることもできない青。


 その境目の色は、街の均一な朝には存在しない。

 だからこそ、リルナは眠りながらも眉をひそめていた。


 夢の中でさえ、世界が揺れているのだろう。



 俺は岩陰から一歩だけ離れ、草を踏む。


 音は小さい。

 だが、この世界では小さい音ほど意味を持つ。


 灯が即座に反応した。


 影が伸び、地面に薄く広がる。

 警戒ではない。

 感知だ。


 来る。


 まだ見えないが、確実に。



 空気が、ほんのわずかに均され始めている。


 風が一定方向に揃い、

 虫の音が遠のき、

 夜明けの冷え込みが、なぜか“快適な温度”に寄せられる。


 この感覚を、俺は知っている。


 街の外だろうと、

 秩序は追ってくる。


 街という形を失っても、

 規定という概念は移動可能だ。



 灯が、俺の横で揺れた。


 影が指し示すのは、草原の向こう――

 低い丘の稜線。


 そこに、人影がある。


 ひとりではない。

 三、いや四……いや、数を数える意味はない。


 あれは個体ではない。

 機構の一部だ。



 俺はリルナの肩に手を置き、静かに揺らす。


「起きろ」


 リルナはすぐに目を開けた。


 街で暮らしていた頃の彼女なら、

 この時間に起きることはなかった。


 だが今は違う。


 旅が、彼女を“軽い眠り”に変えた。


「……来た?」


「ああ」


 それだけで十分だった。


 泣かない。

 逃げ腰にもならない。


 小さな手が、無意識に俺の外套を掴む。


 それは恐怖ではない。

 離れないという意思だ。



 丘の向こうから現れたのは、

 人の形をした存在だった。


 鎧を着ているが、街の兵士とは違う。

 武装は簡素で、装飾もない。


 目がある。

 だが、焦点が合っていない。


 街の“排除専用個体”とも違う。


 もっと曖昧で、

 もっと柔らかい。


 追跡専用の調整個体。


 殺すためではない。

 連れ戻すための存在。



 先頭に立つ個体が、声を発した。


「逃走者を確認」


 感情のない声。

 だが、前よりも“人に近い”。


 この世界は学習している。


 矯正だけでは足りないと。

 完全な無感情では、逃走者を捕まえられないと。


 だから――

 少しだけ人間性を残した。


 それが、逆に危険だ。



 リルナが小さく息を呑む。


「あれ……人?」


「人だったものだ」


 俺は答えた。


「今は、“戻す役目”だけを与えられてる」


 リルナは歯を食いしばる。


「……戻らない」


 その言葉は、震えていたが、折れてはいなかった。


 旅は、もう彼女の中で根を張っている。



 追跡者たちは、一定の距離を保って近づいてくる。


 走らない。

 叫ばない。

 焦らせない。


 逃げる者が疲れるのを待つ。

 恐怖が判断を鈍らせるのを待つ。


 それが、最適化された追跡だ。



 灯が、俺の背後で揺れる。


 影が、草原の影と重なり、

 逃走経路を複数描き出す。


 だが、追跡者はそれを読む。


 均一な思考ではなく、

 “平均的な逃走パターン”を学習している。


 つまり――

 普通の逃げ方は通じない。



 俺は、歩き出した。


 走らない。


 リルナも、走らせない。


 追跡者たちが、わずかに足を速める。


 困惑の兆候。


 逃げない逃走者は、想定外だ。



 俺は言った。


「リルナ、空を見ろ」


「え?」


「見ろ」


 言われた通り、リルナは空を見る。


 朝焼けが、雲を不均一に染めている。


 赤、橙、紫、灰色。


 秩序の街では存在しない色の混ざり。


「きれい……」


「それを覚えろ」


 俺は言う。


「今から起きることが怖くなったら、

 この色を思い出せ」


 リルナは、強く頷いた。



 俺は追跡者たちに向き直る。


「お前たちは、戻すために来たんだな」


 先頭の個体が答える。


「逃走者は、共同体の資源である」


 資源。

 人を、人として見ていない。


 それでも、この個体は“説得”という行為を試みている。


 学習の結果だ。


「戻れば、安全が保証される」


 保証。


 街が最も好む言葉。


 だが俺は、はっきりと言う。


「安全は、選択の代わりにならない」


 その瞬間、追跡者の動きが止まった。


 定義に引っかかったのだ。


 安全=善

 という等式が、

 この言葉で崩れた。



 灯が動く。


 影が、追跡者たちの影を“少しだけ”歪める。


 完全に絡め取らない。

 転ばせない。

 傷つけない。


 ただ――

 足並みを乱す。


 均一な歩調が、一瞬ズレる。


 それだけで、追跡の精度は大きく落ちる。



 俺は歩く。


 追跡者も歩く。


 だが、距離は縮まらない。


 走らせないことで、

 彼らの“疲労待ち戦術”を無効化している。


 この状況に、

 追跡者たちは対応できない。


 彼らは“逃げる逃走者”しか想定していない。



 リルナが、俺の袖を引く。


「……ねえ」


「なんだ」


「あの人たち……

 なんで、あんな顔してるの?」


 顔。


 追跡者の表情は、

 街の人々よりも豊かだ。


 だがそれは喜怒哀楽ではない。


 迷いだ。


 最適化と、人間性の間で揺れている。


 俺は答える。


「選択肢が増えたからだ」


「選択肢?」


「捕まえるか、

 見逃すか、

 それとも……」


 俺は言葉を切る。


「“自分で考えるか”」


 リルナは目を見開いた。



 追跡者のひとりが、足を止めた。


 他の個体は歩き続ける。


 だが、そのひとりは動かない。


 規定違反。


 しかし、即座に修正されない。


 世界が――

 様子を見ている。



 その個体が、初めて感情のある声で言った。


「……戻る理由が、分からない」


 その一言で、世界が軋んだ。


 小さな音。

 だが、確実な亀裂。


 旅は、もう感染している。


 リルナが息を呑む。


 追跡者たちの動きが乱れる。


 命令が、

 規定が、

 揺らぎ始めた。



 俺は、振り返らない。


 止まらない。


 ただ歩く。


 背後で何が起きているか、

 確かめる必要はない。


 旅は、振り返った瞬間に檻になる。



 草原の先、

 地形が少しずつ変わる。


 丘が増え、

 木が点在し、

 世界が“均されていない形”を取り戻していく。


 秩序の影響が、少しずつ薄れる。


 リルナが、息を吐いた。


「……行けるね」


「ああ」


 俺は答える。


「もう戻れない」


 それは警告ではない。

 祝福だ。



 背後で、追跡者の声が遠ざかる。


 完全に追撃を諦めたわけではない。


 だが――

 この瞬間、彼らは“考えている”。


 考えるという行為そのものが、

 この世界にとって最大の異常。


 旅は、確実に広がっている。



 リルナは空を見上げ、

 朝焼けの色を胸に刻む。


 その横で、灯の影が静かに揺れた。


 この世界は、まだ壊れていない。


 だが――

 もう元には戻らない。


 


 その悪魔が願う未来は、

 均一な世界に“考える余白”を生み出しながら、

 静かに、だが確実に歩き続けていた。


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