第49話「発熱する世界、最初の夜」
夜は、均一ではなかった。
それだけで、リルナは息を呑んだ。
街の夜は、明るさも暗さも管理されている。
人の活動が最適化される照度。
恐怖も、期待も生まれない闇。
だが今、ここにある夜は違う。
星はまばらで、雲が流れ、
風は強くなったり弱くなったりする。
虫の音は不規則で、
どこかで獣が吠え、
遠くで木が軋む。
夜が、夜として生きている。
◆
草地の奥、小さな岩陰に身を潜める。
焚き火は使わない。
街からは離れたが、完全に安全とは言えない。
リルナは膝を抱え、まだ震えていた。
恐怖ではない。
感情が、ようやく自由になった反動だ。
俺は外套を外し、彼女の肩に掛ける。
布の重さに、リルナは少し落ち着いた。
「……アルス」
小さな声。
「後悔、してない?」
「何をだ」
「街を出たこと。
あたしを連れてきたこと」
その問いは、恐る恐る差し出されたものだった。
自分が“重荷”になっていないかを確かめるための問い。
俺は即答する。
「してない」
短く、確実に。
「お前は壊されるところだった。
それを止めただけだ」
リルナは唇を噛みしめ、
しばらく黙ってから言った。
「……あたしね、
ずっと思ってたの。
この街は、やさしいけど、息ができないって」
言葉を選びながら、
ようやく外に出す。
「泣いちゃだめ。
怒っちゃだめ。
怖がっちゃだめ。
夢を見ちゃだめ」
ひとつひとつが、
小さな檻だった。
「みんな、悪い人じゃないの。
でも……あたしだけ、違う空気を吸ってるみたいで」
リルナは空を見上げた。
雲が流れ、星が瞬く。
「今は……苦しいけど、
ちゃんと息ができてる」
それで十分だ。
◆
灯は少し離れた場所に立っている。
警戒でも見張りでもない。
ただ、世界との“距離”を測っている。
街から漏れ出した秩序の余波。
追跡の可能性。
そして、この世界がどれだけ“揺れ”を許すか。
灯の影が、地面に薄く広がる。
異常は、まだ来ない。
◆
俺は言った。
「これから先、楽じゃない」
リルナは頷いた。
「うん」
「追われることもある。
怖い目にも遭う。
正解が分からないことばかりだ」
「……それでもいい」
即答だった。
街で矯正される前より、
ずっと強い声。
「分からないなら、
一緒に探せばいいでしょ?」
その言葉に、胸の奥で森の火が静かに揺れた。
探す。
迷う。
悩む。
この世界が病として排除した行為。
それを、リルナは当然のように肯定している。
◆
遠くで、街の方向から微かな音がした。
鐘ではない。
合図でもない。
再構築の音だ。
秩序が、自分の破れを修復している。
配置を変え、
規定を更新し、
“次は逃がさない”ための世界を作り始めている。
だが、それは同時に――
この世界が変化を始めた証でもある。
完璧な均一は、
一度破れれば二度と戻らない。
旅という病は、
もうこの世界に刻まれた。
◆
リルナが言った。
「ねえ、アルス。
これから、どこに行くの?」
問いは不安ではない。
期待だ。
俺は地平線を見る。
街とは反対方向。
灯が、ほんのわずかに影を伸ばした方角。
「この世界を、歩く」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
旅の目的を定義しない。
定義した瞬間、また檻になる。
今は――
歩くことそのものが意味だ。
◆
リルナは小さく笑った。
「変なの」
「よく言われる」
「でも……嫌いじゃない」
それは、この世界で最も危険な言葉だった。
誰かを“好き”と言うこと。
均一を壊す感情。
だが、ここにはもう秩序の壁はない。
◆
夜が更ける。
冷えた空気が肌を刺す。
リルナは外套に包まれ、
いつの間にか眠りに落ちていた。
顔は安らかだが、
夢はきっと穏やかではない。
それでも、夢を見ることを許された眠り。
俺は立ち上がり、周囲を見渡す。
追手はない。
今夜は、まだ。
だが、必ず来る。
秩序は、逃走者を許さない。
そして――
俺たちは、次第に“象徴”になる。
均一から逃げた者。
旅を選んだ者。
その存在自体が、
この世界への問いになる。
◆
灯が近づいてくる。
影が俺の足元で揺れ、
言葉にならない意思を伝える。
――この世界は、長くなる。
俺は小さく息を吐く。
「望むところだ」
森を出た意味が、
ここでようやく輪郭を持ち始めた。
新しい中世。
再定義された世界。
そこに生きる人間たちと、
均一に抗う少女。
そして、
その悪魔が願う未来は――
破壊ではなく、
感染として広がっていく。
静かに。
確実に。




