第48話「矯正室の白、逃走の影」
白い建物の中は、音が少なかった。
反響しない。
足音が吸い込まれる。
声も、空気に触れた瞬間に削られる。
感情が響かないよう設計された空間。
壁は白い。
床も白い。
天井も白い。
白は清潔の象徴ではない。
ここでは情報の遮断を意味する。
色は感情を呼び起こす。
質感は記憶を刺激する。
音は存在を主張する。
それらをすべて排した場所。
それが矯正室だ。
◆
扉が閉まる音すら、鈍い。
男――“先生”が言う。
「ここで少し休んでください。
思考を整える時間です」
休ませるための部屋ではない。
思考を減らすための部屋だ。
壁の内側で、微かな振動が始まる。
規則的で、心拍に似たリズム。
脳を落ち着かせるための振動。
感情の波を平らにするための揺れ。
人間の“弱さ”を丁寧に削り取るための装置。
リルナが、俺の手を強く握った。
白い部屋の中で、その温度だけが異物だった。
◆
「大丈夫だ」
俺は小さく言った。
声は壁に吸われるが、
この距離ならリルナに届く。
「すぐ出る」
リルナは頷いた。
恐怖はある。
だが、絶望はない。
この子はもう知っている。
外があることを。
そして、そこへ行けることを。
それだけで、矯正は半分失敗している。
◆
“先生”は壁際の装置に手を伸ばした。
「来訪者。
あなたの思考は過剰です。
一時的に鎮静します」
鎮静――
それは暴力ではない。
眠らせる。
鈍らせる。
判断を先送りにさせる。
人を殺さず、
人を壊さず、
人を“使いやすくする”ための手段。
俺は、装置の起動を待った。
待つ理由はひとつ。
灯が動く時間を稼ぐため。
◆
床の影が、わずかに揺れた。
白い床の上で、影だけが異質に黒い。
灯だ。
影は壁の継ぎ目へと伸び、
視覚的には存在しない“隙間”へ潜り込む。
この建物は完璧に見えるが、
完璧さは必ず境界を必要とする。
内と外。
許可と不許可。
正常と異常。
境界がある以上、影は入り込める。
◆
振動が強くなる。
胸の奥が重くなる。
思考が、少しずつ遅くなる感覚。
だが、森で鍛えた俺の意識は、
“遅くなる”こと自体を観測できる。
これは眠りではない。
これは麻痺だ。
なら――
麻痺する前に動けばいい。
◆
“先生”が言った。
「リルナ。
恐怖は存在しません。
あなたは安全です」
嘘だ。
恐怖は存在する。
ただ、この街では存在してはならないだけだ。
リルナは震えながら、
それでも声を絞り出した。
「……風は、ある」
その一言で、装置の振動が一段階強まった。
異常発言。
世界がそれを修正しようとする。
だが、その瞬間――
◆
壁の一部が、音もなく“暗くなった”。
白の中に、黒い裂け目。
灯が、壁の向こう側から現実を削った。
削ったわけじゃない。
重ね合わせをずらした。
ここに存在するはずのない“外側の影”を、
一瞬だけ、内側に引き込んだ。
それだけで十分だ。
◆
俺は、リルナを抱き寄せた。
そして――一歩、踏み込む。
影の裂け目へ。
“先生”の声が初めて乱れた。
「待――」
待て、という言葉は、
この世界で最も弱い命令だ。
秩序が崩れた瞬間、命令は力を失う。
◆
影の中は、冷たくなかった。
無でも闇でもない。
“どこでもない場所”。
森でも街でもない。
ただ、世界の裏側。
灯が先導する。
影が道になる。
俺は走る。
リルナを抱えたまま。
◆
背後で、白い世界が騒がしくなる。
音はない。
だが、“配置”が崩れる感覚がある。
人々が動き、
門が閉じ、
通路が再定義される。
逃がさないための最適化。
だが――
逃走という概念は、この世界の想定外だ。
この街は、反抗よりも矯正を想定している。
抵抗ではなく、従順な異常を前提としている。
だから――
本気で逃げる者に弱い。
◆
影の道が、急に細くなる。
灯が揺れる。
出口が近い。
だが、その瞬間――
前方の白が歪んだ。
人影が立ちはだかる。
“先生”ではない。
別の存在。
鎧を着た兵士。
だが、門番とは違う。
目が――空っぽだ。
完全に最適化された個体。
命令も、判断も、迷いもない。
排除専用。
◆
兵士が、無言で剣を抜いた。
この世界で、初めて見る“攻撃意志”。
秩序は、ここまで追い詰められて、
初めて暴力を選んだ。
灯が前に出る。
影が、兵士の足元に絡みつく。
だが――効かない。
最適化された個体は、
影による“揺らぎ”を受け取らない。
感情がないからだ。
◆
俺は理解した。
この世界は、
感情を持つ者には強いが、
感情を捨てた存在にはさらに強い。
なら――
感情以外で壊すしかない。
俺は兵士を見る。
言葉を選ばない。
「お前は、何のために生きている?」
兵士は答えない。
答えられない。
だが、その“無反応”こそが鍵だった。
俺は続ける。
「生きる理由がないなら、
お前はもう“生きていない”」
言葉ではない。
定義の上書き。
この世界は、定義で動いている。
目的。
役割。
最適化。
その枠組みの中で、
“生きていない存在”は処理対象になる。
◆
一瞬、兵士の動きが止まった。
剣が空中で震える。
世界が、判定に迷っている。
“生きていないが、稼働している存在”。
想定外だ。
灯が、その隙を逃さない。
影が、兵士の影を踏み潰した。
影が影を殺す。
存在の裏側から、定義を断つ。
◆
兵士は、音もなく崩れた。
血は出ない。
苦しみもない。
ただ、“機能停止”。
この世界で、最も静かな死。
◆
影の道が、開ける。
外の匂いが流れ込む。
均されていない空気。
風の強弱。
不規則な温度。
外だ。
俺は、リルナを抱えたまま飛び出した。
◆
そこは、街の外れだった。
見張り塔の影。
誰もいない草地。
街の壁は背後にあるが、
今は追ってこない。
秩序は、内部の再構築を優先している。
逃走者ひとりより、
均一の修復。
それが、この世界の選択だ。
◆
リルナが、俺の腕の中で震えている。
だが、顔は上を向いていた。
空を見ていた。
街の中の偽物の青ではない。
雲の濃淡がある、本当の空。
風が髪を揺らす。
少女は、息を吸って――
「……本物だ」
それだけ言って、泣いた。
声を上げて。
肩を震わせて。
矯正されなかった証として。
◆
灯が、静かに影を戻す。
逃走は成功した。
だが――
この街は覚えただろう。
旅という病が存在することを。
そして、それが感染することを。
均一な世界に、最初の発熱が起きた。
その中心にいるのは、
リルナと――俺だ。




