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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第48話「矯正室の白、逃走の影」

 白い建物の中は、音が少なかった。


 反響しない。

 足音が吸い込まれる。

 声も、空気に触れた瞬間に削られる。


 感情が響かないよう設計された空間。


 壁は白い。

 床も白い。

 天井も白い。


 白は清潔の象徴ではない。

 ここでは情報の遮断を意味する。


 色は感情を呼び起こす。

 質感は記憶を刺激する。

 音は存在を主張する。


 それらをすべて排した場所。

 それが矯正室だ。



 扉が閉まる音すら、鈍い。


 男――“先生”が言う。


「ここで少し休んでください。

 思考を整える時間です」


 休ませるための部屋ではない。

 思考を減らすための部屋だ。


 壁の内側で、微かな振動が始まる。

 規則的で、心拍に似たリズム。


 脳を落ち着かせるための振動。

 感情の波を平らにするための揺れ。


 人間の“弱さ”を丁寧に削り取るための装置。


 リルナが、俺の手を強く握った。


 白い部屋の中で、その温度だけが異物だった。



「大丈夫だ」


 俺は小さく言った。


 声は壁に吸われるが、

 この距離ならリルナに届く。


「すぐ出る」


 リルナは頷いた。

 恐怖はある。

 だが、絶望はない。


 この子はもう知っている。

 外があることを。

 そして、そこへ行けることを。


 それだけで、矯正は半分失敗している。



 “先生”は壁際の装置に手を伸ばした。


「来訪者。

 あなたの思考は過剰です。

 一時的に鎮静します」


 鎮静――

 それは暴力ではない。


 眠らせる。

 鈍らせる。

 判断を先送りにさせる。


 人を殺さず、

 人を壊さず、

 人を“使いやすくする”ための手段。


 俺は、装置の起動を待った。


 待つ理由はひとつ。


 灯が動く時間を稼ぐため。



 床の影が、わずかに揺れた。


 白い床の上で、影だけが異質に黒い。


 灯だ。


 影は壁の継ぎ目へと伸び、

 視覚的には存在しない“隙間”へ潜り込む。


 この建物は完璧に見えるが、

 完璧さは必ず境界を必要とする。


 内と外。

 許可と不許可。

 正常と異常。


 境界がある以上、影は入り込める。



 振動が強くなる。


 胸の奥が重くなる。

 思考が、少しずつ遅くなる感覚。


 だが、森で鍛えた俺の意識は、

 “遅くなる”こと自体を観測できる。


 これは眠りではない。

 これは麻痺だ。


 なら――

 麻痺する前に動けばいい。



 “先生”が言った。


「リルナ。

 恐怖は存在しません。

 あなたは安全です」


 嘘だ。


 恐怖は存在する。

 ただ、この街では存在してはならないだけだ。


 リルナは震えながら、

 それでも声を絞り出した。


「……風は、ある」


 その一言で、装置の振動が一段階強まった。


 異常発言。


 世界がそれを修正しようとする。


 だが、その瞬間――



 壁の一部が、音もなく“暗くなった”。


 白の中に、黒い裂け目。


 灯が、壁の向こう側から現実を削った。


 削ったわけじゃない。

 重ね合わせをずらした。


 ここに存在するはずのない“外側の影”を、

 一瞬だけ、内側に引き込んだ。


 それだけで十分だ。



 俺は、リルナを抱き寄せた。


 そして――一歩、踏み込む。


 影の裂け目へ。


 “先生”の声が初めて乱れた。


「待――」


 待て、という言葉は、

 この世界で最も弱い命令だ。


 秩序が崩れた瞬間、命令は力を失う。



 影の中は、冷たくなかった。


 無でも闇でもない。


 “どこでもない場所”。


 森でも街でもない。

 ただ、世界の裏側。


 灯が先導する。


 影が道になる。


 俺は走る。


 リルナを抱えたまま。



 背後で、白い世界が騒がしくなる。


 音はない。

 だが、“配置”が崩れる感覚がある。


 人々が動き、

 門が閉じ、

 通路が再定義される。


 逃がさないための最適化。


 だが――

 逃走という概念は、この世界の想定外だ。


 この街は、反抗よりも矯正を想定している。

 抵抗ではなく、従順な異常を前提としている。


 だから――

 本気で逃げる者に弱い。



 影の道が、急に細くなる。


 灯が揺れる。


 出口が近い。


 だが、その瞬間――


 前方の白が歪んだ。


 人影が立ちはだかる。


 “先生”ではない。

 別の存在。


 鎧を着た兵士。

 だが、門番とは違う。


 目が――空っぽだ。


 完全に最適化された個体。

 命令も、判断も、迷いもない。


 排除専用。



 兵士が、無言で剣を抜いた。


 この世界で、初めて見る“攻撃意志”。


 秩序は、ここまで追い詰められて、

 初めて暴力を選んだ。


 灯が前に出る。


 影が、兵士の足元に絡みつく。


 だが――効かない。


 最適化された個体は、

 影による“揺らぎ”を受け取らない。


 感情がないからだ。



 俺は理解した。


 この世界は、

 感情を持つ者には強いが、

 感情を捨てた存在にはさらに強い。


 なら――

 感情以外で壊すしかない。


 俺は兵士を見る。


 言葉を選ばない。


「お前は、何のために生きている?」


 兵士は答えない。


 答えられない。


 だが、その“無反応”こそが鍵だった。


 俺は続ける。


「生きる理由がないなら、

 お前はもう“生きていない”」


 言葉ではない。

 定義の上書き。


 この世界は、定義で動いている。


 目的。

 役割。

 最適化。


 その枠組みの中で、

 “生きていない存在”は処理対象になる。



 一瞬、兵士の動きが止まった。


 剣が空中で震える。


 世界が、判定に迷っている。


 “生きていないが、稼働している存在”。


 想定外だ。


 灯が、その隙を逃さない。


 影が、兵士の影を踏み潰した。


 影が影を殺す。


 存在の裏側から、定義を断つ。



 兵士は、音もなく崩れた。


 血は出ない。

 苦しみもない。


 ただ、“機能停止”。


 この世界で、最も静かな死。



 影の道が、開ける。


 外の匂いが流れ込む。


 均されていない空気。

 風の強弱。

 不規則な温度。


 外だ。


 俺は、リルナを抱えたまま飛び出した。



 そこは、街の外れだった。


 見張り塔の影。

 誰もいない草地。


 街の壁は背後にあるが、

 今は追ってこない。


 秩序は、内部の再構築を優先している。


 逃走者ひとりより、

 均一の修復。


 それが、この世界の選択だ。



 リルナが、俺の腕の中で震えている。


 だが、顔は上を向いていた。


 空を見ていた。


 街の中の偽物の青ではない。

 雲の濃淡がある、本当の空。


 風が髪を揺らす。


 少女は、息を吸って――


「……本物だ」


 それだけ言って、泣いた。


 声を上げて。

 肩を震わせて。


 矯正されなかった証として。



 灯が、静かに影を戻す。


 逃走は成功した。


 だが――

 この街は覚えただろう。


 旅という病が存在することを。

 そして、それが感染することを。


 均一な世界に、最初の発熱が起きた。


 その中心にいるのは、

 リルナと――俺だ。

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