第47話「旅という病」
井戸の底から吹き上がる風は、冷たくなかった。
森の空気ほど甘くもない。
外の廃墟のように乾いてもいない。
ただ――正直な匂いがした。
生き物の汗。
濡れた土。
遠くの火。
誰かの呼吸。
混ざり合って、まとまりがなくて、だからこそ本物だと分かる匂い。
この街の“均された空気”とは違う。
リルナは井戸の縁に手をついて、身を乗り出した。
「ね? ね? あるでしょ? 本当の風」
声が弾む。
小さな体が熱を持っているのが分かる。
――この子は、ずっとこれを隠してきた。
「気づいてしまった自分」を、
「黙って生きることで正しくいようとした自分」を、
それでも抑えきれなかった衝動を、
ずっと抱えたまま、この街で生きてきた。
そして今、俺にそれを見せている。
それだけで、この街にとっては致命的だ。
◆
「リルナ」
俺が名前を呼ぶと、少女は振り向いた。
「この風を、誰に話した?」
リルナは首を横に振る。
「最初は話したよ。
でもね、みんな笑うの。“風なんてない”って。
それでね、先生に言ったら、先生がすごく困った顔して――」
少し息を飲み、声を落とす。
「“それは考えなくていい”って言われた。
“考えると疲れるから”って」
考えると疲れる。
それは優しさの言葉ではない。
この街のルールが、子どもの口を借りて広がっているだけだ。
思考を止めることが正しい世界。
俺は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
◆
灯が僅かに揺れた。
怒りではない。
嫌悪でもない。
ただ“危険”を知らせる揺れ。
俺も同じものを感じていた。
ここにいるのは俺とリルナと灯だけではない。
街全体が、ここを見ている。
人々が直接監視しているのではない。
だが、街は“偏り”を必ず検知する。
感情の振れ幅。
行動の突発性。
人の流れの乱れ。
リルナが俺を引っ張ってここへ来た時点で、
街はすでに異常を記録している。
異端が、異端と接触した。
その事実だけで、この街の秩序は“矯正”を始める。
◆
リルナは、俺の顔を見上げて言った。
「アルス、すぐに行ける?
ねえ、外に……外に行けるの?」
期待と恐怖が同時に入っている声。
この街は外界を否定している。
外があることさえ、あいまいにしている。
だからこの子は、外へ行くという言葉ひとつで命が揺れる。
俺は答える。
「行ける」
たった二文字。
リルナの目が潤む。
泣きたくて泣くんじゃない。
泣けなかった時間が長すぎて、涙腺が反応を思い出してしまっただけだ。
灯の影が、地面で僅かに濃くなる。
行動開始の合図。
◆
俺は言った。
「だが、今すぐじゃない。
まずこの街がどう動くかを見る」
「……見る?」
「この街は、お前が外を見たいと言った瞬間に“お前を治そう”とする。
それを確認してから動く」
リルナは眉をひそめる。
「治すって……病気じゃないのに?」
その反応は正常だ。
正常であることがこの街では異常になる。
俺は静かに答える。
「この街にとって、“旅に出たい”は病気なんだ」
リルナは背筋を寒くしたように肩をすくめた。
「……じゃあ、あたしは病気?」
「違う」
俺は即答する。
「この街が病気なんだ」
言った瞬間、言葉の重さが路地裏の空気を切った。
この街は病気。
秩序過多という病。
安心を求めすぎて窒息する病。
そして旅は――
その病に対する発熱だ。
体が正常を取り戻そうとする時に熱が出るように、
世界が自分を取り戻そうとする時に“旅”が生まれる。
それを、この街は抑え込む。
だから旅は“病”として扱われる。
◆
帰り道、リルナは黙っていた。
さっきまでの弾けた声はなく、
足音も小さい。
しかし、目は死んでいない。
むしろ――生々しい。
現実を知ったことで、
夢が逃げるのではなく、より強く根を張った。
人間はそういう生き物だ。
◆
大通りに戻ると、街の流れは相変わらず均一だった。
だが、その均一さが今は“偽装”に見える。
誰もが同じ方向へ歩き、
同じ速度で歩き、
同じ顔で笑い、
同じ声量で話す。
それは自然ではなく、訓練だ。
訓練が世界の基礎になっている。
その異様さが、リルナの小さな体をさらに浮かび上がらせる。
彼女だけが、歩幅が合わない。
彼女だけが、視線が落ち着かない。
彼女だけが、空を見上げる。
街の秩序は、その“ずれ”を許さない。
だから――来る。
◆
広場の中央。
噴水のそばに、白い服の男が立っていた。
司祭のような服。
しかし十字架も、神の紋章もない。
胸元にあるのは、円形の金属板。
そこには細かい文字が刻まれている。
――“規定”。
神ではなく、規定を信仰する者。
男は微笑んだ。
誰に向けたでもない均一な微笑。
「リルナ。
よい行動が確認できませんでした」
声は柔らかい。
内容は冷たい。
リルナが一歩引いた。
「……先生」
先生。
教師か、監督者か、矯正者か。
男は俺を見る。
「来訪者。
あなたの存在は街に記録されました。
あなたは“旅そのものを目的とする”と申告しましたね」
「そうだ」
「旅は手段です」
男は当然のように言う。
それは議論ではなく、法文だ。
「旅を目的とする者は、目的を持たない者です。
目的を持たない者は、共同体に負荷を与えます。
負荷は不安を生みます。
不安は衝突を生みます。
衝突は滅びを生みます」
そこまで言って、男は一拍置く。
「滅びは、この世界の最重要忌避事項です」
俺は、静かに息を吐いた。
なるほど。
この世界は、滅びを“悪”として再定義している。
だからあらゆる揺らぎを排除する。
だから人々は均一に生きる。
滅びないための幸福。
滅びないための秩序。
滅びないための矯正。
その結果が、ここだ。
◆
男はリルナに向けて言った。
「あなたは今日、予定外の移動をしました。
予定外の会話をしました。
予定外の興奮をしました」
リルナが唇を噛む。
「……風があったの。
井戸の中から、本当の風が――」
「風は存在しません」
男は即答する。
「風が存在するなら、外界が存在します。
外界が存在するなら、危険が存在します。
危険は不安を生みます」
“風が存在するなら外界が存在する”。
この論理の飛躍が、この世界の正体だった。
事実を認めるかどうかではない。
認めた瞬間に、連鎖的に“危険”が立ち上がる。
だから否定する。
否定することで世界を守る。
守っているのは人間の命ではない。
世界の設計理念だ。
◆
男はリルナの肩に手を置いた。
「矯正室へ行きましょう。
あなたは少し疲れています。
思考が過剰です。
感情が過剰です」
リルナが震える。
そして――俺の服の裾を掴んだ。
小さな手が必死にしがみつく。
助けてと言っていない。
声に出す余裕もない。
ただ、手が叫んでいる。
俺は男に言った。
「その手を離せ」
男の微笑は崩れない。
「あなたは介入する権限を持ちません。
この子は共同体の構成員です。
共同体の維持は共同体の責務です」
「責務?」
俺は笑った。
「お前のそれは責務じゃない。
ただの恐怖の転嫁だ」
男は首を傾げた。
「恐怖は存在しません。
恐怖は不安を生みます」
徹底している。
感情語を削除している。
この男の中では、恐怖という概念すら“禁止”されている。
だから代わりに、秩序という言葉だけが残っている。
◆
灯が、俺の背後でわずかに揺れた。
“ここで壊すか?”という問い。
俺は――壊さない。
まだだ。
この世界がどう矯正を行うのか、
矯正とは何なのか、
それを見ないまま壊せば、先が読めない。
森編では“見る”ことで勝った。
ここでも同じだ。
だが――リルナは渡せない。
矯正室に入れば、この子の“旅”は潰される。
旅は病として治療される。
つまり、この子の魂は殺される。
それは俺の嫌う“命の取引”だ。
秩序のために魂を差し出す取引。
だから、俺は別の選択をする。
◆
俺は、リルナの手をそっと握り返した。
握り返すという行為そのものが、この街の異常を暴く。
個人と個人の繋がり。
均一から外れる関係。
男の目が僅かに細くなる。
感情はない。
だが“異常の増大”を認識したのだ。
「来訪者。
あなたは共同体の秩序を乱しています」
「乱してるのはお前らだ」
俺は淡々と言った。
「この子はただ風を感じただけだ。
それを病と呼ぶなら、病気はお前らの方だ」
男は静かに言った。
「矯正が必要です」
その言葉の直後――
周囲の人々が、まるで波のように“位置を調整”し始めた。
人間の意思ではない。
街の機構が、人の体を使って配置を変えている。
広場が、俺たちを囲む形へ整えられていく。
逃げ道が消える。
暴力ではない。
ただ“最適化”という名の拘束。
それが、この世界の戦い方だ。
◆
リルナの指が冷たい。
泣きそうで泣けない。
叫びそうで叫べない。
それでも、俺の裾を離さない。
この手が、旅の病の第一症状だ。
この手が、世界の均一を破壊する最初の刃だ。
俺は灯に視線を送る。
灯は理解した。
影が、地面の端へ滑る。
誰にも気づかれない速度で、噴水の影へ潜り、
広場の“配置”のひとつの結節点へ触れる。
秩序の網を一箇所だけ緩める準備。
壊すのではなく、抜け道を作る。
◆
俺は男に言った。
「矯正室がどこにあるか案内しろ」
リルナが俺を見上げる。
裏切られたと錯覚しそうな目。
俺は目を逸らさない。
「――行くふりをする」
声に出さず、口の動きだけで伝える。
リルナの目が僅かに揺れる。
理解したのか、信じたのかは分からない。
だが、手は離れなかった。
男は頷く。
「適切です。
来訪者の協力が確認されました」
ああ、こいつらは本当に“協力”という概念すら管理している。
協力は信頼ではない。
ただ、手順に従ったという記録。
それが世界の中での“善”だ。
◆
俺たちは歩き出す。
広場の人々は自然に道を開ける。
しかしその道は、自由な道ではない。
矯正室へ続く道。
道そのものが拘束具。
リルナは震えながら歩く。
だが、足取りは止まらない。
旅に憧れた者は、矯正の恐怖の中でも歩ける。
それが病の強さだ。
◆
角を曲がる瞬間、灯の影が動く。
噴水の影から伸びた黒い線が、石畳の一部に触れた。
石畳の一枚が――ほんの僅かに沈む。
誰も気づかない。
だが、街の配置の“結節点”がわずかにズレた。
そのズレが、逃走路を生む。
矯正の牢獄が、完全ではないことを証明する。
俺は息を吐く。
この世界は完璧ではない。
完璧を目指しているだけだ。
そして完璧を目指す世界は――
必ず、どこかで脆い。
◆
リルナが小さく呟いた。
「……アルス」
「黙って歩け」
俺は短く答える。
「今は“従順な記録”を残す方がいい」
リルナは頷いた。
泣かない。
叫ばない。
歯を食いしばって歩く。
この子は、矯正に屈するのではなく、
矯正を通り抜けようとしている。
その時点で、この子はもう“街の人間”じゃない。
◆
遠くに、白い建物が見える。
窓のない、扉の少ない、滑らかな外壁。
教会にも役所にも見える。
そこが矯正室だろう。
そこへ向かう道の途中で、男が言った。
「来訪者。
あなたも矯正を受ける可能性があります」
俺は淡々と返す。
「受ける必要はない。俺は病気じゃない」
男の微笑が少しだけ深くなる。
「病気ではありません。
あなたは“最適化対象”です」
その言葉で、この世界の本質がさらに明確になった。
矯正とは治療ではない。
最適化だ。
人間を、人間としてではなく、
世界の機能部品として最適化する。
その仕組みが、この街を動かしている。
だから旅は病になる。
部品が勝手に動くから。
◆
建物の影が近づく。
白い壁が俺たちを飲み込もうとする。
灯の影が、足元で静かに震える。
抜け道は準備できた。
逃げるタイミングだけが必要だ。
そして――
俺の胸の奥で、森の火が微かに燃えた。
秩序に魂を差し出す取引を、俺は許さない。
この子を壊させない。
この旅の病を、治させない。




