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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第47話「旅という病」

 井戸の底から吹き上がる風は、冷たくなかった。


 森の空気ほど甘くもない。

 外の廃墟のように乾いてもいない。


 ただ――正直な匂いがした。


 生き物の汗。

 濡れた土。

 遠くの火。

 誰かの呼吸。


 混ざり合って、まとまりがなくて、だからこそ本物だと分かる匂い。


 この街の“均された空気”とは違う。


 リルナは井戸の縁に手をついて、身を乗り出した。


「ね? ね? あるでしょ? 本当の風」


 声が弾む。

 小さな体が熱を持っているのが分かる。


 ――この子は、ずっとこれを隠してきた。


 「気づいてしまった自分」を、

 「黙って生きることで正しくいようとした自分」を、

 それでも抑えきれなかった衝動を、

 ずっと抱えたまま、この街で生きてきた。


 そして今、俺にそれを見せている。


 それだけで、この街にとっては致命的だ。



「リルナ」


 俺が名前を呼ぶと、少女は振り向いた。


「この風を、誰に話した?」


 リルナは首を横に振る。


「最初は話したよ。

 でもね、みんな笑うの。“風なんてない”って。

 それでね、先生に言ったら、先生がすごく困った顔して――」


 少し息を飲み、声を落とす。


「“それは考えなくていい”って言われた。

 “考えると疲れるから”って」


 考えると疲れる。

 それは優しさの言葉ではない。


 この街のルールが、子どもの口を借りて広がっているだけだ。


 思考を止めることが正しい世界。


 俺は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。



 灯が僅かに揺れた。


 怒りではない。

 嫌悪でもない。


 ただ“危険”を知らせる揺れ。


 俺も同じものを感じていた。


 ここにいるのは俺とリルナと灯だけではない。


 街全体が、ここを見ている。


 人々が直接監視しているのではない。

 だが、街は“偏り”を必ず検知する。


 感情の振れ幅。

 行動の突発性。

 人の流れの乱れ。


 リルナが俺を引っ張ってここへ来た時点で、

 街はすでに異常を記録している。


 異端が、異端と接触した。


 その事実だけで、この街の秩序は“矯正”を始める。



 リルナは、俺の顔を見上げて言った。


「アルス、すぐに行ける?

 ねえ、外に……外に行けるの?」


 期待と恐怖が同時に入っている声。


 この街は外界を否定している。

 外があることさえ、あいまいにしている。


 だからこの子は、外へ行くという言葉ひとつで命が揺れる。


 俺は答える。


「行ける」


 たった二文字。


 リルナの目が潤む。


 泣きたくて泣くんじゃない。

 泣けなかった時間が長すぎて、涙腺が反応を思い出してしまっただけだ。


 灯の影が、地面で僅かに濃くなる。


 行動開始の合図。



 俺は言った。


「だが、今すぐじゃない。

 まずこの街がどう動くかを見る」


「……見る?」


「この街は、お前が外を見たいと言った瞬間に“お前を治そう”とする。

 それを確認してから動く」


 リルナは眉をひそめる。


「治すって……病気じゃないのに?」


 その反応は正常だ。

 正常であることがこの街では異常になる。


 俺は静かに答える。


「この街にとって、“旅に出たい”は病気なんだ」


 リルナは背筋を寒くしたように肩をすくめた。


「……じゃあ、あたしは病気?」


「違う」

 俺は即答する。

「この街が病気なんだ」


 言った瞬間、言葉の重さが路地裏の空気を切った。


 この街は病気。

 秩序過多という病。

 安心を求めすぎて窒息する病。


 そして旅は――

 その病に対する発熱だ。


 体が正常を取り戻そうとする時に熱が出るように、

 世界が自分を取り戻そうとする時に“旅”が生まれる。


 それを、この街は抑え込む。


 だから旅は“病”として扱われる。



 帰り道、リルナは黙っていた。


 さっきまでの弾けた声はなく、

 足音も小さい。


 しかし、目は死んでいない。


 むしろ――生々しい。


 現実を知ったことで、

 夢が逃げるのではなく、より強く根を張った。


 人間はそういう生き物だ。



 大通りに戻ると、街の流れは相変わらず均一だった。


 だが、その均一さが今は“偽装”に見える。


 誰もが同じ方向へ歩き、

 同じ速度で歩き、

 同じ顔で笑い、

 同じ声量で話す。


 それは自然ではなく、訓練だ。


 訓練が世界の基礎になっている。


 その異様さが、リルナの小さな体をさらに浮かび上がらせる。


 彼女だけが、歩幅が合わない。

 彼女だけが、視線が落ち着かない。

 彼女だけが、空を見上げる。


 街の秩序は、その“ずれ”を許さない。


 だから――来る。



 広場の中央。

 噴水のそばに、白い服の男が立っていた。


 司祭のような服。

 しかし十字架も、神の紋章もない。


 胸元にあるのは、円形の金属板。

 そこには細かい文字が刻まれている。


 ――“規定”。


 神ではなく、規定を信仰する者。


 男は微笑んだ。


 誰に向けたでもない均一な微笑。


「リルナ。

 よい行動が確認できませんでした」


 声は柔らかい。

 内容は冷たい。


 リルナが一歩引いた。


「……先生」


 先生。

 教師か、監督者か、矯正者か。


 男は俺を見る。


「来訪者。

 あなたの存在は街に記録されました。

 あなたは“旅そのものを目的とする”と申告しましたね」


「そうだ」


「旅は手段です」


 男は当然のように言う。

 それは議論ではなく、法文だ。


「旅を目的とする者は、目的を持たない者です。

 目的を持たない者は、共同体に負荷を与えます。

 負荷は不安を生みます。

 不安は衝突を生みます。

 衝突は滅びを生みます」


 そこまで言って、男は一拍置く。


「滅びは、この世界の最重要忌避事項です」


 俺は、静かに息を吐いた。


 なるほど。

 この世界は、滅びを“悪”として再定義している。


 だからあらゆる揺らぎを排除する。

 だから人々は均一に生きる。


 滅びないための幸福。

 滅びないための秩序。

 滅びないための矯正。


 その結果が、ここだ。



 男はリルナに向けて言った。


「あなたは今日、予定外の移動をしました。

 予定外の会話をしました。

 予定外の興奮をしました」


 リルナが唇を噛む。


「……風があったの。

 井戸の中から、本当の風が――」


「風は存在しません」

 男は即答する。

「風が存在するなら、外界が存在します。

 外界が存在するなら、危険が存在します。

 危険は不安を生みます」


 “風が存在するなら外界が存在する”。

 この論理の飛躍が、この世界の正体だった。


 事実を認めるかどうかではない。

 認めた瞬間に、連鎖的に“危険”が立ち上がる。


 だから否定する。

 否定することで世界を守る。


 守っているのは人間の命ではない。

 世界の設計理念だ。



 男はリルナの肩に手を置いた。


「矯正室へ行きましょう。

 あなたは少し疲れています。

 思考が過剰です。

 感情が過剰です」


 リルナが震える。


 そして――俺の服の裾を掴んだ。


 小さな手が必死にしがみつく。


 助けてと言っていない。

 声に出す余裕もない。


 ただ、手が叫んでいる。


 俺は男に言った。


「その手を離せ」


 男の微笑は崩れない。


「あなたは介入する権限を持ちません。

 この子は共同体の構成員です。

 共同体の維持は共同体の責務です」


「責務?」

 俺は笑った。

「お前のそれは責務じゃない。

 ただの恐怖の転嫁だ」


 男は首を傾げた。


「恐怖は存在しません。

 恐怖は不安を生みます」


 徹底している。

 感情語を削除している。


 この男の中では、恐怖という概念すら“禁止”されている。


 だから代わりに、秩序という言葉だけが残っている。



 灯が、俺の背後でわずかに揺れた。


 “ここで壊すか?”という問い。


 俺は――壊さない。


 まだだ。


 この世界がどう矯正を行うのか、

 矯正とは何なのか、

 それを見ないまま壊せば、先が読めない。


 森編では“見る”ことで勝った。

 ここでも同じだ。


 だが――リルナは渡せない。


 矯正室に入れば、この子の“旅”は潰される。


 旅は病として治療される。

 つまり、この子の魂は殺される。


 それは俺の嫌う“命の取引”だ。

 秩序のために魂を差し出す取引。


 だから、俺は別の選択をする。



 俺は、リルナの手をそっと握り返した。


 握り返すという行為そのものが、この街の異常を暴く。


 個人と個人の繋がり。

 均一から外れる関係。


 男の目が僅かに細くなる。

 感情はない。

 だが“異常の増大”を認識したのだ。


「来訪者。

 あなたは共同体の秩序を乱しています」


「乱してるのはお前らだ」

 俺は淡々と言った。

「この子はただ風を感じただけだ。

 それを病と呼ぶなら、病気はお前らの方だ」


 男は静かに言った。


「矯正が必要です」


 その言葉の直後――

 周囲の人々が、まるで波のように“位置を調整”し始めた。


 人間の意思ではない。

 街の機構が、人の体を使って配置を変えている。


 広場が、俺たちを囲む形へ整えられていく。


 逃げ道が消える。


 暴力ではない。

 ただ“最適化”という名の拘束。


 それが、この世界の戦い方だ。



 リルナの指が冷たい。


 泣きそうで泣けない。

 叫びそうで叫べない。


 それでも、俺の裾を離さない。


 この手が、旅の病の第一症状だ。


 この手が、世界の均一を破壊する最初の刃だ。


 俺は灯に視線を送る。


 灯は理解した。


 影が、地面の端へ滑る。

 誰にも気づかれない速度で、噴水の影へ潜り、

 広場の“配置”のひとつの結節点へ触れる。


 秩序の網を一箇所だけ緩める準備。


 壊すのではなく、抜け道を作る。



 俺は男に言った。


「矯正室がどこにあるか案内しろ」


 リルナが俺を見上げる。

 裏切られたと錯覚しそうな目。


 俺は目を逸らさない。


「――行くふりをする」


 声に出さず、口の動きだけで伝える。

 リルナの目が僅かに揺れる。


 理解したのか、信じたのかは分からない。


 だが、手は離れなかった。


 男は頷く。


「適切です。

 来訪者の協力が確認されました」


 ああ、こいつらは本当に“協力”という概念すら管理している。


 協力は信頼ではない。

 ただ、手順に従ったという記録。


 それが世界の中での“善”だ。



 俺たちは歩き出す。


 広場の人々は自然に道を開ける。

 しかしその道は、自由な道ではない。


 矯正室へ続く道。

 道そのものが拘束具。


 リルナは震えながら歩く。

 だが、足取りは止まらない。


 旅に憧れた者は、矯正の恐怖の中でも歩ける。


 それが病の強さだ。



 角を曲がる瞬間、灯の影が動く。


 噴水の影から伸びた黒い線が、石畳の一部に触れた。


 石畳の一枚が――ほんの僅かに沈む。


 誰も気づかない。

 だが、街の配置の“結節点”がわずかにズレた。


 そのズレが、逃走路を生む。


 矯正の牢獄が、完全ではないことを証明する。


 俺は息を吐く。


 この世界は完璧ではない。

 完璧を目指しているだけだ。


 そして完璧を目指す世界は――

 必ず、どこかで脆い。



 リルナが小さく呟いた。


「……アルス」


「黙って歩け」


 俺は短く答える。


「今は“従順な記録”を残す方がいい」


 リルナは頷いた。


 泣かない。

 叫ばない。

 歯を食いしばって歩く。


 この子は、矯正に屈するのではなく、

 矯正を通り抜けようとしている。


 その時点で、この子はもう“街の人間”じゃない。



 遠くに、白い建物が見える。


 窓のない、扉の少ない、滑らかな外壁。

 教会にも役所にも見える。


 そこが矯正室だろう。


 そこへ向かう道の途中で、男が言った。


「来訪者。

 あなたも矯正を受ける可能性があります」


 俺は淡々と返す。


「受ける必要はない。俺は病気じゃない」


 男の微笑が少しだけ深くなる。


「病気ではありません。

 あなたは“最適化対象”です」


 その言葉で、この世界の本質がさらに明確になった。


 矯正とは治療ではない。

 最適化だ。


 人間を、人間としてではなく、

 世界の機能部品として最適化する。


 その仕組みが、この街を動かしている。


 だから旅は病になる。

 部品が勝手に動くから。



 建物の影が近づく。


 白い壁が俺たちを飲み込もうとする。


 灯の影が、足元で静かに震える。


 抜け道は準備できた。

 逃げるタイミングだけが必要だ。


 そして――


 俺の胸の奥で、森の火が微かに燃えた。


 秩序に魂を差し出す取引を、俺は許さない。


 この子を壊させない。

 この旅の病を、治させない。

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