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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第46話「型にはまった日常、はみ出した少女」

 街に入った瞬間、足の裏で“規則”を踏みしめた感触があった。


 表面は土と石畳の混合だが――それは自然な摩耗ではなく、

 同じ周期で、同じ削れ方をするよう調整された舗装だ。


 歩けば歩くほど分かる。


 道幅は一定。

 店の並びは一定。

 窓の高さ、ドアの大きさ、建物の形――全部一定。


 焼きたてのパンの匂い、

 香辛料の匂い、

 肉と油の匂い――


 すべて“適度な食欲”を誘う強さに調整されている。


 満たされすぎず、飢えもしない。

 感情が揺れない範囲に調整された刺激。


 この街は、秩序を維持するために揺らぎを排除しすぎている。



 人々の表情は穏やかだ。


 怒りはなく、

 悲しみもなく、

 嫉妬もなく、

 焦りもない。


 満ち足りているが――満ち足りすぎている。


 感情はある。

 だが薄く均等に伸ばされている。


 笑顔は浮かぶが、

 その笑みは誰に向けたものでもない。


「……幸せってのは、本来こういうものじゃない」


 俺は小さく呟いた。


 幸せは偏っているから尊い。

 誰かのための幸福は、ほかの誰かを苦しめることもある。

 その矛盾ごと抱えて、ようやく意味を持つ。


 この街は矛盾を排した結果――生ではなく、成功だけを残した死んだ幸福になっている。



 ひとりの少年が走ってくる。


 転ぶ。

 膝を擦りむく。


 泣かない。

 痛がらない。

 叫ばない。


 すぐに立ち上がり、淡々と歩き続けた。


 周囲の大人は心配しない。

 声をかけない。

 表情を変えない。


 次の瞬間だけ、誰かが呟いた。


「問題が発生しなかった。よかった。」


 問題が発生しなかった――それが“安心の指標”。


 少年が傷ついたことは問題ではない。

 少年が泣くことが問題なのだ。


 理解した瞬間、寒気が背の奥に走った。



 灯は周囲を観察し続けている。

 無感情な面持ちの人々の視線も、表情も、足取りも、

 言語的でない意味まで精密に拾っている。


 この世界は灯を揺さぶらない。

 灯の存在を拒絶もしない。

 ただ、“異物”として静かに観測している。


 異端が現れても排除せず――

 “適応させる”方向へ処理しようとする世界。


 秩序が攻撃ではなく、「矯正」を選ぶ世界。


 それが一番厄介だと俺は理解していた。



 教会の鐘が鳴った。


 それが合図だったかのように、街の人々は時計仕掛けのように行動に移る。


 立ち止まっていた者は歩き出し、

 歩いていた者は立ち止まり、

 店に入る者は店を出て、

 店から出る者は店に入る。


 理由はない。

 曜日でも時間でもない。

 ただ、行動が均等に分散されるよう自動的に調整されている。


 “偏りが渋滞や衝突を生む”という理屈の果て。


 だがそこで――ひとりだけ、違う動きをした。


 少女だ。


 鐘が鳴っても動かない。

 周囲の行動に合わせようとしない。


 ただ、空を見ていた。


 空は快晴でも曇天でもない。

 色彩が均一になるよう調整された人工的な青空だ。


 だが少女は、それを見て――


 笑った。


 この街において、

 誰かに向けた笑みではない“純粋な感情の反応”は異常だ。



 少女の年齢は十二、あるいは十三。

 髪は栗色で、手入れが甘い。

 服はよくある仕立てだが、裾が雑に継ぎ当てられている。


 つまり――この街の“完璧な均一性”からわずかにはみ出している。


 彼女の存在は、この世界において異端だ。


 幼い頃から適応できなかったのか、

 外から来たのか、

 壊れかけているのか――そこまではまだ分からない。


 ただひとつ確かなこと。


 彼女だけが、感情で空を見ていた。



「ねえ、そこのあなた」


 少女がこちらを見て――指さした。


 この街で、誰かを指さす者はいない。

 失礼や無礼を避けるためではなく、

 “個人を特定して興味を向ける行為”が禁止に近いからだ。


 だから、その行動は街のルールから完全に逸脱している。


 周囲の人々は反応しない。

しかし、視界の端で少女を“記録”するように見ている。


 それでも、彼らは止めようとしない。


 止めるという感情が湧かないからだ。


 正常と異常の区別は認識されるが、

 対処は“街全体の調整”に委ねられている。


 少女は走ってきた。


 失敗の可能性も、衝突の可能性も、全く考えずに。


 その混沌が、とても生きている。



「あなた、空の色が変だと思わない?」


 少女は息を切らしもせず言った。


 純粋な疑問。

 自分の感情を誰かに伝えたいだけの問い。


 街の人間が決してしない種類の会話。


 俺は答える。


「変だ。お前もそう思うのか?」


 少女の顔がぱっと明るくなる。


 街に満ちる薄めた笑顔ではなく、

 “喜びそのもの”の破裂だった。


「だよね! だよね!!

 絶対変だよね!

 みんな変じゃないって言うの!

 でも絶対変なんだよ!!」


 少女の声は跳ね回る。


 感情が波のように乱反射する。


 視線、呼吸、声色――全部“生きている”。


 この世界では希少すぎる。



 灯は少女を見つめる。


 襲うでも守るでもない。

 分析でも観察でもない。


 ただ、“同種の揺らぎ”を見る目。


 少女の感情は、灯の揺れをほんの少し揺らした。


 その反応は、この街で暮らす全人類の反応よりも――よほど真っ当だ。



 少女が俺の手首を突然掴む。


 この街で、人と触れ合う行為は滅多にない。

 手を伸ばす瞬間の予兆も、ためらいも、遠慮もなく――少女は掴んだ。


「ちょっと来て!!

 絶対見せたいものがあるの!!」


 俺は力を振りほどかない。


 灯は、俺が否定しなかったことを理解して、影を寄せる。


 周囲の人々はただ流れるように道を空ける。

 少女を止める気配はゼロ。


 街の秩序は、“異物の排除”ではなく“異物の隔離”を選択している。


 少女は走る。

 俺は歩幅を合わせる。

 灯は揺れずに並走する。



 雑多な路地裏に入る。

 だが、路地裏までも均一に保たれている。


 その“均一な異常”の奥に――ただ一カ所だけ、歪んだ領域があった。


 古い井戸。


 古いはずなのに、修復されていない。

 なぜかだけが“修復の対象から漏れている”。


 井戸の内部から、風が吹いていた。


 風の匂いは――森にも、都市にも、街にも似ていない。


 未来の匂い。


 少女は言う。


「街の人はね、“井戸は閉じている”って言うの。

 本当は風が出てるのに。

 “風などない”って、全員が言うの。

 でも、あるでしょ?」


 俺は頷く。


「ある。明確に吹いてる。」


「だよね!! だよね!!」


 少女は破裂するように笑った。


 そして、その笑みの奥に――

 ほんの一瞬“怯え”が見えた。


 少女は分かっている。


自分だけが“見えてしまっている”世界だと。

自分だけが“気づいてしまっている”世界だと。


 その怯えは、誰にも言えなかった恐怖の証。



 少女は、強がるように笑った。


「ここからね、外の風がくるの。

 街の外に本当の空があるって、あたし知ってるの。

 でも誰も信じてくれないの。

 全部“問題なし”って言うの。」


 灯の影が揺れる。

 俺の胸の奥で、森の熱が微かに脈打つ。


 少女が続ける。


「……ねえ、“間違ってるのはあたしなの?”

 それとも“あたし以外が壊れてるの?”」


 その言葉は、

 街全体よりも、外界の残骸よりも、

 成れの果てた命よりも、


 ずっと重かった。



 俺は少女をまっすぐ見た。


 答えはひとつでも両方でもない。


 だが俺は、迷わずこう言う。


「――お前は“壊れてない”」


 少女の目が見開かれ、

 涙があふれる――わけではない。


 泣くことすら忘れるほど、長く孤独だったのだ。


 だから、震えた声で笑う。


「ねえ……

 本当に信じてくれるの?」


「信じるんじゃない」

 俺は静かに言う。


「お前が“生きている”匂いがするからだ」


 その瞬間、少女は俺の胸に顔を埋めた。

 感情が反射するように、初めて泣いた。


 抑え込んでいた感情が決壊したから――泣けた。



 灯が近づき、少女の肩に手を伸ばしかけて――やめた。


 少女は、生きた感情を持っている。

 それを、灯が直接受け止めれば灯の均衡が揺れる。


 灯はそれを理解している。


 だから――影は、少女に触れずに寄り添う。


 それだけで十分だった。



 少女は泣き止み、涙を指で拭った。


「名前……教えて。

 あたしはリルナ。

 あなたは?」


 新しい世界での、

 最初の“名乗り”だ。


「アルスだ。」


 少女は微笑む。


「じゃあ、アルス。

 世界の本当の空、見に行こう?」


 ああ、来た。


 この世界が嫌う存在。

 灰色の幸福と均一の秩序を壊す最も危険な因子――


 “旅に憧れる人間”。


 それは、この世界において最大の異端。


 だから俺は言う。


「いいだろう。

 見に行こう。」


 リルナの顔が、心の底から輝いた。


 この世界が最も抑え込もうとしている光だった。


 


 再定義された世界の均一な秩序は、

 少女の笑顔ひとつで崩れ始める。


 


 その悪魔が願う未来は、

 最初の仲間との邂逅によって、

 静かに、しかし劇的に加速し始めていた。


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