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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第43話「かつて人だったものたち」

 森を出る三度目の一歩目は、静かだった。


 背中にある森の気配は、前よりも淡い。

 それは見放されたのではなく――信頼されている証拠だった。


 森は俺が戻ることを前提に呼吸している。

 だから、森の温度は俺の胸の奥に溶けるように残っている。


 帰り道を覚えさせるための温度。

 忘れないための熱。


 不思議なもので、それだけで視界は冷静に保たれる。



 灯が先を歩く。


 影はさらに人の形に近づいている。

 肩幅、腕の長さ、体重移動の癖――

 外の世界を歩くほど“誰かの歩き方”を思い出している。


 けれど、顔だけは曖昧なまま。

 その曖昧さが、人間の形よりも安心できた。


 灯は誰の代わりでもなく、灯自身である。


 それが守られている限り、何も問題はない。



 外の世界は、森を離れるたびに濃さが変わる。


 一度目――“終わりを選んだ街”

 二度目――“終わりを拒み、生に縋った都市”


 そして三度目。


 灯の足取りは遅くはなく、迷いもない。

 だが、進むごとに空気に“何か”が混ざり始める。


 腐臭でも、血の匂いでもない。


 それは――生き物の匂いだ。


 生きた匂い。

 呼吸の匂い。

 死を避けるためではなく、生きるための熱。


 けれど、それは決して“人間の匂い”ではなかった。


 もっと濃くて、もっと不安定で、もっと歪んでいる。


 胸の奥がざらりと反応する。


「いるな」


 声が出た。


 恐怖ではなく、確認。



 丘を越えると、景色が広がった。


 そこにあったのは街――ではない。

 森――でもない。


 巨大な集落だ。


 テント、骨組み、布、木の壁。

 文明とも原始とも違う、“生き残るための構造”だけで積み上げられた集落。


 だが、見た瞬間に分かった。


 ここは、“外敵から守るため”の集落ではない。


 外の世界から隔離されるための場所ではなく、

 外の世界を“締め出す”ための場所でもなく、


 自分たちが互いを見失わないためだけの場所だ。


 同族を探し、同族で固まり、

 同族の声を聞き、同族の死を拒絶し続けるための群れ。


 そこにあるのは団結でも友情でもない。

 ただ、同じ恐怖の共有。



 灯が足を止める。


 視線はひとつの方向を示す――集落の中心。


 広場の地面には、深く刻まれた線が無数に走っていた。


 円でも魔法陣でもない。


 爪跡だ。


 地面が柔らかかった時代に、必死に「しがみついた」跡。

 その力が強すぎて、土が石に変わっても傷跡の形を保っている。


 そこには言葉がない。

 だが意味は残っている。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない」


 声にならなかった声の痕。


 この世界は、二度と読み取れるはずのない記録を、それでも必死に映していた。



 視線をあげたとき、ようやく“それ”が見えた。


 集落の奥――天幕の影。

 骨の柱の間。

 崩れた櫓の上。


 **人の形をした“何か”**がこちらを見ていた。


 首の角度、背の高さ、腕の太さ、姿勢――

 一見すれば完全に人間のシルエット。


 しかし、その輪郭は揺れている。


 呼吸をするたびに筋肉が膨張し、

 心臓が動くたびに骨格が変形し、

 感情が動くたびに顔の形が変わる。


 アレはまだ生きている。

 だが、人間ではない。



 灯がかすかに揺れる。


 敵意でも警戒でもない。

 状況把握の揺れ。


 俺は一歩だけ前へ出た。


 その瞬間、天幕の影から一体が現れる。


 四肢は人の形。

 歩き方も人の歩き方。

 しかし、顔は存在のたび変わり続け、

 眼窩の光は昼夜関係なく燃えている。


 そいつは口を開いた。


 音にならなかった。


 声帯の音ではなく、思考の断片が叩きつけられる。


「まだ、死ねない」


 いや、それは違う。


 もっと根本的な衝動――


「生きたい」


 その声は、悲鳴でも祈りでもなく、

 “命を命として続けたい”という最も原始的な願いだった。



 俺は驚かなかった。


 軽蔑も、恐怖も、同情もなかった。


 ただ理解した。


 俺はこいつらを嫌いではない。


 死なないための延命ではなく、

 終わることを恐れて逃げたわけでもなく、


 生きるという結果を、愚直に目指し続けた成れの果て。


 その歪み方は醜い。

 だが――歪み方そのものに嘘がない。



 一体が近づく。

 地面を掴む腕が硬くなったり柔らかくなったり、

 骨の構造が変化したりしながら、それでも俺の前に進み出る。


 灯は止めない。

 狼はいない。

 仲間たちは森から見ている。


 俺は逃げない。

 殺さない。

 攻撃しない。


 ただ立つ。


 変異した“生き残り”が、目の位置らしき空洞で俺を見る。


 そして、口を――形にした。


「生きたい」


 その言葉が、空気の震えを通じて“実際の声”として発された。



 俺は今までに一度たりとも返したことのない返事をした。


「生きていい」


 その瞬間、広場の空気が変わった。


 風が揺れ、

 天幕が振動し、

 何十、何百、何千という気配が突き刺さってくる。


 生き残りの群れが、同時に、俺を見た。


 怒りでも感謝でもない。


 ただ――はじめて“認識”された。



 俺は続ける。


「だが――俺の森には連れていかない。

 生きる場所は自分で選べ」


 成れの果ては、微動だにせず、

 ただ呼吸の変化だけで返事をした。


 それで十分だった。


 俺が望む未来に従えとも、反発しろとも言わない。


 ただ――

お前たちは、お前たちの場所で生きろ。

 俺は俺の場所で生きる。


 それを互いに認めた。


 それだけで、この瞬間は成立した。



 一体の成れの果てが、背を向けた。


 歩くたびに筋肉が元の形に戻っていく。

 腕も、背骨も、胸郭も徐々に“均される”ように整っていく。


 変化は完全ではない。

 人間に戻ったわけでもない。


 ただ――生きるための形へ、少しだけ戻っていく。


 そしてまわりの影たちも、

 その動作を“真似るように”変化を始めた。


 俺の言葉は命令ではなかった。

 強制ではなかった。


 ただの許可だった。


 許可されるだけで、救われる存在もいる――

 そんな単純なことを、俺はようやく理解した。



 視界の端で、灯が小さく揺れる。


 その揺れは、笑いに似ていた。

 だが優しさや喜びの笑いではない。


 認識の笑み。


 “お前は、ようやくそこに辿り着いたな”

 そんな感覚。


「帰るぞ」


 俺が言うと、灯は迷わず踵を返す。


 成れの果てたちの気配は追ってこない。

 引き止めもしない。


 あるのは互いへの干渉の放棄。


 それは敵対よりも、味方よりも強い関係だ。



 森が見えてくる。


 境界の温度が近づき、

 胸の奥の熱が呼応する。


 狼の金色の瞳。

焚き火の赤。

 仲間たちの影。

 森の呼吸。


 全部が“帰ってきたな”と伝えてくる。


 俺は境界を越えた。


 外の世界の生き残りがいたことを――

 語らない。


 語る必要はない。

 語ればすべてを歪める。


 だが、結果だけは伝わる。


 焚き火の炎が、一瞬だけ黄金色に揺れた。


 生きることを肯定してきた火だ。



 俺は座る。


 何も言わない。

 誰も聞かない。


 それでいい。


 外の世界にまだ生命があった。

 その生命は、死を恐れるわけでも延命に縋るわけでもなく、

 ただ生きたいだけの命だった。


 俺はそれを壊さなかった。

 焼かなかった。

 森に持ち帰らなかった。


 未来は、混ぜすぎても腐るからだ。


 森は許す。

 俺も許す。

 外は外で生きればいい。



 焚き火の中心で、炎がこう語っていた。


 「お前は、もう外の世界に飲まれない」


 それが、森編の終わりの合図だ。


 森から外へ出ても、

 外の生を肯定しても、

 外の死を理解しても、


 俺の“帰る場所”は揺らがない。


 だから――次の段階へ進める。


 


 その悪魔が願う未来は、

 森のぬくもりの中で、

新しい世界へ向かう準備を静かに完了しつつあった。

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