第43話「かつて人だったものたち」
森を出る三度目の一歩目は、静かだった。
背中にある森の気配は、前よりも淡い。
それは見放されたのではなく――信頼されている証拠だった。
森は俺が戻ることを前提に呼吸している。
だから、森の温度は俺の胸の奥に溶けるように残っている。
帰り道を覚えさせるための温度。
忘れないための熱。
不思議なもので、それだけで視界は冷静に保たれる。
◆
灯が先を歩く。
影はさらに人の形に近づいている。
肩幅、腕の長さ、体重移動の癖――
外の世界を歩くほど“誰かの歩き方”を思い出している。
けれど、顔だけは曖昧なまま。
その曖昧さが、人間の形よりも安心できた。
灯は誰の代わりでもなく、灯自身である。
それが守られている限り、何も問題はない。
◆
外の世界は、森を離れるたびに濃さが変わる。
一度目――“終わりを選んだ街”
二度目――“終わりを拒み、生に縋った都市”
そして三度目。
灯の足取りは遅くはなく、迷いもない。
だが、進むごとに空気に“何か”が混ざり始める。
腐臭でも、血の匂いでもない。
それは――生き物の匂いだ。
生きた匂い。
呼吸の匂い。
死を避けるためではなく、生きるための熱。
けれど、それは決して“人間の匂い”ではなかった。
もっと濃くて、もっと不安定で、もっと歪んでいる。
胸の奥がざらりと反応する。
「いるな」
声が出た。
恐怖ではなく、確認。
◆
丘を越えると、景色が広がった。
そこにあったのは街――ではない。
森――でもない。
巨大な集落だ。
テント、骨組み、布、木の壁。
文明とも原始とも違う、“生き残るための構造”だけで積み上げられた集落。
だが、見た瞬間に分かった。
ここは、“外敵から守るため”の集落ではない。
外の世界から隔離されるための場所ではなく、
外の世界を“締め出す”ための場所でもなく、
自分たちが互いを見失わないためだけの場所だ。
同族を探し、同族で固まり、
同族の声を聞き、同族の死を拒絶し続けるための群れ。
そこにあるのは団結でも友情でもない。
ただ、同じ恐怖の共有。
◆
灯が足を止める。
視線はひとつの方向を示す――集落の中心。
広場の地面には、深く刻まれた線が無数に走っていた。
円でも魔法陣でもない。
爪跡だ。
地面が柔らかかった時代に、必死に「しがみついた」跡。
その力が強すぎて、土が石に変わっても傷跡の形を保っている。
そこには言葉がない。
だが意味は残っている。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない」
声にならなかった声の痕。
この世界は、二度と読み取れるはずのない記録を、それでも必死に映していた。
◆
視線をあげたとき、ようやく“それ”が見えた。
集落の奥――天幕の影。
骨の柱の間。
崩れた櫓の上。
**人の形をした“何か”**がこちらを見ていた。
首の角度、背の高さ、腕の太さ、姿勢――
一見すれば完全に人間のシルエット。
しかし、その輪郭は揺れている。
呼吸をするたびに筋肉が膨張し、
心臓が動くたびに骨格が変形し、
感情が動くたびに顔の形が変わる。
アレはまだ生きている。
だが、人間ではない。
◆
灯がかすかに揺れる。
敵意でも警戒でもない。
状況把握の揺れ。
俺は一歩だけ前へ出た。
その瞬間、天幕の影から一体が現れる。
四肢は人の形。
歩き方も人の歩き方。
しかし、顔は存在のたび変わり続け、
眼窩の光は昼夜関係なく燃えている。
そいつは口を開いた。
音にならなかった。
声帯の音ではなく、思考の断片が叩きつけられる。
「まだ、死ねない」
いや、それは違う。
もっと根本的な衝動――
「生きたい」
その声は、悲鳴でも祈りでもなく、
“命を命として続けたい”という最も原始的な願いだった。
◆
俺は驚かなかった。
軽蔑も、恐怖も、同情もなかった。
ただ理解した。
俺はこいつらを嫌いではない。
死なないための延命ではなく、
終わることを恐れて逃げたわけでもなく、
生きるという結果を、愚直に目指し続けた成れの果て。
その歪み方は醜い。
だが――歪み方そのものに嘘がない。
◆
一体が近づく。
地面を掴む腕が硬くなったり柔らかくなったり、
骨の構造が変化したりしながら、それでも俺の前に進み出る。
灯は止めない。
狼はいない。
仲間たちは森から見ている。
俺は逃げない。
殺さない。
攻撃しない。
ただ立つ。
変異した“生き残り”が、目の位置らしき空洞で俺を見る。
そして、口を――形にした。
「生きたい」
その言葉が、空気の震えを通じて“実際の声”として発された。
◆
俺は今までに一度たりとも返したことのない返事をした。
「生きていい」
その瞬間、広場の空気が変わった。
風が揺れ、
天幕が振動し、
何十、何百、何千という気配が突き刺さってくる。
生き残りの群れが、同時に、俺を見た。
怒りでも感謝でもない。
ただ――はじめて“認識”された。
◆
俺は続ける。
「だが――俺の森には連れていかない。
生きる場所は自分で選べ」
成れの果ては、微動だにせず、
ただ呼吸の変化だけで返事をした。
それで十分だった。
俺が望む未来に従えとも、反発しろとも言わない。
ただ――
お前たちは、お前たちの場所で生きろ。
俺は俺の場所で生きる。
それを互いに認めた。
それだけで、この瞬間は成立した。
◆
一体の成れの果てが、背を向けた。
歩くたびに筋肉が元の形に戻っていく。
腕も、背骨も、胸郭も徐々に“均される”ように整っていく。
変化は完全ではない。
人間に戻ったわけでもない。
ただ――生きるための形へ、少しだけ戻っていく。
そしてまわりの影たちも、
その動作を“真似るように”変化を始めた。
俺の言葉は命令ではなかった。
強制ではなかった。
ただの許可だった。
許可されるだけで、救われる存在もいる――
そんな単純なことを、俺はようやく理解した。
◆
視界の端で、灯が小さく揺れる。
その揺れは、笑いに似ていた。
だが優しさや喜びの笑いではない。
認識の笑み。
“お前は、ようやくそこに辿り着いたな”
そんな感覚。
「帰るぞ」
俺が言うと、灯は迷わず踵を返す。
成れの果てたちの気配は追ってこない。
引き止めもしない。
あるのは互いへの干渉の放棄。
それは敵対よりも、味方よりも強い関係だ。
◆
森が見えてくる。
境界の温度が近づき、
胸の奥の熱が呼応する。
狼の金色の瞳。
焚き火の赤。
仲間たちの影。
森の呼吸。
全部が“帰ってきたな”と伝えてくる。
俺は境界を越えた。
外の世界の生き残りがいたことを――
語らない。
語る必要はない。
語ればすべてを歪める。
だが、結果だけは伝わる。
焚き火の炎が、一瞬だけ黄金色に揺れた。
生きることを肯定してきた火だ。
◆
俺は座る。
何も言わない。
誰も聞かない。
それでいい。
外の世界にまだ生命があった。
その生命は、死を恐れるわけでも延命に縋るわけでもなく、
ただ生きたいだけの命だった。
俺はそれを壊さなかった。
焼かなかった。
森に持ち帰らなかった。
未来は、混ぜすぎても腐るからだ。
森は許す。
俺も許す。
外は外で生きればいい。
◆
焚き火の中心で、炎がこう語っていた。
「お前は、もう外の世界に飲まれない」
それが、森編の終わりの合図だ。
森から外へ出ても、
外の生を肯定しても、
外の死を理解しても、
俺の“帰る場所”は揺らがない。
だから――次の段階へ進める。
その悪魔が願う未来は、
森のぬくもりの中で、
新しい世界へ向かう準備を静かに完了しつつあった。




