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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第41話「死ねなかった願いの骸」

 森を出る二度目の一歩目は、最初のときより軽かった。


 帰れる場所があると知った一度目と違い、

 今度は**「帰るつもりで出ている」**という感覚が、最初から胸の中にある。


 森の甘さは背中で温度を保ち、

 外の世界の冷たさは胸の前で形を持ち始める。


 その二つの温度差が、今の俺をちゃんと“生かして”いた。



 灯が隣にいる。


 影の輪郭はさらに人に近づいていた。

 肩の高さ、背の線、歩幅――

 横に並んで歩くと、ほとんど「人影」にしか見えない。


 それでも、完全に人間の形にはならない。


 顔は曖昧で、目も鼻も口もない。

 けれど、その曖昧さがむしろ心地良かった。


 灯は“誰か”ではなく、“ここにいていいもの”として存在している。


 それ以上、何もいらない。



 今回は、灯が先を行く。


 足音も気配も揺らさず、

 ただ世界の薄いところを縫うように歩いていく。


 俺はそのすぐ後ろをついて行く。


 どこへ向かっているのかは分からない。


 しかし“方向”は分かる。


 「死ぬことを恐れて、それでも滅びきれなかった場所」


 それは、この世界全体の中でも特に濃い“澱”のような場所だ。


 終わりに線を引けなかった者たちの、最後の抵抗の跡。


 その匂いを、灯は確かに辿っていた。



 空は灰色で、風は弱い。


 崩れた街と街のあいだを抜け、

 土がむき出しの丘をいくつも越え、

 枯れた川の底を歩いていく。


 どこにも血はない。

 どこにも死体はない。


 それなのに、**“死ななかったものたちの匂い”**だけが濃くなっていく。


 生きているわけでもない。

 完全に死んだわけでもない。


 生にしがみついたまま、

 死のほうへも動けなくなったものたちの、ねばついた感触。


 それを胸の内側で舌のような感覚が確かめていた。



 丘をひとつ越えたとき、景色が変わった。


 そこだけ、世界の色が一段階濃くなっていた。


 石造りの大きな都市――

 ではない。


 表面上は城壁の名残に見えたが、近づくと分かる。


 あれは壁ではなく層だ。


 石と骨と金属と魔力と、意味の分からない符号が幾重にも積み重なっている。


 溶けかけた遺跡の上に、さらに別の遺跡を重ね、

 それでも足りずに魔法陣と結界と宗教的な紋様を縫い付け、

 そうやって「自分たちだけ死なない場所」を作ろうとした痕。


 遠くから見ただけで分かる。


 ここは、“死なないことを目的にした都市”だ。



 近づくほど、空気は重くなっていった。


 胸が苦しくなるような圧迫感。

 しかしそれは物理的なものではない。


 ここで“生き延びようとした意志”が、

 今もなお、痕だけを残したまましつこくまとわりついている。


 石の隙間から、鈍く光る魔力の筋が見える。


 それはもう流れていない。

 だが、流れていた「形」だけは残っている。


 準備万端のまま、一度も起動しなかった防衛装置のような都市。


 あるいは――

 最後まで発動し続けたのに、止められなかった呪いのようなもの。



 街の入口らしき場所には、門はなかった。


 代わりに、幾重にも重ねられた紋章と、刻まれた言葉の残骸があった。


 風雨に削られ、文字の大半は欠けていたが、いくつかだけ読める。


 そこには、こんな文言の痕跡があった。


「ここに魂ある者を――」

「ここに血ある者を――」

「ここに願いある者を――」

「死から遠ざけ――」

「終わりよりも手前に――」

「ここに留め――」


 最後の一行だけは、きれいに削り取られている。


 誰かが意図的に消したのか。

 それとも世界そのものが耐えきれなかったのか。


 いずれにせよ、結果だけは明白だ。


 ここは、“終わろうとしたが終われなかった願い”の墓場だ。



 都市の内部に足を踏み入れる。


 そこには街路があった。

 建物もあった。

 公園、噴水、広場、階段。


 構造だけ見れば、平凡な大都市だ。


 しかし、すべての表面に**“上塗りされた何か”**が貼り付いている。


 見慣れない金属板。

 凸凹した黒い樹脂の膜。

 魔法式のようでいて一貫性のない紋様。


 何度も何度も、

 “死なないための何か”を貼り付けてきた結果。


 そこには美しさも秩序もなく、

 ただしつこさだけがむき出しになっていた。



 街路の真ん中に、奇妙な碑が立っていた。


 石碑でも、銅像でもない。

 巨大な“塔の欠片”のようなもの。


 そこには、びっしりと名前が刻まれていた。


 個人名、家名、組織名、称号、神の名、概念の名前――

 ありとあらゆる“名”が刻み込まれている。


 その上に、こう書かれていた。


「ここに名を刻んだすべてのものは、

死を免れるべし」


 石に刻まれた命令。

 祈りでも願いでもない。


 命令。


 世界に対する、無礼な要求。



「馬鹿だな」


 口から自然に言葉が漏れた。


 憎しみではない。

 軽蔑でもない。

 ただ、呆れに近い感情。


「死を免れたいなら、せめて自分の範囲でやればよかったものを」


 この都市は、世界全体に条件を突きつけようとした。


 「名を刻んだすべてのものは死なない」と。


 それは自分たちだけの話では済まない。

 外の世界の秩序も巻き込み続ける。


 だから世界は、ここを“許さなかった”。



 灯の影が碑に近づく。


 影の指が、その文字をなぞる。


 指先が触れるたび、薄い灰色の粉がこぼれ落ちる。


 それは石の欠片ではない。

 この都市が“自分たちの名に付与しようとした意味”の残骸。


 灯はそれを静かに払う。

 拾わない。

 受け取らない。


 意味の死骸は、ただ足元で粉になっていく。



 街を少し歩くと、

 異様な建物が見えてきた。


 中央に広場。

 その周囲を取り囲むように円形の施設。

 内部には、幾百もの“部屋のような穴”。


 一目見て分かる。


 ここは、魂と肉体を切り離そうとした場所だ。


 部屋には、器のようなものが残されている。

 石でできた棺のような、鉄でできた殻のようなもの。

 その表面には、名や記号や数式が刻まれている。


 肉体をここに固定し、魂をどこかに逃がそうとしたのか。

 あるいはその逆か。


 いずれにせよ、結果は失敗だった。


 棺の中には、何も残っていない。


 肉も骨も、灰さえも。

 魂の気配もない。


 あるのはただ、「こうすれば死なずに済むはずだった」という目論見の空洞だけ。



「外に残っていた生者の気配が薄かった理由が分かるな」


 俺は呟く。


「ここで“しぶとく生き残ろうとした連中”の多くは、

 肉体も魂も、途中で潰えた。

 自分の手で自分を壊したんだ」


 カインの声が胸の中で同意する。


『死を拒んだ結果、死よりも薄い状態になったんだろうな』


 リュミエルが苦笑した気配がする。


『ある意味、いちばん“みっともない終わり方”よね』


 エリスの声は、少しだけ哀れみを含んでいた。


『でも、理解はできるよ。

 こわかったんだね、きっと』


 バロウの吐息が、灰のように乾いていた。


『怖いだけならまだいい。

 怖さを世界に押しつけたのが、問題だ』



 灯が一つの部屋の前で立ち止まった。


 そこには、他の部屋と違って “ぎっしりと何かが詰まっている感覚” があった。


 中に入る。


 棺は割れていた。

 縦に一筋、暴力的な線で裂かれている。


 その内側に、黒い痕跡が一面に広がっていた。


 煤でも、腐敗でも、血でもない。


 願いの焼け跡だ。


 「死にたくない」

 「終わりたくない」

 「ここから消えたくない」


 そういう感情だけを何度も何度も上塗りし、

 最後にそれが重みで内側から崩れた場所。


 その部屋だけ、空気が凪いでいる。


 諦めに似た静けさ。

 そして、どこか解放のような軽さ。



 俺は棺の縁に指を置いた。


 触れた瞬間、ほんの短い映像が脳裏をよぎる。


 誰かが、必死に叫んでいる。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない――」


 その声が、ある一点で別の言葉に変わる。


「……ああ、もういい」


 それで終わった。


 その瞬間、棺は裂けた。

 願いは燃え尽きた。

 魂はどこかへ消え、肉体は痕跡も残さなかった。


 ここだけ、終わりに線が引かれている。



「お前は、最後に“死んだ”んだな」


 俺は誰にともなく呟いた。


 名も顔も知らない誰か。

 ただこの棺の中で、最後の線を自分で引いた者。


 ここには、街全体がやろうとして出来なかったことを、

 個人としてやり遂げた人間がいた。


 死を恐れて都市を組み替え続けた連中とは違う。


 恐怖の果てで、「もういい」と言った者。


 そこには、わずかな尊敬があった。



 灯が隣で静かに揺れる。


 影の画面に、ほんの一瞬、顔のような凹凸が浮かんでは消えた。


 悲しみでも、同情でもない。

 ただ「見た」という印だけ。


 俺は部屋の外へ出る。


 この都市の全てを見て回る必要はない。

 構造は理解した。


 ここは、

 死を恐れて世界へしがみつこうとした結果、

 何も掴めないまま指の皮だけ剥がれた場所だ。


 それ以上、知る価値はない。



 広場へ戻る。


 中央の碑は相変わらずそこにある。


 名前たちが石の中で沈黙している。


 彼らは死なないことを望んだ。

 しかし実際には、「死んだとも生きたとも言えない状態」で閉じ込められた。


 その結果、この都市そのものが“意味のない延命装置”として残っている。


 これが「生にしがみついた世界」の答えだ。


 外の世界が俺に押し付けようとしている未来のひとつ。


 俺は、その未来を拒絶する。



「帰るぞ」


 灯にそう告げると、影が一度だけ揺れた。


 街は、何も言わない。


 引き止めもしない。

 理解を求めもしない。

 許しも請わない。


 ただ、沈黙したままそこに残る。


 願いが燃え尽きた灰だけが世界に混ざり、

 それでもこの都市だけは焼却されずに保管されている。


 世界はここを、しつこい見本として残したのかもしれない。


 「こうはなりたくないだろう」と。



 都市を出る。


 背後で風が吹いた。


 貼り合わせた金属板の一部が剥がれ、

 魔法式の一部が崩れ、

 どこかの壁がわずかに沈む。


 死なないことを望んだ都市が、

 ほんの少しだけ「崩壊」に近づいた瞬間だった。


 それでも一気には壊れない。

 このしつこさは、当分のあいだ世界の片隅に残り続ける。


 それでいい。


 誰かがここを見て、

 「こんな終わり方は嫌だ」と思えば――

 この都市の存在にも、少しは意味が生まれる。


 俺にとっては、もう十分だ。



 森への帰路は、最初に来たときより短く感じた。


 足は重くない。

 心も沈んでいない。


 しかし、胸の奥にひとつ新しい重りが増えたのはわかった。


 「終わりを選べなかった世界の重さ」。


 それは、この世界のどこかへ捨てるのではなく、

 森に持ち帰って燃やすべきものだ。


 焚き火にくべて、

 ちゃんと灰にして、

 森の土に混ぜてやればいい。


 それが俺の役目だと、自然に思えた。



 境界が見える。


 大樹が立ち、

 狼が座り、

 森の影が揺れ、

 焚き火の赤が遠くに見える。


 俺は一歩、境界を越える。


 森の空気が、肺の奥まで一気に流れ込んだ。


 死ななかった都市も、時間を止めた街も、

 みんな世界のどこかで静かに腐り続けている。


 だが――


 俺が帰る場所は、そこではない。



 狼が、今度は一歩だけ近づいてきた。


 金色の瞳が問いかける。


 「見てきたか」


「ああ」


 俺は短く答える。


「終わりに線を引けなかった連中の顔を、

 少しだけな」


 狼はそれ以上は聞かない。

 代わりに、俺の脇を通り過ぎて焚き火のほうへ戻っていった。


 その背中には、「お前の居場所はあそこだ」という当然の確信だけがあった。



 焚き火の輪に戻ると、

 仲間たちはやはりいつも通りの位置にいた。


 リュミエルが俺の顔をちらっと見て、

 少しだけ口角を上げる。


「顔、変わったよ」


「そうか?」


「うん。少しだけ“自分の死に興味が出た顔”になった」


 妙な言い回しだが、あながち間違いでもない。


 街では“死なないこと”を押しつけてくる世界を見た。

 都市では“死ねないまま崩れなかった願い”を見た。


 その上で、俺ははっきりと自覚した。


 俺は「いつか終わってもいい」と思っている。


 ただ――その終わりは、

 この森と、焚き火と、仲間たちと、灯の存在を含むものであってほしい。


 世界に強制される終わりではなく、

 自分で選ぶ終わり。


 それを欲している自分に気づいた。



 バロウが肩を竦める。


「まあ、“終わりを考えるようになった”ってのは、

 悪魔としては一歩前進なのか、後退なのか分からんが」


「少なくとも、“外に飲まれた”顔じゃない」

 カインが分析する。


「“外を森にくべようとしてる”顔だよ」

 エリスが楽しそうに言う。


 灯は俺の隣に座り、影の肩をそっと焚き火に向けた。


 外から持ち帰った重さを、火に渡すために。



 俺は、外で見たものを語らない。


 だが、持ち帰ったものは燃やす。


 時間を止めた街の“無責任な終わり”。

 死を恐れ、世界にしがみついた都市の“みっともない延命”。


 それらは、言葉にするまでもなく、

 焚き火の炎へと沈んでいく。


 火は一瞬だけ高く燃え、

 やがて再び落ち着いた丸い形に戻る。


 灰は森の土に還る。


 こうして世界の死骸は、森をとおして“意味のある肥やし”に変わっていく。



 森編の終わりが、はっきりと見えてきた。


 外の世界は、

 「終わりを選んだ場所」と

 「終わりを選べなかった場所」の二つで、

 だいたい答えが出ている。


 あとは、その二つを踏まえた上で――

 俺がどんな“中世的な新しい世界”を歩き直すかを決める段階だ。


 それはもう、

 ここから遠い未来の話ではない。


 この森の夜が、あとわずかで一度終わるという予感。


 その予感が、焚き火の心臓の鼓動として、

 静かに響いていた。


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