第41話「死ねなかった願いの骸」
森を出る二度目の一歩目は、最初のときより軽かった。
帰れる場所があると知った一度目と違い、
今度は**「帰るつもりで出ている」**という感覚が、最初から胸の中にある。
森の甘さは背中で温度を保ち、
外の世界の冷たさは胸の前で形を持ち始める。
その二つの温度差が、今の俺をちゃんと“生かして”いた。
◆
灯が隣にいる。
影の輪郭はさらに人に近づいていた。
肩の高さ、背の線、歩幅――
横に並んで歩くと、ほとんど「人影」にしか見えない。
それでも、完全に人間の形にはならない。
顔は曖昧で、目も鼻も口もない。
けれど、その曖昧さがむしろ心地良かった。
灯は“誰か”ではなく、“ここにいていいもの”として存在している。
それ以上、何もいらない。
◆
今回は、灯が先を行く。
足音も気配も揺らさず、
ただ世界の薄いところを縫うように歩いていく。
俺はそのすぐ後ろをついて行く。
どこへ向かっているのかは分からない。
しかし“方向”は分かる。
「死ぬことを恐れて、それでも滅びきれなかった場所」
それは、この世界全体の中でも特に濃い“澱”のような場所だ。
終わりに線を引けなかった者たちの、最後の抵抗の跡。
その匂いを、灯は確かに辿っていた。
◆
空は灰色で、風は弱い。
崩れた街と街のあいだを抜け、
土がむき出しの丘をいくつも越え、
枯れた川の底を歩いていく。
どこにも血はない。
どこにも死体はない。
それなのに、**“死ななかったものたちの匂い”**だけが濃くなっていく。
生きているわけでもない。
完全に死んだわけでもない。
生にしがみついたまま、
死のほうへも動けなくなったものたちの、ねばついた感触。
それを胸の内側で舌のような感覚が確かめていた。
◆
丘をひとつ越えたとき、景色が変わった。
そこだけ、世界の色が一段階濃くなっていた。
石造りの大きな都市――
ではない。
表面上は城壁の名残に見えたが、近づくと分かる。
あれは壁ではなく層だ。
石と骨と金属と魔力と、意味の分からない符号が幾重にも積み重なっている。
溶けかけた遺跡の上に、さらに別の遺跡を重ね、
それでも足りずに魔法陣と結界と宗教的な紋様を縫い付け、
そうやって「自分たちだけ死なない場所」を作ろうとした痕。
遠くから見ただけで分かる。
ここは、“死なないことを目的にした都市”だ。
◆
近づくほど、空気は重くなっていった。
胸が苦しくなるような圧迫感。
しかしそれは物理的なものではない。
ここで“生き延びようとした意志”が、
今もなお、痕だけを残したまましつこくまとわりついている。
石の隙間から、鈍く光る魔力の筋が見える。
それはもう流れていない。
だが、流れていた「形」だけは残っている。
準備万端のまま、一度も起動しなかった防衛装置のような都市。
あるいは――
最後まで発動し続けたのに、止められなかった呪いのようなもの。
◆
街の入口らしき場所には、門はなかった。
代わりに、幾重にも重ねられた紋章と、刻まれた言葉の残骸があった。
風雨に削られ、文字の大半は欠けていたが、いくつかだけ読める。
そこには、こんな文言の痕跡があった。
「ここに魂ある者を――」
「ここに血ある者を――」
「ここに願いある者を――」
「死から遠ざけ――」
「終わりよりも手前に――」
「ここに留め――」
最後の一行だけは、きれいに削り取られている。
誰かが意図的に消したのか。
それとも世界そのものが耐えきれなかったのか。
いずれにせよ、結果だけは明白だ。
ここは、“終わろうとしたが終われなかった願い”の墓場だ。
◆
都市の内部に足を踏み入れる。
そこには街路があった。
建物もあった。
公園、噴水、広場、階段。
構造だけ見れば、平凡な大都市だ。
しかし、すべての表面に**“上塗りされた何か”**が貼り付いている。
見慣れない金属板。
凸凹した黒い樹脂の膜。
魔法式のようでいて一貫性のない紋様。
何度も何度も、
“死なないための何か”を貼り付けてきた結果。
そこには美しさも秩序もなく、
ただしつこさだけがむき出しになっていた。
◆
街路の真ん中に、奇妙な碑が立っていた。
石碑でも、銅像でもない。
巨大な“塔の欠片”のようなもの。
そこには、びっしりと名前が刻まれていた。
個人名、家名、組織名、称号、神の名、概念の名前――
ありとあらゆる“名”が刻み込まれている。
その上に、こう書かれていた。
「ここに名を刻んだすべてのものは、
死を免れるべし」
石に刻まれた命令。
祈りでも願いでもない。
命令。
世界に対する、無礼な要求。
◆
「馬鹿だな」
口から自然に言葉が漏れた。
憎しみではない。
軽蔑でもない。
ただ、呆れに近い感情。
「死を免れたいなら、せめて自分の範囲でやればよかったものを」
この都市は、世界全体に条件を突きつけようとした。
「名を刻んだすべてのものは死なない」と。
それは自分たちだけの話では済まない。
外の世界の秩序も巻き込み続ける。
だから世界は、ここを“許さなかった”。
◆
灯の影が碑に近づく。
影の指が、その文字をなぞる。
指先が触れるたび、薄い灰色の粉がこぼれ落ちる。
それは石の欠片ではない。
この都市が“自分たちの名に付与しようとした意味”の残骸。
灯はそれを静かに払う。
拾わない。
受け取らない。
意味の死骸は、ただ足元で粉になっていく。
◆
街を少し歩くと、
異様な建物が見えてきた。
中央に広場。
その周囲を取り囲むように円形の施設。
内部には、幾百もの“部屋のような穴”。
一目見て分かる。
ここは、魂と肉体を切り離そうとした場所だ。
部屋には、器のようなものが残されている。
石でできた棺のような、鉄でできた殻のようなもの。
その表面には、名や記号や数式が刻まれている。
肉体をここに固定し、魂をどこかに逃がそうとしたのか。
あるいはその逆か。
いずれにせよ、結果は失敗だった。
棺の中には、何も残っていない。
肉も骨も、灰さえも。
魂の気配もない。
あるのはただ、「こうすれば死なずに済むはずだった」という目論見の空洞だけ。
◆
「外に残っていた生者の気配が薄かった理由が分かるな」
俺は呟く。
「ここで“しぶとく生き残ろうとした連中”の多くは、
肉体も魂も、途中で潰えた。
自分の手で自分を壊したんだ」
カインの声が胸の中で同意する。
『死を拒んだ結果、死よりも薄い状態になったんだろうな』
リュミエルが苦笑した気配がする。
『ある意味、いちばん“みっともない終わり方”よね』
エリスの声は、少しだけ哀れみを含んでいた。
『でも、理解はできるよ。
こわかったんだね、きっと』
バロウの吐息が、灰のように乾いていた。
『怖いだけならまだいい。
怖さを世界に押しつけたのが、問題だ』
◆
灯が一つの部屋の前で立ち止まった。
そこには、他の部屋と違って “ぎっしりと何かが詰まっている感覚” があった。
中に入る。
棺は割れていた。
縦に一筋、暴力的な線で裂かれている。
その内側に、黒い痕跡が一面に広がっていた。
煤でも、腐敗でも、血でもない。
願いの焼け跡だ。
「死にたくない」
「終わりたくない」
「ここから消えたくない」
そういう感情だけを何度も何度も上塗りし、
最後にそれが重みで内側から崩れた場所。
その部屋だけ、空気が凪いでいる。
諦めに似た静けさ。
そして、どこか解放のような軽さ。
◆
俺は棺の縁に指を置いた。
触れた瞬間、ほんの短い映像が脳裏をよぎる。
誰かが、必死に叫んでいる。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない――」
その声が、ある一点で別の言葉に変わる。
「……ああ、もういい」
それで終わった。
その瞬間、棺は裂けた。
願いは燃え尽きた。
魂はどこかへ消え、肉体は痕跡も残さなかった。
ここだけ、終わりに線が引かれている。
◆
「お前は、最後に“死んだ”んだな」
俺は誰にともなく呟いた。
名も顔も知らない誰か。
ただこの棺の中で、最後の線を自分で引いた者。
ここには、街全体がやろうとして出来なかったことを、
個人としてやり遂げた人間がいた。
死を恐れて都市を組み替え続けた連中とは違う。
恐怖の果てで、「もういい」と言った者。
そこには、わずかな尊敬があった。
◆
灯が隣で静かに揺れる。
影の画面に、ほんの一瞬、顔のような凹凸が浮かんでは消えた。
悲しみでも、同情でもない。
ただ「見た」という印だけ。
俺は部屋の外へ出る。
この都市の全てを見て回る必要はない。
構造は理解した。
ここは、
死を恐れて世界へしがみつこうとした結果、
何も掴めないまま指の皮だけ剥がれた場所だ。
それ以上、知る価値はない。
◆
広場へ戻る。
中央の碑は相変わらずそこにある。
名前たちが石の中で沈黙している。
彼らは死なないことを望んだ。
しかし実際には、「死んだとも生きたとも言えない状態」で閉じ込められた。
その結果、この都市そのものが“意味のない延命装置”として残っている。
これが「生にしがみついた世界」の答えだ。
外の世界が俺に押し付けようとしている未来のひとつ。
俺は、その未来を拒絶する。
◆
「帰るぞ」
灯にそう告げると、影が一度だけ揺れた。
街は、何も言わない。
引き止めもしない。
理解を求めもしない。
許しも請わない。
ただ、沈黙したままそこに残る。
願いが燃え尽きた灰だけが世界に混ざり、
それでもこの都市だけは焼却されずに保管されている。
世界はここを、しつこい見本として残したのかもしれない。
「こうはなりたくないだろう」と。
◆
都市を出る。
背後で風が吹いた。
貼り合わせた金属板の一部が剥がれ、
魔法式の一部が崩れ、
どこかの壁がわずかに沈む。
死なないことを望んだ都市が、
ほんの少しだけ「崩壊」に近づいた瞬間だった。
それでも一気には壊れない。
このしつこさは、当分のあいだ世界の片隅に残り続ける。
それでいい。
誰かがここを見て、
「こんな終わり方は嫌だ」と思えば――
この都市の存在にも、少しは意味が生まれる。
俺にとっては、もう十分だ。
◆
森への帰路は、最初に来たときより短く感じた。
足は重くない。
心も沈んでいない。
しかし、胸の奥にひとつ新しい重りが増えたのはわかった。
「終わりを選べなかった世界の重さ」。
それは、この世界のどこかへ捨てるのではなく、
森に持ち帰って燃やすべきものだ。
焚き火にくべて、
ちゃんと灰にして、
森の土に混ぜてやればいい。
それが俺の役目だと、自然に思えた。
◆
境界が見える。
大樹が立ち、
狼が座り、
森の影が揺れ、
焚き火の赤が遠くに見える。
俺は一歩、境界を越える。
森の空気が、肺の奥まで一気に流れ込んだ。
死ななかった都市も、時間を止めた街も、
みんな世界のどこかで静かに腐り続けている。
だが――
俺が帰る場所は、そこではない。
◆
狼が、今度は一歩だけ近づいてきた。
金色の瞳が問いかける。
「見てきたか」
「ああ」
俺は短く答える。
「終わりに線を引けなかった連中の顔を、
少しだけな」
狼はそれ以上は聞かない。
代わりに、俺の脇を通り過ぎて焚き火のほうへ戻っていった。
その背中には、「お前の居場所はあそこだ」という当然の確信だけがあった。
◆
焚き火の輪に戻ると、
仲間たちはやはりいつも通りの位置にいた。
リュミエルが俺の顔をちらっと見て、
少しだけ口角を上げる。
「顔、変わったよ」
「そうか?」
「うん。少しだけ“自分の死に興味が出た顔”になった」
妙な言い回しだが、あながち間違いでもない。
街では“死なないこと”を押しつけてくる世界を見た。
都市では“死ねないまま崩れなかった願い”を見た。
その上で、俺ははっきりと自覚した。
俺は「いつか終わってもいい」と思っている。
ただ――その終わりは、
この森と、焚き火と、仲間たちと、灯の存在を含むものであってほしい。
世界に強制される終わりではなく、
自分で選ぶ終わり。
それを欲している自分に気づいた。
◆
バロウが肩を竦める。
「まあ、“終わりを考えるようになった”ってのは、
悪魔としては一歩前進なのか、後退なのか分からんが」
「少なくとも、“外に飲まれた”顔じゃない」
カインが分析する。
「“外を森にくべようとしてる”顔だよ」
エリスが楽しそうに言う。
灯は俺の隣に座り、影の肩をそっと焚き火に向けた。
外から持ち帰った重さを、火に渡すために。
◆
俺は、外で見たものを語らない。
だが、持ち帰ったものは燃やす。
時間を止めた街の“無責任な終わり”。
死を恐れ、世界にしがみついた都市の“みっともない延命”。
それらは、言葉にするまでもなく、
焚き火の炎へと沈んでいく。
火は一瞬だけ高く燃え、
やがて再び落ち着いた丸い形に戻る。
灰は森の土に還る。
こうして世界の死骸は、森をとおして“意味のある肥やし”に変わっていく。
◆
森編の終わりが、はっきりと見えてきた。
外の世界は、
「終わりを選んだ場所」と
「終わりを選べなかった場所」の二つで、
だいたい答えが出ている。
あとは、その二つを踏まえた上で――
俺がどんな“中世的な新しい世界”を歩き直すかを決める段階だ。
それはもう、
ここから遠い未来の話ではない。
この森の夜が、あとわずかで一度終わるという予感。
その予感が、焚き火の心臓の鼓動として、
静かに響いていた。




