第40話「語られない報告と、次の行き先」
森は、最初の一歩を踏み入れる前から俺を歓迎していた。
空気の濃度が変わった。
土の湿度が変わった。
音の響き方が変わった。
森の世界は、外の世界よりも“生きている”。
踏み込み一歩目には、わずかな抵抗があった。
それは拒絶ではなく、“確認のための衝撃”のようなものだ。
次の一歩目は、柔らかく受け止められた。
まるで、
「確かにお前だ。帰っていい」
と言われたような感覚。
糸が太くなる。
背中の奥、魂の奥に絡んでいた森との繋がりが、より強固に、より深く、よりやわらかくなっていく。
帰ってきた。
ただいま、と心が言っていた。
◆
大樹が見える。
狼がそこにいた。
俺が境界に戻るのを踏みとどまるように待っていた狼は、姿勢を崩した。
座り込み、長い息を吐き、尻尾で地面を一度叩く。
「帰ってきたか」
言葉はなかったが、その感触はまっすぐ伝わった。
俺は短く頷いた。
狼はそれ以上を求めない。
問いかけない。
安堵もしない。
ただ事実として受け止め、それだけで役目は終わる。
だからこそ、安心できる。
◆
焚き火が見える。
仲間たちがいる。
火はまだ丸く燃えている。
あの火は、俺が境界を跨いだ瞬間から「帰るまで形を崩さない」ように燃え続けていたのだろう。
まるで、
「帰ってくるのを前提として燃やす」
という意志の火。
俺は焚き火の輪に戻った。
誰も立ち上がらない。
誰も肩を叩かない。
ただ、それぞれの姿勢のまま迎える。
それが一番心地いい迎え方だった。
◆
リュミエルが、こちらをちらっと見ただけで言う。
「おかえり。
どうだった?」
優しい声。
しかし中身は違う。
“何を見た?”ではなく、
“見たものすべてを話す必要がある?”でもなく、
**「語りたいなら聞くよ」**というニュアンス。
だから俺は答えた。
「語らなくていい」
リュミエルは、それだけで満足したように微笑む。
◆
バロウは、微動だにせず体勢を維持したまま。
「そりゃそうだ。
言葉にしてしまうと、お前が“外の世界の意味”を引き受けちまうからな」
淡々とした声。
感情ではなく理解から出た言葉。
「外は“意味を押し付けてくる”世界だろう」
カインが静かに言う。
「語った瞬間、その意味が“森の意味”に干渉する」
「だから黙って帰ってきた」
俺は頷く。
「うん、それが一番正しい」
エリスは火を見つめたまま言った。
「だって、あなたが帰ってきたって事実さえ分かれば十分だから」
その通りだった。
報告は必要ない。
結果だけでいい。
外の世界は外の世界。
森は森。
混ぜ合わせる必要は、ない。
◆
灯が俺の隣へ座った。
影の輪郭は、外へ出る前よりもわずかに濃くなっている。
そしてほんの少しだけ、人に近い。
目の位置に光が集まり、頬の線が形成され、
肩の角度が“感情”を帯びる。
灯は何も言わない。
けれど、灯の変化そのものが語っている。
外の世界は灯に影響を与えた。
そして灯の変化は俺に影響を与えている。
森はそれを許している。
乾いた外から生きた森への血流のような変化。
それは危険ではない。
豊穣だ。
◆
焚き火の音が少しだけ大きくなった。
語らない報告。
それで十分だった。
そして――会話が生まれる必要もなく、
ただ雰囲気だけで次の話題へ移る。
森の夜は、完璧に自然に流れる。
◆
「次は、どこを見るつもり?」
エリスが静かに尋ねた。
急かさず、押しつけず、ただ“考えを促す”声。
俺は火を見つめながらゆっくり答える。
「街は、終わりを選んだ場所だった。
“死なないために死んだ”世界の姿だった」
その表現には、誰も違和感も驚きも示さない。
「だから次は――」
言葉が自然に続く。
「“死ぬために生き残ろうとした場所”を見に行きたい」
今回とは逆の世界。
終わりから逃れるために、最後まで生きようとした場所。
意味を持とうとし続けた痕跡。
野心・願い・絶望・執念・救い・拒絶――なんでもいい。
最後の線を引くことを拒んだ集団の跡。
◆
リュミエルが小さく笑う。
「そういう場所、絶対に残ってるよ。
だって“最後の線を引くことすら選べなかった弱さ”も、世界の形だから」
バロウが焚き火を突く。
「街と正反対の場所だろうな。
綺麗でも静かでもなく、“汚く生きることにしがみついた死骸”」
カインは淡々と補足する。
「そこでは意味が暴れ続けているかもしれない。
否定も肯定もなく、ただ衝動だけが残っている」
「そういう場所を嫌いそうに見えて、案外好きでしょ?」
エリスが笑う。
「……まあ、嫌いじゃない」
そう答えた俺自身に、少しだけ驚いた。
◆
灯がわずかに揺れる。
影の動きは“方向を知っている”と告げている。
灯は外の世界を一度見ている。
終わりを選んだ世界を見た。
だから今度は――終わりを選べなかった世界の方角を知っている。
「案内してくれるか?」
灯は、焚き火の炎のように柔らかい揺れで応えた。
◆
狼が、森の奥からこちらへ歩いてきた。
境界ではなく、焚き火のそばまで。
それは滅多にない。
狼は俺の正面に座った。
瞳は金色に光り、森そのものの意思を映していた。
狼は吠えない。
唸らない。
ただ、視線だけで告げる。
帰れる。
次も帰って来い。
森はそれを前提として存在する。
俺は短く頷く。
狼はそれで満足した。
◆
焚き火の炎が、また一段階だけ高さを増した。
夜が深まり、
外の世界への関心が森へ溶け、
“帰還の夜”がひとつ完結する。
語らない報告の夜。
それぞれが、俺の帰りを当然のこととして受け止め、
俺も森へ戻ることを当然のこととして感じている。
この循環が、
森編を終えるための基礎を固めていく。
◆
火の光は未来へ伸びる。
次に向かうべき場所は決まった。
「死ぬことを恐れ、生き残ろうとして、
それでも滅びた場所」
そこに、2000年分の“執念”が残っている。
終わりを受け入れられなかった世界の形。
それを見て、俺はさらに森へ深く帰ってくる。
森の未来を、より濃く、より鮮明に、より確かにするために。
◆
その悪魔が願う未来は、
焚き火の熱を胸に宿したまま、
次の段階へ向かう準備を始めていた。




