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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第39話「時間の止まった街と、狂った鐘」

 森を出てから、どれほど歩いただろう。


 外の世界の空気は薄く、乾いている。

 けれど毒ではない。

 森の甘さに慣れているせいでそう感じるだけだ。


 足音は広がらない。

 風に溶けるでも、地面に吸われるでもなく、ただ静かに響く。


 どこもかしこも――“静止”している。


 生者の営みが消えて久しい世界。

 泣き声も笑い声も、祈りも絶望も、ぜんぶ過去のもの。


 ただ、残骸だけが残っている。



 最初に見えてきたのは街だった。


 城壁に囲まれ、複数の時計台、塔、廣場、街路樹。

 建設技術は高く、文化レベルは確かに中世そのものだ。

 だが、2000年前の本来の世界よりも洗練されている。


 人類は進化の末に滅びた。


 それが景色だけで伝わってくる。



 街門まで来て、俺は足を止めた。


 巨大な二枚扉が、両側に割れるように開いている。

 破られた跡はない。

 外から押されたでも、中から押されたでもない。


 ここは――自ら開いたまま閉じなかった門。


 生き残った者の逃走の跡でも、侵略の痕でもない。


 ここから出た誰も、戻ろうとしなかった。

 ここへ来る誰も、入ろうとしなかった。


 街は拒絶されも、守られもしていない。

 ただ――放置されている。


 その無関心さが、いちばん冷たい。



 中に入る。


 灯が隣を歩き、狼は森に残っている。

 振り返る必要は、どこにもない。


 街には死体はなかった。

 血の跡も、争った傷も、残骸らしい残骸もない。


 ただ、日用品が整然とそこにある。

 椅子は倒れていない。

 扉は破られていない。

 食器すら、きれいに並べられて皿の上にある。


 生きたまま消えた世界。


 人間の形を残したまま、魂だけ抜け落ちた景色。


 綺麗すぎる廃墟は、不気味だ。



「不安な感じはしない?」


 と、リュミエルの声が聞こえた気がした。


 後ろを振り返っても、誰もいない。

 仲間の姿は森の焚き火のそばにある。


 だが、幻聴や幻覚ではなかった。


 彼らは森にいるまま――

 俺の感覚に“寄り添っている”。


 肉体は離れても、意識は繋がっている。


 俺は首を横に振る。


「不安じゃない。

 ただ――この街の“選択”が気に入らないだけだ」


 それは、怒りではない。

 侮蔑でも悲しみでもない。


**“無責任さへの軽蔑”**だ。



 街の中心へ向かって歩く。


 灯は黙って付いてくる。

 影の輪郭は街の景色の反射を受け、揺らぎ、歪む。


 影に人間の姿が見えそうで、見えない。

 懐かしさも寂しさも感じない。

 ただ、この世界を“外側から観察する者”の形。


 俺と灯の歩みは静かで、確実だった。


 途中で、風が吹いた。


 その瞬間、街中の旗が一斉に揺れた。


 音もせず、ただ動いた。

 生き物の反応ではなく、プログラムされた動きのように。



 そして聞こえた。


 ゴォォォォォォォン……


 それは鐘の音だった。


 低く、重く、長く。

 金属が震え、空気を叩く音。


 街の中央に見える時計塔の鐘楼から響いている。


 だが――鐘は揺れていない。


 見える範囲の物理法則では、これは鳴らないはずだった。


 にもかかわらず、鐘は鳴り続けている。


 ゴォォォン……ゴォォォォン……


 完全に狂ったリズム。

 規則性も周期もない。

 止まるでもなく、まとまりもしない。


 ただ、存在を“主張しないまま主張している音”。


 この世界そのものだ。



「時間が壊れてるな」


 俺は静かに言った。


 鐘は時間の支配の象徴。

 時刻を告げ、人の生活を区切るためのもの。


 だが今は、時間を区切るのではなく――

 時間の死骸が、意味を忘れて呻いているだけ。


 それが鐘の音の正体だった。



 時計塔の麓へ着く。


 扉は開いている。

 中から誰かが出ようとした気配はない。

 誰かが入ろうと拒んだ痕もない。


 自然な解放。

 ある意味で最も不自然。


 中に入ると、階段があった。


 腐っていない。

 崩れていない。

 2000年経っていながら、誰かが毎日手入れしていたような質感。


 でも、誰もいない。


 “存在しない手”が手入れしていたとしか思えない。



 階段を登りながら、思考が冷たく澄んでいく。


 この世界は、終わりたがっている。

 だが完全に消えたくない。


 そんな矛盾の上に、塔は建っている。


 上へ行くほど、鐘の音は強くなる。

 金属音ではなく、思念の振動のように胸に響いてくる。


 灯の影が揺れる。

 俺の足取りも重くなっていく――でも止まらない。



 最上階。


 鐘楼に出た瞬間、音が止まった。


 完全な静寂。

 空気が固まる。

 世界が息を止める。


 鐘は巨大で、黒く光っていた。

 振り子もなく、槌もない。


 なのに、ここまでずっと鳴っていた。


 そして――

 鐘の下の石盤に、刻まれていた。


 日付と、時刻と、その横の一本線。


 森で灯が見せた“終わりの石板”と同じ構造。


 いや、もっと正確に言うなら――


 あれは石板ではなく、この街全体が“石板であり記録”だった。



 2000年前。

 街の住人は生きていた。

 人類の生活は続いていた。


 しかし彼らは、ある日こう決めた。


「ここで、時間に区切りをつけよう」


 そして街の時計塔に“最後の線”を刻んだ。


 その瞬間――

 街は時間の流れから切り離された。


 生も死も、老いも成長も、繁栄も衰退もない。

 ただ、“最後の姿のまま残り続けた”。


 だから死体がない。

 だから物が散乱していない。

 だから争いの痕跡がない。


 ここにいる全員は――


 死ななかったのではなく、死ねなかった。


 そして、生きることもできなかった。



 灯が鐘の下に立った。


 影の指が、石盤に伸びる。


 そこで俺は無言で止めた。


 触れてはいけない。

 触れたら絶対に戻れない。


 世界がどう変わろうと、俺は森へ帰る。

 森という帰る場所を確かなものにするために来た。


 ここで世界の死骸に飲まれるわけにはいかない。


 灯は、影をそっと下ろした。


 理解している。



 俺は鐘の前に立ち、声を出さずに心の中で尋ねた。


「俺を呼んだのは、お前か?」


 鐘は応えない。

 応えられない。


 石に刻まれた数字は、最後の日付で止まっている。


 もう、誰も先に進めない。

 進む権利すら奪われた世界。


 そして俺は、静かに確信する。


 この世界は俺に救いを求めていない。

 ただ、“意味を押し付けようとしている」。


 最後の日付で止まったまま、

 「死なず、生きず、ただ存在し続ける」という矛盾。


 それを肯定してほしいのだ、この世界は。



「――断る」


 低く、短く、冷たく。


 鐘は鳴らない。

 世界は音ひとつ立てない。


 それでも、響いた。


 俺が進む未来は、

 この死んだ時間の延長ではない。


 俺の進む未来は、

 血が流れ、息があり、焚き火が燃え、

 帰る場所と歩く場所が分かれた世界だ。


 ここではない。



 灯が隣に立った。

 影が俺の手の近くまで伸びる。


 言葉はない。


 だが、ひとつだけはっきりと伝わる。


「帰ろうか」


 ここは見るだけでよかった。

 触れる必要はない。


 森へ帰り、仲間の輪の中へ戻り、

 次の遺跡へ進む準備をすればいい。


 森があって、焚き火があって、仲間がいるという前提で――

 外の世界を見ていけばいい。



 来た道を戻る。


 階段は変わらず整っている。

 扉は開いたまま。

 街は沈黙したまま。


 だが、何かだけが違う。


 街が俺を見ているのではなく――

 俺が街を見ている。


 立場が完全に逆転した。


 この世界は俺を必要としない。

 俺もこの世界を必要としない。


 それが互いに理解された。


 だから、帰っていい。



 街門を抜けたとき、風が吹いた。


 旗が揺れ、布の端が少しだけ破れて飛ぶ。


 初めて変化が起きた。


 時間の止まった街が、わずかな変化を許した。


 それは敗北ではなく――“認識の確立”だった。


「これはこの街の終わりであり、俺の始まりじゃない」


 世界はそれを受け入れた。



 灯と歩きながら、俺は森の方向へ向かった。


 疲労はない。

 だが、心が少しだけ重くなっている。


 重さは悪いものではない。

 「理解した」という重さだ。


 外の世界は、“無意味のまま終わりたい”。

 その欲望が文明を2000年遺体として残した。


 俺はそれに与しない。


 俺の未来は“続くことを望む未来”だ。



 遠くに森の大樹の影が見える。


 焚き火の赤い光。

 仲間の気配。

 狼の睨み。


 ああ――帰った。


 街を拒絶したのではなく、

 街に飲まれなかった。


 だから、胸の奥に小さな温かさが灯ったまま残っていた。


 その悪魔が願う未来は、

 森の中心で、また深く形を変えていく。

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