第39話「時間の止まった街と、狂った鐘」
森を出てから、どれほど歩いただろう。
外の世界の空気は薄く、乾いている。
けれど毒ではない。
森の甘さに慣れているせいでそう感じるだけだ。
足音は広がらない。
風に溶けるでも、地面に吸われるでもなく、ただ静かに響く。
どこもかしこも――“静止”している。
生者の営みが消えて久しい世界。
泣き声も笑い声も、祈りも絶望も、ぜんぶ過去のもの。
ただ、残骸だけが残っている。
◆
最初に見えてきたのは街だった。
城壁に囲まれ、複数の時計台、塔、廣場、街路樹。
建設技術は高く、文化レベルは確かに中世そのものだ。
だが、2000年前の本来の世界よりも洗練されている。
人類は進化の末に滅びた。
それが景色だけで伝わってくる。
◆
街門まで来て、俺は足を止めた。
巨大な二枚扉が、両側に割れるように開いている。
破られた跡はない。
外から押されたでも、中から押されたでもない。
ここは――自ら開いたまま閉じなかった門。
生き残った者の逃走の跡でも、侵略の痕でもない。
ここから出た誰も、戻ろうとしなかった。
ここへ来る誰も、入ろうとしなかった。
街は拒絶されも、守られもしていない。
ただ――放置されている。
その無関心さが、いちばん冷たい。
◆
中に入る。
灯が隣を歩き、狼は森に残っている。
振り返る必要は、どこにもない。
街には死体はなかった。
血の跡も、争った傷も、残骸らしい残骸もない。
ただ、日用品が整然とそこにある。
椅子は倒れていない。
扉は破られていない。
食器すら、きれいに並べられて皿の上にある。
生きたまま消えた世界。
人間の形を残したまま、魂だけ抜け落ちた景色。
綺麗すぎる廃墟は、不気味だ。
◆
「不安な感じはしない?」
と、リュミエルの声が聞こえた気がした。
後ろを振り返っても、誰もいない。
仲間の姿は森の焚き火のそばにある。
だが、幻聴や幻覚ではなかった。
彼らは森にいるまま――
俺の感覚に“寄り添っている”。
肉体は離れても、意識は繋がっている。
俺は首を横に振る。
「不安じゃない。
ただ――この街の“選択”が気に入らないだけだ」
それは、怒りではない。
侮蔑でも悲しみでもない。
**“無責任さへの軽蔑”**だ。
◆
街の中心へ向かって歩く。
灯は黙って付いてくる。
影の輪郭は街の景色の反射を受け、揺らぎ、歪む。
影に人間の姿が見えそうで、見えない。
懐かしさも寂しさも感じない。
ただ、この世界を“外側から観察する者”の形。
俺と灯の歩みは静かで、確実だった。
途中で、風が吹いた。
その瞬間、街中の旗が一斉に揺れた。
音もせず、ただ動いた。
生き物の反応ではなく、プログラムされた動きのように。
◆
そして聞こえた。
ゴォォォォォォォン……
それは鐘の音だった。
低く、重く、長く。
金属が震え、空気を叩く音。
街の中央に見える時計塔の鐘楼から響いている。
だが――鐘は揺れていない。
見える範囲の物理法則では、これは鳴らないはずだった。
にもかかわらず、鐘は鳴り続けている。
ゴォォォン……ゴォォォォン……
完全に狂ったリズム。
規則性も周期もない。
止まるでもなく、まとまりもしない。
ただ、存在を“主張しないまま主張している音”。
この世界そのものだ。
◆
「時間が壊れてるな」
俺は静かに言った。
鐘は時間の支配の象徴。
時刻を告げ、人の生活を区切るためのもの。
だが今は、時間を区切るのではなく――
時間の死骸が、意味を忘れて呻いているだけ。
それが鐘の音の正体だった。
◆
時計塔の麓へ着く。
扉は開いている。
中から誰かが出ようとした気配はない。
誰かが入ろうと拒んだ痕もない。
自然な解放。
ある意味で最も不自然。
中に入ると、階段があった。
腐っていない。
崩れていない。
2000年経っていながら、誰かが毎日手入れしていたような質感。
でも、誰もいない。
“存在しない手”が手入れしていたとしか思えない。
◆
階段を登りながら、思考が冷たく澄んでいく。
この世界は、終わりたがっている。
だが完全に消えたくない。
そんな矛盾の上に、塔は建っている。
上へ行くほど、鐘の音は強くなる。
金属音ではなく、思念の振動のように胸に響いてくる。
灯の影が揺れる。
俺の足取りも重くなっていく――でも止まらない。
◆
最上階。
鐘楼に出た瞬間、音が止まった。
完全な静寂。
空気が固まる。
世界が息を止める。
鐘は巨大で、黒く光っていた。
振り子もなく、槌もない。
なのに、ここまでずっと鳴っていた。
そして――
鐘の下の石盤に、刻まれていた。
日付と、時刻と、その横の一本線。
森で灯が見せた“終わりの石板”と同じ構造。
いや、もっと正確に言うなら――
あれは石板ではなく、この街全体が“石板であり記録”だった。
◆
2000年前。
街の住人は生きていた。
人類の生活は続いていた。
しかし彼らは、ある日こう決めた。
「ここで、時間に区切りをつけよう」
そして街の時計塔に“最後の線”を刻んだ。
その瞬間――
街は時間の流れから切り離された。
生も死も、老いも成長も、繁栄も衰退もない。
ただ、“最後の姿のまま残り続けた”。
だから死体がない。
だから物が散乱していない。
だから争いの痕跡がない。
ここにいる全員は――
死ななかったのではなく、死ねなかった。
そして、生きることもできなかった。
◆
灯が鐘の下に立った。
影の指が、石盤に伸びる。
そこで俺は無言で止めた。
触れてはいけない。
触れたら絶対に戻れない。
世界がどう変わろうと、俺は森へ帰る。
森という帰る場所を確かなものにするために来た。
ここで世界の死骸に飲まれるわけにはいかない。
灯は、影をそっと下ろした。
理解している。
◆
俺は鐘の前に立ち、声を出さずに心の中で尋ねた。
「俺を呼んだのは、お前か?」
鐘は応えない。
応えられない。
石に刻まれた数字は、最後の日付で止まっている。
もう、誰も先に進めない。
進む権利すら奪われた世界。
そして俺は、静かに確信する。
この世界は俺に救いを求めていない。
ただ、“意味を押し付けようとしている」。
最後の日付で止まったまま、
「死なず、生きず、ただ存在し続ける」という矛盾。
それを肯定してほしいのだ、この世界は。
◆
「――断る」
低く、短く、冷たく。
鐘は鳴らない。
世界は音ひとつ立てない。
それでも、響いた。
俺が進む未来は、
この死んだ時間の延長ではない。
俺の進む未来は、
血が流れ、息があり、焚き火が燃え、
帰る場所と歩く場所が分かれた世界だ。
ここではない。
◆
灯が隣に立った。
影が俺の手の近くまで伸びる。
言葉はない。
だが、ひとつだけはっきりと伝わる。
「帰ろうか」
ここは見るだけでよかった。
触れる必要はない。
森へ帰り、仲間の輪の中へ戻り、
次の遺跡へ進む準備をすればいい。
森があって、焚き火があって、仲間がいるという前提で――
外の世界を見ていけばいい。
◆
来た道を戻る。
階段は変わらず整っている。
扉は開いたまま。
街は沈黙したまま。
だが、何かだけが違う。
街が俺を見ているのではなく――
俺が街を見ている。
立場が完全に逆転した。
この世界は俺を必要としない。
俺もこの世界を必要としない。
それが互いに理解された。
だから、帰っていい。
◆
街門を抜けたとき、風が吹いた。
旗が揺れ、布の端が少しだけ破れて飛ぶ。
初めて変化が起きた。
時間の止まった街が、わずかな変化を許した。
それは敗北ではなく――“認識の確立”だった。
「これはこの街の終わりであり、俺の始まりじゃない」
世界はそれを受け入れた。
◆
灯と歩きながら、俺は森の方向へ向かった。
疲労はない。
だが、心が少しだけ重くなっている。
重さは悪いものではない。
「理解した」という重さだ。
外の世界は、“無意味のまま終わりたい”。
その欲望が文明を2000年遺体として残した。
俺はそれに与しない。
俺の未来は“続くことを望む未来”だ。
◆
遠くに森の大樹の影が見える。
焚き火の赤い光。
仲間の気配。
狼の睨み。
ああ――帰った。
街を拒絶したのではなく、
街に飲まれなかった。
だから、胸の奥に小さな温かさが灯ったまま残っていた。
その悪魔が願う未来は、
森の中心で、また深く形を変えていく。




