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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第38話「夜明け前、森を出る」

 空の色が、少しだけ薄くなっていた。


 夜が完全に終わったわけじゃない。

 星も一部は残っているし、森の闇もまだ深い。

 でも――終わりが近いことだけは分かる。


 焚き火の炎が、いつもより低く、丸く燃えていた。


 燃え尽きそうなのではない。

 むしろ、ここから燃え方を変えようとしているような、そんな落ち着いた火。


 灯は俺の隣に座ったまま。

 狼は灯の膝に頭を預けたまま眠っている。

 仲間たちは、それぞれの定位置にいる。


 森は、ただ静かに見守っていた。



「そろそろだな」


 最初に声を出したのはバロウだった。


 笑っているようで、笑っていない声。

 茶化せそうなのに、あえて茶化さない距離感。


「夜が?」


 俺が返すと、バロウは首を振った。


「夜もそうだが、お前の“ここに居座るだけの時間”もだ」


 言葉は少しだけ刺さる。

 けれど痛くはない。


 事実を淡々と言っただけだ。



 エリスが焚き火に一欠片の薪を足した。


 火がゆっくりと形を変える。


「出て行くとか、置いて行かれるとか、そういう感じじゃないんだよね」


 エリスは火を見ながら言う。


「ここを“帰る場所に決めるために”、一回外を見る。

 ただそれだけなんだって、わたしには分かるよ」


「終わりを見に行って、“まだ続く方がいい”って自分で選ぶためだ」

 カインが補足する。


「あるいは、“終わりも悪くない”って納得するためかもな」

 リュミエルが肩を竦める。


「どっちにしても、見ないでいるのは性に合わないでしょ? アルス」


 そう言われて、俺は自分で苦笑した。


「……そうだな」



 名前を呼ばれても、もう何も揺れない。


 さっきまで胸の奥で軋んでいた“アルス”という音の違和感は、

 いつの間にか森へ溶けていた。


 外の世界が、空白を埋めるためだけに借りた名前。

 俺の過去を表示するためのラベル。


 それを、俺はもう気にしていない。


 今の俺はアルスであって、アルスでなくてもいい。

 森の核であっても、ひとりの男であってもいい。


 だからこそ――外へ出ていい。



 焚き火の火が、俺に向かって揺れた。


 それは黙って頷くようにも見えた。


「行って、戻ってきて、

 それからまた焚き火を囲めばいいだけだろう」


 俺が言うと、リュミエルが笑った。


「そうそう。その繰り返しで、永遠なんてすぐよ」


「普通は永遠を“伸ばそう”とするもんだが」

 カインが肩を竦める。

「お前の場合、“深くしよう”としているだけだな」


「悪くないやり方だ」

 バロウは口の端を上げる。

「浅くて広い永遠より、狭くて深い永遠のほうが性に合ってる」


「うん、それは本当にそう」

 エリスが素直に頷いた。

「だから、“一度外を見にいく”っていう深さの追加は、わたしは賛成だよ」



 灯が、俺の横で立ち上がった。


 影の輪郭は少しだけ整っている。

 肩の線、背筋、足の長さ――

 人の形に近づきながら、それでも人ではない。


 顔にはまだ何もない。

 ただ炎の反射だけが、目のように見える位置に集まっている。


 灯は何も言わない。

 それでも分かる。


 「一緒に行く」


 それは問いかけではない。

 許可を求めていない。

 ただの宣言だ。


「もちろんだ」


 俺は立ち上がりながら答えた。


「お前は俺の“外を見る目”だ。

 森の外で迷わないためにいる」


 灯の影が、かすかに揺れた。

 それは、笑ったときの反応に似ている。



 狼も起きた。


 ゆっくりとあくびをして、身体を伸ばし、

 尻尾を揺らしながら俺たちのそばに来る。


 狼は森の象徴でもあり、俺の番でもある。

 境界を守り、侵入者を拒み、帰る場所を示す存在。


 その狼が、森の入り口まで送る気でいるのが分かった。


「ついてくる気か?」


 俺が問うと、狼は短く一声だけ鳴いた。


 否定でも肯定でもない。

 ただ、「そばにはいる」という意味だけを含んだ音。



 焚き火から少し離れた場所に、一本の大きな木があった。


 森の中でもっとも太く、もっとも高く、もっとも根深い木。


 枝は他の木々の上を越え、

 根は大地の深く深くに潜っている。


 森の入り口は、その木のすぐ向こう側にある。

 境界は目に見えないが、あの木を越えれば森ではなくなる。


 俺はそこへ向かう。


 一歩、また一歩。


 足が重いわけでも、怖いわけでもない。


 ただ、離れたくないと思うほどには、ここが気に入っている。



 途中で、振り返る。


 焚き火が見える。

 仲間が見える。

 灯が俺の隣にいる。

 狼が歩いている。


 そして、その全部を包むように、森が広がっている。


 何度見ても、美しい。


 人類の文明がどれほど高度になろうと、

 神々がどれほど精巧な世界を用意しようと、

 この単純さと、濃さには敵わないだろう。


 ここが、俺の選んだ世界だ。


 そのことを確認してから、前を向いた。



 大樹の根元に、小さな段差がある。


 根と土が作った、自然の縁。

 そこを境に、空気の手触りが変わる。


 森の内側はあたたかく、甘く、濃い。

 外側は冷たく、乾いていて、薄い。


 境界線は、目には見えないが肌に刺さる。


 ここを越えれば、もう森じゃない。


 それでも――戻れる。


 それが、今の俺の在り方だ。



「じゃあ、行ってくる」


 誰に向けて言ったのか、自分でも分からない。


 焚き火か、仲間たちか、森か、灯か、自分自身か。


 言葉は空気に溶けたが、

 世界のどこかでちゃんと受け止められた気がした。


 リュミエルがひらひらと手を振る。


「いってらっしゃい。

 変なもの連れてこないでね」


「外の世界が“変なもの”そのものだろう」

 カインが苦笑する。


「まあ、変なの一体二体増えたところで、ここは今さら変わらん」

 バロウは肩をすくめる。


「ちゃんと戻ってきなよ」

 エリスはそれだけ言った。

 声の色は軽く、その奥に何重にも“信頼”が折り重なっていた。



 俺は境界線に足をかけた。


 右足を上げ、根の段差を越え、

 外側の土へと下ろす。


 空気が変わる。


 一瞬だけ、森の音が遠くなる。


 風の匂いも、地面の感触も違う。

 重力ですら異なる世界のように。


 灯も、俺と同じように境界を跨いだ。

 狼は大樹の根元まで来て、それ以上は出ない。


 そこが狼の役目の限界なのだろう。


 戻るときは、ここまで迎えに来る。

 そんな意思だけが、はっきりと伝わった。



 完全に足を下ろすと、世界が少しだけ揺れた。


 森が俺を手放した感覚。

 でも、繋がりは切れていない。


 背中のあたりに、細い糸が一本。

 森と俺を結ぶ線。


 その糸は脆くない。

 引っ張られても、切られようとしても、決して断たれない種類の繋がり。


 「帰れる」という確信が形になったものだ。


 それがあるから、前に進める。



 振り返らないまま、まっすぐ歩き出した。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 距離にすればたいしたことはない。

 だが、この数歩は、俺のこれまでの旅路の中でいちばん“軽い”。


 勇者パーティの一員だった頃の歩みは、常に重かった。

 何かを背負い、何かを捨て、何かを失いながら進んでいた。


 今は違う。


 何も捨てずに一歩を踏める。


 それだけで、外の世界は前よりも少しだけマシに見えた。



 森の外は――やはり中世の世界だった。


 石造りの道。

 低い丘。

 遠くに見える城壁の影。

 ところどころに残る、畑の区画跡。


 だが、音がない。


 動物の気配も、風に揺れる人の声も、

 鍛冶の音も、車輪の軋みも、祈りの歌もない。


 あるのは、遠くで崩壊したまま止まった建物の輪郭と、

 どこまでも広がる空白だけ。


 それでも――

 森よりも、少しだけ世界は広く見えた。


 広さが価値とは限らない。

 だが、視界が開ける感覚は嫌いではなかった。



 灯が隣を歩く。


 影の足は地面に沈まず、

 それでも確かに跡を残していた。


 灯は、森から外へ出ても揺らがない。

 それが、この存在の強さだ。


「……案内は頼んだぞ」


 俺が言うと、灯は焚き火の炎のようにゆらりと揺れた。


 外の世界は広い。

 2000年という時間をかけて形を失った世界は、

 どこに何が残っているか分からない。


 だが少なくとも――灯は一度、その一部を見ている。


 円形の床。

 時間を刻んだ石板。

 最後の線。


 そこから辿れるものが必ずある。



 空は、じわじわと明るくなってきた。


 夜と朝の境目。

 白でも黒でもない、濁った灰色。


 終わりと始まりが混ざる色。


 世界の終わりを見に行くには、ちょうどいい。


 この時間帯は、どちらにも偏らない。

 終末の残骸にも、まだ日が差す前。

 新しい始まりを語るには、まだ早い刻。


 俺はこの色が嫌いじゃない。


「行こうか」


 誰にともなく言った。


 灯は隣にいる。

 森は背中にある。

 狼は境界で待っている。

 仲間たちは焚き火のそばにいる。


 全部分かったうえで、

 前だけを見る。



 足元の土が、わずかに鳴った。


 湿ってもいなければ、乾ききってもいない。

 ただ、長い時間誰にも踏まれていなかった地面が、

 久しぶりに「誰かの体重」を受け止めた音。


 遠くのどこかで、何かが反応した。


 外の世界の残骸。

 時間の死骸。

 終わった文明の癖。


 それらが、俺の歩みを感知する。


 だが、世界は叫ばない。

 祈らない。

 怒りもしない。


 ただ、静かにこちらを見る。


 まるで――

 2000年待っていた“何か”が、

 ようやく「それらしい影」を見つけたかのように。



「勝手に期待するなよ」


 誰もいない地平線に向かって呟く。


「俺はお前らを救いに来たわけじゃない。

 お前らの“終わりの意味”を、俺のために見に来ただけだ」


 声は風にさらわれて、消えた。


 だが、その言葉だけは、

 世界の器のどこかに刻まれた気がする。



 背後にある森の気配は、少しずつ遠のいていく。


 それでも糸は切れない。

 繋がりは細くなっていくのに、強度だけは増している。


 不思議なものだ。


 離れるほど、帰る場所は“確かになる”。


 決定的な事実として。


 それを確かめるために、

 俺はわざわざ外の世界へ出たのかもしれない。



 その悪魔が願う未来は――

 森という器の中だけのものではない。


 森を出た足で歩く世界もまた、

 その未来の一部になる。


 俺は、ようやくそれを認め始めていた。


 森は終わらない。

 森は壊れない。

 森は“帰る場所”として存続する。


 その前提さえ守られるなら――

 外に新しい繋がりを作ってもいい。


 そう思える程度には、俺はもう変わっていた。



 夜と朝の境目を歩く。


 灯が隣で淡く揺れる。

 遠くに、崩れた城壁。

 近くに、ひび割れた道。


 生者の匂いはない。

 だが、完全な死の匂いもしない。


 世界は“止まったまま生暖かく残っている”。


 俺は、その中を歩いていく。


 森編の終わりへ。

 新しい世界編の始まりへ。


 


 そして、その悪魔が願う未来は、

 静かな夜明けとともに、

 次の段階へと動き出した。

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