第38話「夜明け前、森を出る」
空の色が、少しだけ薄くなっていた。
夜が完全に終わったわけじゃない。
星も一部は残っているし、森の闇もまだ深い。
でも――終わりが近いことだけは分かる。
焚き火の炎が、いつもより低く、丸く燃えていた。
燃え尽きそうなのではない。
むしろ、ここから燃え方を変えようとしているような、そんな落ち着いた火。
灯は俺の隣に座ったまま。
狼は灯の膝に頭を預けたまま眠っている。
仲間たちは、それぞれの定位置にいる。
森は、ただ静かに見守っていた。
◆
「そろそろだな」
最初に声を出したのはバロウだった。
笑っているようで、笑っていない声。
茶化せそうなのに、あえて茶化さない距離感。
「夜が?」
俺が返すと、バロウは首を振った。
「夜もそうだが、お前の“ここに居座るだけの時間”もだ」
言葉は少しだけ刺さる。
けれど痛くはない。
事実を淡々と言っただけだ。
◆
エリスが焚き火に一欠片の薪を足した。
火がゆっくりと形を変える。
「出て行くとか、置いて行かれるとか、そういう感じじゃないんだよね」
エリスは火を見ながら言う。
「ここを“帰る場所に決めるために”、一回外を見る。
ただそれだけなんだって、わたしには分かるよ」
「終わりを見に行って、“まだ続く方がいい”って自分で選ぶためだ」
カインが補足する。
「あるいは、“終わりも悪くない”って納得するためかもな」
リュミエルが肩を竦める。
「どっちにしても、見ないでいるのは性に合わないでしょ? アルス」
そう言われて、俺は自分で苦笑した。
「……そうだな」
◆
名前を呼ばれても、もう何も揺れない。
さっきまで胸の奥で軋んでいた“アルス”という音の違和感は、
いつの間にか森へ溶けていた。
外の世界が、空白を埋めるためだけに借りた名前。
俺の過去を表示するためのラベル。
それを、俺はもう気にしていない。
今の俺はアルスであって、アルスでなくてもいい。
森の核であっても、ひとりの男であってもいい。
だからこそ――外へ出ていい。
◆
焚き火の火が、俺に向かって揺れた。
それは黙って頷くようにも見えた。
「行って、戻ってきて、
それからまた焚き火を囲めばいいだけだろう」
俺が言うと、リュミエルが笑った。
「そうそう。その繰り返しで、永遠なんてすぐよ」
「普通は永遠を“伸ばそう”とするもんだが」
カインが肩を竦める。
「お前の場合、“深くしよう”としているだけだな」
「悪くないやり方だ」
バロウは口の端を上げる。
「浅くて広い永遠より、狭くて深い永遠のほうが性に合ってる」
「うん、それは本当にそう」
エリスが素直に頷いた。
「だから、“一度外を見にいく”っていう深さの追加は、わたしは賛成だよ」
◆
灯が、俺の横で立ち上がった。
影の輪郭は少しだけ整っている。
肩の線、背筋、足の長さ――
人の形に近づきながら、それでも人ではない。
顔にはまだ何もない。
ただ炎の反射だけが、目のように見える位置に集まっている。
灯は何も言わない。
それでも分かる。
「一緒に行く」
それは問いかけではない。
許可を求めていない。
ただの宣言だ。
「もちろんだ」
俺は立ち上がりながら答えた。
「お前は俺の“外を見る目”だ。
森の外で迷わないためにいる」
灯の影が、かすかに揺れた。
それは、笑ったときの反応に似ている。
◆
狼も起きた。
ゆっくりとあくびをして、身体を伸ばし、
尻尾を揺らしながら俺たちのそばに来る。
狼は森の象徴でもあり、俺の番でもある。
境界を守り、侵入者を拒み、帰る場所を示す存在。
その狼が、森の入り口まで送る気でいるのが分かった。
「ついてくる気か?」
俺が問うと、狼は短く一声だけ鳴いた。
否定でも肯定でもない。
ただ、「そばにはいる」という意味だけを含んだ音。
◆
焚き火から少し離れた場所に、一本の大きな木があった。
森の中でもっとも太く、もっとも高く、もっとも根深い木。
枝は他の木々の上を越え、
根は大地の深く深くに潜っている。
森の入り口は、その木のすぐ向こう側にある。
境界は目に見えないが、あの木を越えれば森ではなくなる。
俺はそこへ向かう。
一歩、また一歩。
足が重いわけでも、怖いわけでもない。
ただ、離れたくないと思うほどには、ここが気に入っている。
◆
途中で、振り返る。
焚き火が見える。
仲間が見える。
灯が俺の隣にいる。
狼が歩いている。
そして、その全部を包むように、森が広がっている。
何度見ても、美しい。
人類の文明がどれほど高度になろうと、
神々がどれほど精巧な世界を用意しようと、
この単純さと、濃さには敵わないだろう。
ここが、俺の選んだ世界だ。
そのことを確認してから、前を向いた。
◆
大樹の根元に、小さな段差がある。
根と土が作った、自然の縁。
そこを境に、空気の手触りが変わる。
森の内側はあたたかく、甘く、濃い。
外側は冷たく、乾いていて、薄い。
境界線は、目には見えないが肌に刺さる。
ここを越えれば、もう森じゃない。
それでも――戻れる。
それが、今の俺の在り方だ。
◆
「じゃあ、行ってくる」
誰に向けて言ったのか、自分でも分からない。
焚き火か、仲間たちか、森か、灯か、自分自身か。
言葉は空気に溶けたが、
世界のどこかでちゃんと受け止められた気がした。
リュミエルがひらひらと手を振る。
「いってらっしゃい。
変なもの連れてこないでね」
「外の世界が“変なもの”そのものだろう」
カインが苦笑する。
「まあ、変なの一体二体増えたところで、ここは今さら変わらん」
バロウは肩をすくめる。
「ちゃんと戻ってきなよ」
エリスはそれだけ言った。
声の色は軽く、その奥に何重にも“信頼”が折り重なっていた。
◆
俺は境界線に足をかけた。
右足を上げ、根の段差を越え、
外側の土へと下ろす。
空気が変わる。
一瞬だけ、森の音が遠くなる。
風の匂いも、地面の感触も違う。
重力ですら異なる世界のように。
灯も、俺と同じように境界を跨いだ。
狼は大樹の根元まで来て、それ以上は出ない。
そこが狼の役目の限界なのだろう。
戻るときは、ここまで迎えに来る。
そんな意思だけが、はっきりと伝わった。
◆
完全に足を下ろすと、世界が少しだけ揺れた。
森が俺を手放した感覚。
でも、繋がりは切れていない。
背中のあたりに、細い糸が一本。
森と俺を結ぶ線。
その糸は脆くない。
引っ張られても、切られようとしても、決して断たれない種類の繋がり。
「帰れる」という確信が形になったものだ。
それがあるから、前に進める。
◆
振り返らないまま、まっすぐ歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
距離にすればたいしたことはない。
だが、この数歩は、俺のこれまでの旅路の中でいちばん“軽い”。
勇者パーティの一員だった頃の歩みは、常に重かった。
何かを背負い、何かを捨て、何かを失いながら進んでいた。
今は違う。
何も捨てずに一歩を踏める。
それだけで、外の世界は前よりも少しだけマシに見えた。
◆
森の外は――やはり中世の世界だった。
石造りの道。
低い丘。
遠くに見える城壁の影。
ところどころに残る、畑の区画跡。
だが、音がない。
動物の気配も、風に揺れる人の声も、
鍛冶の音も、車輪の軋みも、祈りの歌もない。
あるのは、遠くで崩壊したまま止まった建物の輪郭と、
どこまでも広がる空白だけ。
それでも――
森よりも、少しだけ世界は広く見えた。
広さが価値とは限らない。
だが、視界が開ける感覚は嫌いではなかった。
◆
灯が隣を歩く。
影の足は地面に沈まず、
それでも確かに跡を残していた。
灯は、森から外へ出ても揺らがない。
それが、この存在の強さだ。
「……案内は頼んだぞ」
俺が言うと、灯は焚き火の炎のようにゆらりと揺れた。
外の世界は広い。
2000年という時間をかけて形を失った世界は、
どこに何が残っているか分からない。
だが少なくとも――灯は一度、その一部を見ている。
円形の床。
時間を刻んだ石板。
最後の線。
そこから辿れるものが必ずある。
◆
空は、じわじわと明るくなってきた。
夜と朝の境目。
白でも黒でもない、濁った灰色。
終わりと始まりが混ざる色。
世界の終わりを見に行くには、ちょうどいい。
この時間帯は、どちらにも偏らない。
終末の残骸にも、まだ日が差す前。
新しい始まりを語るには、まだ早い刻。
俺はこの色が嫌いじゃない。
「行こうか」
誰にともなく言った。
灯は隣にいる。
森は背中にある。
狼は境界で待っている。
仲間たちは焚き火のそばにいる。
全部分かったうえで、
前だけを見る。
◆
足元の土が、わずかに鳴った。
湿ってもいなければ、乾ききってもいない。
ただ、長い時間誰にも踏まれていなかった地面が、
久しぶりに「誰かの体重」を受け止めた音。
遠くのどこかで、何かが反応した。
外の世界の残骸。
時間の死骸。
終わった文明の癖。
それらが、俺の歩みを感知する。
だが、世界は叫ばない。
祈らない。
怒りもしない。
ただ、静かにこちらを見る。
まるで――
2000年待っていた“何か”が、
ようやく「それらしい影」を見つけたかのように。
◆
「勝手に期待するなよ」
誰もいない地平線に向かって呟く。
「俺はお前らを救いに来たわけじゃない。
お前らの“終わりの意味”を、俺のために見に来ただけだ」
声は風にさらわれて、消えた。
だが、その言葉だけは、
世界の器のどこかに刻まれた気がする。
◆
背後にある森の気配は、少しずつ遠のいていく。
それでも糸は切れない。
繋がりは細くなっていくのに、強度だけは増している。
不思議なものだ。
離れるほど、帰る場所は“確かになる”。
決定的な事実として。
それを確かめるために、
俺はわざわざ外の世界へ出たのかもしれない。
◆
その悪魔が願う未来は――
森という器の中だけのものではない。
森を出た足で歩く世界もまた、
その未来の一部になる。
俺は、ようやくそれを認め始めていた。
森は終わらない。
森は壊れない。
森は“帰る場所”として存続する。
その前提さえ守られるなら――
外に新しい繋がりを作ってもいい。
そう思える程度には、俺はもう変わっていた。
◆
夜と朝の境目を歩く。
灯が隣で淡く揺れる。
遠くに、崩れた城壁。
近くに、ひび割れた道。
生者の匂いはない。
だが、完全な死の匂いもしない。
世界は“止まったまま生暖かく残っている”。
俺は、その中を歩いていく。
森編の終わりへ。
新しい世界編の始まりへ。
そして、その悪魔が願う未来は、
静かな夜明けとともに、
次の段階へと動き出した。




