第35話「灯が戻り、焚き火は揺れた」
焚き火の音は、小さかった。
小さいと言っても火が弱っているわけではない。
ただ、音を立てる必要がなかった。
夜は深く、
森は安定し、
仲間たちは穏やかに笑っていた。
その中心に――俺がいた。
◆
灯は無言で帰ってきた。
足音はなかった。
気配も揺れなかった。
森が道を開き、灯を迎え入れた。
ただ一歩、焚き火のそばまで歩く。
それだけで十分だった。
俺は視線を灯に向けた。
灯は俺を見る。
言葉もない。
合図もいらない。
“帰ってきた”
それだけが、すでに共有されていた。
◆
「どうだった?」
と俺は聞かない。
「どんな場所だった?」
とも聞かない。
それは**質問ではなく“奪う行為”**だからだ。
俺が言葉で灯の経験を縛ってしまえば、
灯が見たものは灯のものではなくなってしまう。
だから俺は言わない。
灯も、言わない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
灯の影が焚き火に近づいた瞬間――
炎がわずかに揺れた。
◆
仲間たちの反応は、それぞれ違った。
リュミエルは、静かに目を閉じて笑った。
内容を理解したというより――帰還という事実そのものを味わっているような表情。
カインは顎に手を当て、淡々と観察していた。
灯の纏う気配の変化を正確に測り取っているのだろう。
エリスはそっと灯に触れる仕草をした。
触れたわけではない。
ただ**「触れてもいいと思える距離」**を示した。
バロウは、焚き火越しに小さく頷いた。
“よく帰った”でもなく、“ご苦労”でもない。
仲間として当然の受け入れ。
それでいい。
それ以上はいらない。
◆
灯が火のそばに腰を下ろす。
影の形は相変わらず曖昧だが、
火に照らされる輪郭は、以前より少し“重さ”を帯びていた。
外の世界で見たものが、灯の中に定着している。
でもそれは、灯を傷つけても、歪めてもいない。
ただ――灯は一歩深くなった。
それが分かる。
◆
俺は、意図せず息を吐いた。
それは安堵ではない。
緊張の緩和でもない。
ただ、呼吸という行為を思い出しただけ。
どれくらいぶりだろうか。
焚き火を囲む時間が長すぎて、息をする必要を忘れていた。
けれど、灯が帰ってきた瞬間――
俺の中の何かが、無意識に呼吸をさせた。
それだけで十分だ。
◆
「……炎が、少しだけ強くなったな」
俺が呟くと、仲間たちは表情を浮かべた。
驚きではない。
喜びでもない。
**“気づいたね”**という表情。
焚き火は明るいわけではない。
激しく燃えているわけでもない。
ただ、密度が増した。
炎は、灯が見てきた世界の“断片”を受け止めた。
それを灯が言葉にせずとも、
世界は“理解”している。
◆
それでも、俺は聞かない。
外の世界のことも。
文明のことも。
終わりのことも。
聞けば、答えは返ってくるだろう。
だが――それは今じゃない。
“森に戻った直後は、帰還を祝う時間だ”
誰がそう決めたわけでもない。
だが、この世界はそういう風にできている。
◆
狼が灯の足元に寄り添う。
影の体は実体が曖昧だが、
狼は迷わずそこへ身体を預けた。
灯は腕らしき部分で狼を抱え込む。
言葉は一切ないのに、
世界中のどんな会話よりも濃密な「帰還の描写」だった。
◆
焚き火が、ゆっくりと高くなった。
煙は真っ直ぐ天へ登っていく。
灰色の粒は降らない。
外の世界の“時間の死骸”は、ここには届かない。
森は、灯を受け取り――
外の世界に背を向けた。
それでいい。
今は、それでいい。
◆
俺は小さく呟いた。
「……帰ってきてよかった」
灯が顔の位置を向けた。
表情はない。
でも、意味は伝わる。
「ただいま」
声にはならない。
だが、
“確かにそう言った”。
◆
その瞬間、
森の上空の黒が、ひときわ深くなった。
闇が濃くなったのではない。
“保護の強度”が増したのだ。
外の世界と完全に切り離し、
灯と仲間と焚き火と俺だけを守るように。
世界がこう言っている。
「まだ外と結びつく必要はない。
今は、ここでいい。」
◆
アルスとしての思考が――
ほんの僅かに戻ってきた。
人ではない。
悪魔でもない。
神でもない。
ただ、焚き火を囲む男として。
その感覚は一瞬で、
また森に溶けていった。
それでも――
灯は確かに何かを持ち帰った。
俺が外へ向かう“未来”の予兆を。
まだ語られない。
まだ知らない。
だが確実に、
“外の世界が待っている”。
◆
俺は炎をじっと見つめた。
森は安定している。
幸せだ。
狂気の均衡も崩れない。
だが――
次の季節が、もうすぐ来る。
それを知っているのは、
俺と、灯と、焚き火だけ。
仲間たちも、狼も、森すらも、
まだ知らない。
だが、それでいい。
森の終わりは、静かに始まるのが正しい。
そして今日も――
その悪魔が願う未来は揺らがないまま、
次の夜を迎える。




