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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第35話「灯が戻り、焚き火は揺れた」

 焚き火の音は、小さかった。


 小さいと言っても火が弱っているわけではない。

 ただ、音を立てる必要がなかった。


 夜は深く、

 森は安定し、

 仲間たちは穏やかに笑っていた。


 その中心に――俺がいた。



 灯は無言で帰ってきた。


 足音はなかった。

 気配も揺れなかった。

 森が道を開き、灯を迎え入れた。


 ただ一歩、焚き火のそばまで歩く。


 それだけで十分だった。


 俺は視線を灯に向けた。

 灯は俺を見る。


 言葉もない。

 合図もいらない。


 “帰ってきた”

 それだけが、すでに共有されていた。



「どうだった?」

 と俺は聞かない。


「どんな場所だった?」

 とも聞かない。


 それは**質問ではなく“奪う行為”**だからだ。


 俺が言葉で灯の経験を縛ってしまえば、

 灯が見たものは灯のものではなくなってしまう。


 だから俺は言わない。


 灯も、言わない。


 だが一つだけ、確かなことがあった。


 灯の影が焚き火に近づいた瞬間――


 炎がわずかに揺れた。



 仲間たちの反応は、それぞれ違った。


 リュミエルは、静かに目を閉じて笑った。

 内容を理解したというより――帰還という事実そのものを味わっているような表情。


 カインは顎に手を当て、淡々と観察していた。

 灯の纏う気配の変化を正確に測り取っているのだろう。


 エリスはそっと灯に触れる仕草をした。

 触れたわけではない。

 ただ**「触れてもいいと思える距離」**を示した。


 バロウは、焚き火越しに小さく頷いた。

 “よく帰った”でもなく、“ご苦労”でもない。

 仲間として当然の受け入れ。


 それでいい。

 それ以上はいらない。



 灯が火のそばに腰を下ろす。


 影の形は相変わらず曖昧だが、

 火に照らされる輪郭は、以前より少し“重さ”を帯びていた。


 外の世界で見たものが、灯の中に定着している。

 でもそれは、灯を傷つけても、歪めてもいない。


 ただ――灯は一歩深くなった。


 それが分かる。



 俺は、意図せず息を吐いた。


 それは安堵ではない。

 緊張の緩和でもない。


 ただ、呼吸という行為を思い出しただけ。


 どれくらいぶりだろうか。

 焚き火を囲む時間が長すぎて、息をする必要を忘れていた。


 けれど、灯が帰ってきた瞬間――

 俺の中の何かが、無意識に呼吸をさせた。


 それだけで十分だ。



「……炎が、少しだけ強くなったな」


 俺が呟くと、仲間たちは表情を浮かべた。


 驚きではない。

 喜びでもない。


 **“気づいたね”**という表情。


 焚き火は明るいわけではない。

 激しく燃えているわけでもない。


 ただ、密度が増した。


 炎は、灯が見てきた世界の“断片”を受け止めた。


 それを灯が言葉にせずとも、

 世界は“理解”している。



 それでも、俺は聞かない。


 外の世界のことも。

 文明のことも。

 終わりのことも。


 聞けば、答えは返ってくるだろう。


 だが――それは今じゃない。


“森に戻った直後は、帰還を祝う時間だ”


 誰がそう決めたわけでもない。

 だが、この世界はそういう風にできている。



 狼が灯の足元に寄り添う。


 影の体は実体が曖昧だが、

 狼は迷わずそこへ身体を預けた。


 灯は腕らしき部分で狼を抱え込む。


 言葉は一切ないのに、

 世界中のどんな会話よりも濃密な「帰還の描写」だった。



 焚き火が、ゆっくりと高くなった。


 煙は真っ直ぐ天へ登っていく。


 灰色の粒は降らない。

 外の世界の“時間の死骸”は、ここには届かない。


 森は、灯を受け取り――

 外の世界に背を向けた。


 それでいい。


 今は、それでいい。



 俺は小さく呟いた。


「……帰ってきてよかった」


 灯が顔の位置を向けた。

 表情はない。

 でも、意味は伝わる。


「ただいま」


 声にはならない。

 だが、

 “確かにそう言った”。



 その瞬間、

 森の上空の黒が、ひときわ深くなった。


 闇が濃くなったのではない。

 “保護の強度”が増したのだ。


 外の世界と完全に切り離し、

 灯と仲間と焚き火と俺だけを守るように。


 世界がこう言っている。


「まだ外と結びつく必要はない。

今は、ここでいい。」



 アルスとしての思考が――

 ほんの僅かに戻ってきた。


 人ではない。

 悪魔でもない。

 神でもない。


 ただ、焚き火を囲む男として。


 その感覚は一瞬で、

 また森に溶けていった。


 それでも――


 灯は確かに何かを持ち帰った。

 俺が外へ向かう“未来”の予兆を。


 まだ語られない。

 まだ知らない。


 だが確実に、

 “外の世界が待っている”。



 俺は炎をじっと見つめた。


 森は安定している。

 幸せだ。

 狂気の均衡も崩れない。


 だが――


 次の季節が、もうすぐ来る。


 それを知っているのは、

 俺と、灯と、焚き火だけ。


 仲間たちも、狼も、森すらも、

 まだ知らない。


 だが、それでいい。


 森の終わりは、静かに始まるのが正しい。


 


 そして今日も――

 その悪魔が願う未来は揺らがないまま、

 次の夜を迎える。

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