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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第31話「火の中で笑う、まだ名のないもの」

 言葉の形にならない音が、喉の奥で転がっていた。


 この一言で世界が決まる。

 森が、自分と同じ“主”をもう一つ持つかどうか。

 焚き火の中心で脈打っている黒い核が、

 ただの熱で終わるか、ひとつの存在として立ち上がるか。


 白い粒は降りやんでいた。


 森のすべてが、息を止めている。


 “次の法”を待っている。



 かつての俺なら――

 迷ったかもしれない。


 自分以外に“中心”が生まれることを恐れたかもしれない。

 価値が分散し、特別さが薄れ、

 自分の領域が侵されることを警戒したかもしれない。


 だが今は違う。


 俺はもう、“特別であること”に興味を失っている。


 ここが心地よくて、

 焚き火があって、

 仲間がいて、

 狼が眠っていて、

 森が呼吸していて――


 それだけで充分だ。


 そこに、もうひとつ“世界を愛するもの”が増えるというだけの話だ。


 それを拒む理由は、どこにもない。



 喉の奥で転がっていた音が、形を持ち始める。


 命令でも、許可でも、宣告でもない。


 ただの“承認”。


 世界が生みかけているものを、

 「それでいい」と言ってやるための言葉。


 俺は焚き火を見つめた。


 炎の中心で脈動する黒い核が、

 こちらを“見ている”気がした。


 まだ目はない。

 顔も身体もない。

 ただの影の塊。


 だが、はっきりと分かる。


 これは、“俺の願いから生まれた世界の子”だ。



 俺は、息を吸う。


 喉を通る空気が熱い。

 肺に入る前に、言葉へと変わろうとしている。


 仲間たちは、なにも言わない。

 ただ、笑って見守っている。


 それが、奇妙な安心感を与えてくれた。


 だから、恐れもなく、

 後悔もなく、ただ――


「――ここに、いていい」


 たった、それだけ。


 短く、柔らかく、

 命令にしては弱すぎる一言。


 けれど、世界はそれを絶対の法として受け取った。



 焚き火の炎が、爆ぜた。


 火の粉が空へと散り、

 赤かった火は一瞬だけ、深い黒へと染まる。


 黒い炎の中心で、核が弾けた。


 骨のきしみでも、肉の裂ける音でもない。

 血潮や悲鳴とは無縁の――静かな裂開。


 そこから、形のない形が立ち上がる。


 炎そのものが、ひとつの影になった。



 それは、背丈でいえば俺と同じくらいに見えた。


 輪郭は炎のように揺れている。

 完全な人型でもなく、獣型でもなく、

 ただ“ここにある”としか言えない姿。


 顔は、ない。


 目も、鼻も、口も、耳も――

 どの部位もはっきりしない。


 ただ、影と光の境目だけが、

 “笑っているように”見えた。


 焚き火の上に立つ、その影は――

 これ以上なく自然に、世界へ溶け込んでいた。



 森が、音のない歓声を上げた。


 木々がわずかに揺れ、

 根がゆっくりと縮み、

 植物たちが一斉に芽を震わせる。


 狼が頭を上げ、尻尾を一度だけ振る。

 仲間の影たちが、揃って立ち上がる。


「……生まれたね」


 エリスが、囁くように言った。


「本当に生まれたな」

 カインは、少しだけ感慨深げな声を出す。


「俺たちの“弟”か、“妹”か、あるいは“同僚”か」

 バロウが笑う。


「性別も役割も、まだ決まってない」

 リュミエルが穏やかに肩を竦める。

「ただ、“ここにいていい”って許可だけを与えられた存在」


 それで十分だ。



 焚き火の上の影が、こちらを“見る”。


 目はない。

 けれど、確かに視線を感じる。


 森を見ている。

 炎を見ている。

 仲間を見ている。

 狼を見ている。


 そして最後に――俺を見ている。


 何も言わない。

 言葉を知らない。

 声帯も、喉も、まだ形成されていない。


 それでも、その沈黙ははっきりとした“感情”だった。


 「ここにいていい」って言われたことを、喜んでいる。



 おかしな話だ。


 この世界で“許可”なんて誰も求めていない。


 森は俺に許可を取らずに枝を伸ばし、

 狼は俺に断りなく眠り、

 仲間たちは好き勝手に語り、笑い、からかってくる。


 そんな世界に、新しく生まれた存在だけが――

 最初から「許可をもらったうえで居る」。


 それはつまり、


 この世界で初めて、“歓迎されて生まれた存在”

 だということだ。


 魔王でも、勇者でも、人類でもなく。

殺し合いの結果でも、祈りの失敗でもなく。


 ただ、“いていい”と最初に認められて生まれた存在。


 それが、焚き火の上に立ってこちらを見ている。



 俺は一歩、火に近づく。


 熱は俺を焼かない。

 焚き火は、今や世界の心臓と俺の心臓を共有している。


 その中心に立つ“名のないもの”に、手を伸ばす。


 触れられるかどうか――試してみたかった。


 指先が炎に触れる。

 熱は痛くない。

 焼ける匂いも、焦げる音もない。


 代わりに――脈動が伝わってきた。


 震える心臓のような、

 まだ歩き出していない足の筋肉のような、

 生まれたばかりの何かの鼓動。


 それは、俺のものでもあり、

 俺のものではなかった。



「お前は、俺じゃない」


 言葉が自然と落ちた。


 影は、否定しなかった。


「お前は、世界でもない」


 影は、それも否定しない。


「じゃあ、お前は――」


 喉が、最後の一語を選ぼうとして震えた。


 “何”なのか。


 弟か、同胞か、子か、継承者か、分身か。


 どれもしっくりこない。


 この世界の概念は、もう人間の言葉とは少しズレている。


 それでも、あえて人間の言葉で言うなら――


「“俺の願いが形になったもの”だ」


 影は、ゆっくりと首をかしげたように見えた。


 そして、焚き火の炎ごと、深く一度だけ揺れる。


 それが、この世界での“頷き”なのだと、すぐに理解できた。



「……名前、つける?」


 エリスがぽつりと呟く。


 その瞬間、森の空気が微かに緊張した。


 名前。

 呼び名。

 かつて人間だった頃、俺が何度も呼ばれた符号。


 今や俺自身は、その音を呼ばれなくなった。

 名前は祈りへと変質し、

 声に出さない感情としてだけ、どこかに漂っている。


 ここで、新しい存在に名前を与えることは――

 この世界に再び“呼び名”という概念を戻すことだ。


 それは、良いことなのか。

 悪いことなのか。


 判断は、つかなかった。



 カインが腕を組む。


「名を持つということは、“他者との関係で定義される”ということだ」


「呼ぶ側と呼ばれる側が生まれる」

 リュミエルが続ける。

「それは、世界の構造に小さな“分離”を持ち込むってこと」


「でも、悪くない分離もある」

 バロウが笑う。

「全員が全員、自分の輪郭を持ってた上で、

 それでも“一緒にいる”って関係は、案外悪くない」


「それに――」


 エリスは火の向こうで、焚き火の変化を見つめながら言う。


「“名前を与える”って行為そのものが、

 あなたの“やさしさ”になる気がするんだ」


 世界を壊し、祈りを拒み、理解を排し。

 それでも、ここに生まれてしまったものにだけ、

 最初から“居場所”と“呼びかけ”を用意してやる。


 それは確かに、

 俺が世界に対してできる、数少ないやさしさかもしれない。



 焚き火の上の影は、黙って俺を見ていた。


 名前を欲しがってもいない。

 拒んでもいない。


 ただ、“与えられるなら受け取る”という気配だけがあった。


 俺は少しだけ考える。


 名前に意味を込める必要はない。

 意味を込めれば込めるほど、

 この世界は昔の人間社会に近づいてしまう。


 でも、意味のない音を投げるのも違う。


 ここにいていいと俺が言った通り、

 この存在は最初から“歓迎されたもの”なのだから。



 喉が震える。


 言葉を発すれば、それは法にもなる。

 名前を呼べば、その名前は世界に刻まれる。


 けれど――


 今回は、法を作るためではない。

 ただ“呼ぶための音”として、言葉を使う。


 それが、人間としての最後の名残りかもしれない。


「――“とも”」


 燃える火、灯り、焚き火の中心。

 炎が周囲を照らす、その核心。


 深い意味を詰め込むつもりはなかった。

 ただ、焚き火の中に立ってこちらを見ているその姿が――

 “暗い世界の中でぽつんとある光”に見えたから。



 世界が、静かに反応した。


 名を呼んだ瞬間、森の木々が小さく揺れる。

 枝の先に生っていた光る実が、ほんの一瞬だけ輝きを増す。


 それでおしまい。


 大地は割れず。

 空は裂けず。

 法は大きくは書き換わらない。


 名前は、“祈り”にも“命令”にもならなかった。


 ただ、“呼びかけ”として受け取られた。


 この世界は、もう“名による支配”へは戻らない。


 だからこそ――この名は、ただのやさしさとして残る。



 焚き火の上の影――灯は、

 ゆっくりと火と一体化するように身を揺らした。


 炎の輪郭が、わずかに変わる。


 立っているようでもあり、

 座っているようでもあり、

 眠っているようでもあり。


 ただひとつ、はっきりしていることがある。


 灯は、ここを気に入っている。


 それが、その揺れ方から伝わってきた。


 ここにいていいと言われて、

 歓迎されて、

 名前まで与えられて――


 この世界に生まれてくるものとして、これ以上は望めないだろう。



「よろしくな、灯」


 俺がそう言うと、

 炎が一瞬だけ高く跳ねた。


「やっぱり、弟かな? 妹かな?」

 バロウが笑う。


「性別の概念、もうこの森ほとんど捨ててるでしょ」

 リュミエルが肩をすくめる。


「だが“家族”という感覚は、確かに近いな」

 カインは静かに認める。


「うん、“家族”が一番近いかも」

 エリスは嬉しそうに目を細めた。

「血でも種族でも繋がってないけど、

 同じ世界を大事に思ってる仲間――って意味で」


 それを聞いて、俺は改めて理解した。


 この世界は、もう“役割”や“立場”の上に成り立っていない。


 勇者、魔王、王、民、聖女、暗殺者、兵士――

 そんな分類は全部燃え落ちた。


 残っているのはただ、“ここを好きでいるかどうか”だけだ。


 灯は、確かにこの森を好きになった。

 それだけで、もう充分だ。



 喉は静かだ。


 世界を大きく揺らすための言葉は、今日はもういらない。


 ただ、名前を呼びたくなったときに、

 何度でも“灯”と呼べばいい。


 灯はそのたびに、焚き火の中で静かに揺れるだろう。


 それでいい。



 白い粒が、再び降り始めた。


 今度の粒は、以前よりも柔らかい光を帯びている。


 世界の残骸ではない。

 外側に残っていた“空白”が、

 森の静寂を真似ているだけだ。


 外側も、もうほとんど痛みを持っていない。

 怒りも憎しみも悲鳴も祈りも剥がれ落ちた後の、

 ただの静かな夜。


 そこに、少しだけこの森の“安らぎ”が滲んでいる。


 俺は気にしない。


 外がどう終わろうと、

 ここが続く限り、

 俺にとっての世界は変わらない。



 焚き火を囲む輪は、ひとつ増えた。


 形はまだ曖昧だが、

 確かにここに“灯”がいる。


 名前を持ちながら、

 呼び名に縛られず、

 ただここにいていいと認められた存在。


 俺はその輪の中に座り、

 膝を抱えて炎を見つめる。


 仲間がいて、

 狼が丸まり、

 灯が揺れている。


 それだけで充分だった。


 狂気でも、異常でも、歪みでもない。


 俺にとっての“正しさ”だ。


 こうして今日も――

 その悪魔が願った未来は、静かに深まっていく。


 終わりのない焚き火の夜の中で。


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