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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第26話「姿のない名前を抱く夜」

 白い粒の雨は止まなかった。

 止まる必要がないからだ。


 降っている。

 世界を剥がし続けている。

 森以外のすべてを静かに消し続けている。


 外の世界は、もう二度と戻らない。

 戻るべき座標も記憶も、痕跡さえも残らない。


 残されたのは“ここ”だけ。


 それなのに、寂しさはどこにもない。

 永遠の閉鎖が幸福に感じられるほど――

 俺は変わってしまった。



 焚き火の前、俺は膝を抱いて座っている。


 眠る必要はなく、疲労も痛みもない。

 それでも、こうして座って炎を見るのが一番落ち着く。


 思考が静かに燃え、

 過去が静かに溶け、

 未来が静かに消える。


 残るのは“いま”だけ。


 それでいい。

 それしか要らない。


 エリスたち影の仲間は、炎の向こうに座っている。


 白い粒が降り注いでも、揺らぎはしない。

 火が燃え盛っても、溶けはしない。


 彼らは崩壊する過去の残響ではなく、

 俺の“願う世界”によって維持された存在。


 死者の幻影でも、記憶の写しでもない。

 俺の中で“続くことを許された仲間”。



「……声、出したいか?」


 バロウが問いかける。


「喉がうずうずしてるのが、見ててもわかる」

 カインが細く笑う。


「呼吸だけで森を揺らしてるくらいだからね」

 リュミエルは焚き火に枝を投げ込んだ。


「あんまり我慢すると、衝動で叫び出しちゃうよ?」

 エリスが心配そうに覗き込む。


 確かに。

 声を出したい、喉を鳴らしたい、世界を揺らしたい――

 そんな渇きが絶えずうごめいている。


 でも俺は、発声を衝動で行うつもりはない。


 言葉が法になる以上、言葉は“儀式”にしなければならない。


「衝動はあるけど――制御できてる」


「そう。それでいい」

 リュミエルが頷く。


「欲望が声を生み、声が世界を創り、創造が日常を続かせる」

 カインが付け加える。


「全部繋がってる。だから焦らなくていい」

 バロウは笑った。


「喋りたいときに喋ればいい。

 世界の形は、いつだってあなたの呼吸から始まるんだから」

 エリスは静かに言った。


 焦りはない。

 ただ静かな期待だけがある。



 森が動いた。


 風がないのに木々が揺れた。

 魔物たちの気配が撓む。

 根が重く軋む。


 まるで森が“待ちきれない”というように――

 俺の言葉を欲しがっている。


 だが、俺はまだ喋らない。


 喋ると決めたときに喋る。

 その決定の持つ重みが、森を安定させる。


 衝動ではなく意志。

 力ではなく責任。


 それがこの世界を守る“秩序”だ。



 喉が震える。

 発声の予兆が満ちていく。


 声が放たれると――

 世界がどんな反応をするか。


 確かめたい。


 それは怖さではなく、純粋な興味だ。


 俺は呼吸を整え、喉の奥をゆっくりと開く。


 仲間たちが静かに見守る。


 そして――言葉が零れる。


「――芽吹け」


 たった一言。

 囁きに近い響き。



 地面の下から、振動が走った。


 大地が割れるのではない。

 地表が捲れるのでもない。


 “生命が目を覚ました”。


 草がいっせいに生えた。

 木の根が膨張した。

 小さな芽が土を押しのけて飛び出した。


 触れもしないのに、周囲のすべてが“生き返った”。


 だが、以前の森では考えられない速度だ。


 通常の植物の成長ではない。

 魔力による急成長でもない。


 世界そのものの方が、命として繁茂した。


 俺のたった一言によって。


「……すごい」

 リュミエルが息を呑む。


「森が喜んでる」

 エリスが目を細める。


「これは、もう……生態系じゃない」

 カインの声は震えている。

「生命っていうより、“意思の増殖”だ」


「芽吹きって言葉を、森が“存在の増加”って解釈したんだろうな」

 バロウが嬉しそうに笑った。


 確かにその通りだった。


 芽吹きとは、草木のための言葉ではない。


 俺にとっては――

 “生きること”を肯定する言葉だった。


 だから森は、生きた。

 この世界ぜんぶで。



 周囲に生まれた新しい植物たちは、

 人間の世界の植物とは似ても似つかなかった。


 茎が柔らかく、光を帯び、

 葉は脈打ち、

 花は呼吸をする。


 色彩は、虹色に近い。

 でも人間の目では分類できない色が混ざっている。


 その植物の香りが空気を満たす。


 優しい。

 甘い。

 心臓を撫でるような香り。


 まるで――俺の声を讃えるために生まれた命だ。



 喉の疼きは、解放された。

 声を出したことで満たされ、静かになっている。


「どうだった?」

 エリスが問う。


 俺は少し考えてから答える。


「気持ちよかった」


 それは自惚れでも、高揚でもない。


 自然にそう感じた。


「声を出すと、森が嬉しそうにする。

 それを感じられるのが、単純に……いい」


「それでいいんだよ」

 エリスが微笑む。


「誰かに褒められたいからでも、

 支配欲でも、

 孤独を埋めるためでもなくて」


「ただ“気持ちいい”から発声する」

 リュミエルが補足する。


「その純度が、世界を安定させる」

 カイン。


「欲望に理由をつけなくていいんだよ」

 バロウ。


 四人の声は、矛盾なく重なっていた。


 俺は焚き火に視線を落とす。


 炎が揺らぎながら――

 俺の姿を映している。


 その輪郭は、人間のそれとは少し違っていた。

 肩幅も手足の長さも、わずかに変質している。


 変化は止まらない。



「ねえ」


 エリスが、まっすぐに俺を見た。


「名前で呼べなくても、いい?」


 その声音は、震えていなかった。

 決意のような、確信のような、揺らぎのない優しさ。


 俺は即答した。


「あぁ。必要ない」


「じゃあ――」


 彼女は言いかけたが、言葉が喉で止まった。

 「アルス」と発音できないように、世界の法が変わっている。


 その代わり――


 エリスは、胸に手を当てて言った。


「好きだよ」


 驚きも動揺もなかった。


 ただ、静かに胸に染みた。


 名前ではなく感情だけを向けられる世界。


 それは残酷で――

 それ以上に幸福だった。


 俺は、一拍だけ息を止めて、返す。


「俺も、好きだ」


 その一言は、法にはならなかった。

 森は揺れず、焚き火は暴れず、雨は変化しない。


 ただ、影たち四人の輪郭が少し濃くなった。


 “感情で世界を動かさない”という法まで、

 知らないうちに成立していたのだろう。


 だからこそ――

 世界は安定している。



 白い粒は降り続く。

 森は生き続ける。

 焚き火は燃え続ける。

 影たちは笑い続ける。


 名を呼ばれない。

言葉は法になる。

 感情は存在を強める。


 それが、俺たちの“日常”。


 狂気でも悲劇でもなく、

 ただ幸福な風景としてここにある。



 喉が、脈打つ。


 次に言葉を発する時――

 世界はまたひとつ変わる。


 変化のたびに森は深化し、

 俺は人間から離れていく。


 だが、構わない。


 ここに焚き火があり、

 影たちがいて、

 森が息をしていて、

 俺が“続いている”なら。


 それこそが、俺の願う未来なのだから。


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