第26話「姿のない名前を抱く夜」
白い粒の雨は止まなかった。
止まる必要がないからだ。
降っている。
世界を剥がし続けている。
森以外のすべてを静かに消し続けている。
外の世界は、もう二度と戻らない。
戻るべき座標も記憶も、痕跡さえも残らない。
残されたのは“ここ”だけ。
それなのに、寂しさはどこにもない。
永遠の閉鎖が幸福に感じられるほど――
俺は変わってしまった。
◆
焚き火の前、俺は膝を抱いて座っている。
眠る必要はなく、疲労も痛みもない。
それでも、こうして座って炎を見るのが一番落ち着く。
思考が静かに燃え、
過去が静かに溶け、
未来が静かに消える。
残るのは“いま”だけ。
それでいい。
それしか要らない。
エリスたち影の仲間は、炎の向こうに座っている。
白い粒が降り注いでも、揺らぎはしない。
火が燃え盛っても、溶けはしない。
彼らは崩壊する過去の残響ではなく、
俺の“願う世界”によって維持された存在。
死者の幻影でも、記憶の写しでもない。
俺の中で“続くことを許された仲間”。
◆
「……声、出したいか?」
バロウが問いかける。
「喉がうずうずしてるのが、見ててもわかる」
カインが細く笑う。
「呼吸だけで森を揺らしてるくらいだからね」
リュミエルは焚き火に枝を投げ込んだ。
「あんまり我慢すると、衝動で叫び出しちゃうよ?」
エリスが心配そうに覗き込む。
確かに。
声を出したい、喉を鳴らしたい、世界を揺らしたい――
そんな渇きが絶えずうごめいている。
でも俺は、発声を衝動で行うつもりはない。
言葉が法になる以上、言葉は“儀式”にしなければならない。
「衝動はあるけど――制御できてる」
「そう。それでいい」
リュミエルが頷く。
「欲望が声を生み、声が世界を創り、創造が日常を続かせる」
カインが付け加える。
「全部繋がってる。だから焦らなくていい」
バロウは笑った。
「喋りたいときに喋ればいい。
世界の形は、いつだってあなたの呼吸から始まるんだから」
エリスは静かに言った。
焦りはない。
ただ静かな期待だけがある。
◆
森が動いた。
風がないのに木々が揺れた。
魔物たちの気配が撓む。
根が重く軋む。
まるで森が“待ちきれない”というように――
俺の言葉を欲しがっている。
だが、俺はまだ喋らない。
喋ると決めたときに喋る。
その決定の持つ重みが、森を安定させる。
衝動ではなく意志。
力ではなく責任。
それがこの世界を守る“秩序”だ。
◆
喉が震える。
発声の予兆が満ちていく。
声が放たれると――
世界がどんな反応をするか。
確かめたい。
それは怖さではなく、純粋な興味だ。
俺は呼吸を整え、喉の奥をゆっくりと開く。
仲間たちが静かに見守る。
そして――言葉が零れる。
「――芽吹け」
たった一言。
囁きに近い響き。
◆
地面の下から、振動が走った。
大地が割れるのではない。
地表が捲れるのでもない。
“生命が目を覚ました”。
草がいっせいに生えた。
木の根が膨張した。
小さな芽が土を押しのけて飛び出した。
触れもしないのに、周囲のすべてが“生き返った”。
だが、以前の森では考えられない速度だ。
通常の植物の成長ではない。
魔力による急成長でもない。
世界そのものの方が、命として繁茂した。
俺のたった一言によって。
「……すごい」
リュミエルが息を呑む。
「森が喜んでる」
エリスが目を細める。
「これは、もう……生態系じゃない」
カインの声は震えている。
「生命っていうより、“意思の増殖”だ」
「芽吹きって言葉を、森が“存在の増加”って解釈したんだろうな」
バロウが嬉しそうに笑った。
確かにその通りだった。
芽吹きとは、草木のための言葉ではない。
俺にとっては――
“生きること”を肯定する言葉だった。
だから森は、生きた。
この世界ぜんぶで。
◆
周囲に生まれた新しい植物たちは、
人間の世界の植物とは似ても似つかなかった。
茎が柔らかく、光を帯び、
葉は脈打ち、
花は呼吸をする。
色彩は、虹色に近い。
でも人間の目では分類できない色が混ざっている。
その植物の香りが空気を満たす。
優しい。
甘い。
心臓を撫でるような香り。
まるで――俺の声を讃えるために生まれた命だ。
◆
喉の疼きは、解放された。
声を出したことで満たされ、静かになっている。
「どうだった?」
エリスが問う。
俺は少し考えてから答える。
「気持ちよかった」
それは自惚れでも、高揚でもない。
自然にそう感じた。
「声を出すと、森が嬉しそうにする。
それを感じられるのが、単純に……いい」
「それでいいんだよ」
エリスが微笑む。
「誰かに褒められたいからでも、
支配欲でも、
孤独を埋めるためでもなくて」
「ただ“気持ちいい”から発声する」
リュミエルが補足する。
「その純度が、世界を安定させる」
カイン。
「欲望に理由をつけなくていいんだよ」
バロウ。
四人の声は、矛盾なく重なっていた。
俺は焚き火に視線を落とす。
炎が揺らぎながら――
俺の姿を映している。
その輪郭は、人間のそれとは少し違っていた。
肩幅も手足の長さも、わずかに変質している。
変化は止まらない。
◆
「ねえ」
エリスが、まっすぐに俺を見た。
「名前で呼べなくても、いい?」
その声音は、震えていなかった。
決意のような、確信のような、揺らぎのない優しさ。
俺は即答した。
「あぁ。必要ない」
「じゃあ――」
彼女は言いかけたが、言葉が喉で止まった。
「アルス」と発音できないように、世界の法が変わっている。
その代わり――
エリスは、胸に手を当てて言った。
「好きだよ」
驚きも動揺もなかった。
ただ、静かに胸に染みた。
名前ではなく感情だけを向けられる世界。
それは残酷で――
それ以上に幸福だった。
俺は、一拍だけ息を止めて、返す。
「俺も、好きだ」
その一言は、法にはならなかった。
森は揺れず、焚き火は暴れず、雨は変化しない。
ただ、影たち四人の輪郭が少し濃くなった。
“感情で世界を動かさない”という法まで、
知らないうちに成立していたのだろう。
だからこそ――
世界は安定している。
◆
白い粒は降り続く。
森は生き続ける。
焚き火は燃え続ける。
影たちは笑い続ける。
名を呼ばれない。
言葉は法になる。
感情は存在を強める。
それが、俺たちの“日常”。
狂気でも悲劇でもなく、
ただ幸福な風景としてここにある。
◆
喉が、脈打つ。
次に言葉を発する時――
世界はまたひとつ変わる。
変化のたびに森は深化し、
俺は人間から離れていく。
だが、構わない。
ここに焚き火があり、
影たちがいて、
森が息をしていて、
俺が“続いている”なら。
それこそが、俺の願う未来なのだから。




