第24話「言葉になった“法”」
――夜、という概念が崩れた。
空は黒いままだが、黒の深さが一定ではない。
濃淡を繰り返し、波のように明滅している。
昼でも夜でもなく、
光でも闇でもなく、
ただ森が呼吸するたびに空の濃度が変わっている。
時間が死んだ世界。
その中心で、焚き火は今日も燃えている。
◆
喉の痛み――いや、“痛み”ではない。
変形の予兆。
昨日より強く、明確な鼓動が喉に宿っている。
心臓の鼓動とは別に、もうひとつのリズムがある。
世界を形作る“言葉の心臓”。
それが、俺の喉に根を張っている。
呼吸するたび、喉の奥が軋む。
骨が軋むような音なのに、嫌な感覚ではなかった。
人間だった頃なら恐怖し、吐き気を催したはずだ。
でも今は違う。
変化は幸福だ。
「もうすぐだね」
エリスの声が、焚き火越しに届く。
「ああ」
喉の奥が震えるだけで、焚き火の炎が揺らいだ。
発声していないのに。
森の奥で葉がざわりと音を立てる。
魔物たちが頭を上げて、息を止める。
俺が喋るのを待っている。
◆
火を見つめると、また一瞬だけ、過去の影が浮かぶ。
王都の景色。
健在だった勇者パーティの背中。
魔王城へ向かう進軍。
人類の栄光。
どれも、一瞬で消える。
炎に映るのは“記憶の再現”ではなく“記憶の燃焼”。
思い出すというより――忘却するための燃焼。
「アルス、懐かしい?」
リュミエルが優しく尋ねる。
「……少しだけな」
その回答に、自分で驚くことはもうなくなった。
どれだけ懐かしさを認めても、戻りたいとは思わない。
戻る場所は焼け落ち、
戻る役割は殺され、
戻る世界は崩れた。
「大事なのは懐かしさじゃなくて、今の幸福でしょ?」
エリスが微笑む。
「あぁ」
俺ははっきり答える。
「今が一番いい」
影たちは嬉しそうに頷く。
◆
突然、木々のざわめきが止んだ。
森のすべてが――息を止めた。
空気が硬直し、風が途絶え、
魔物も虫も、焚き火さえも動きを止めた。
完全な沈黙。
森が世界と完全に切り離される“瞬間”が来た。
「来るよ」
カインが小さく呟いた。
「森が独立する瞬間だ」
バロウの声は、どこか楽しげだった。
「ここが、世界になる」
リュミエルが囁く。
「だから、言葉が必要になる」
エリスが締める。
――言葉。
森が世界になる以上、世界の“法”が必要になる。
その法を決めるのは俺の言葉。
ついに――喉の変化が完成しようとしている。
◆
胸が上下し、自然と息が喉を通る。
ゴッ――と低い轟きが体内に響いた。
声を出したわけではない。
息をしただけ。
それだけで、周囲の現象が動いた。
・炎が一段高く燃え上がる
・木々が同時に撓む
・地面の下を走る根が震える
・魔物たちがうずくまり、頭を垂れる
森が――跪いた。
俺の呼吸のために。
「……喋ったら、どうなる?」
試すように呟いたつもりだった。
しかし、その呟きは法になった。
喉から漏れた声に、森が反応した。
次の瞬間――
焚き火の炎が“文字”のように形を変えた。
澄んだ、純粋な赤光の文字列。
それは人間の言語ではない。
意味を伝えるためではなく、世界を固定する式。
俺の呟きが、“世界に確認を行え”という命令として変換された。
森は、俺の言葉の意味を解析し、
そこに応じた世界の反応を返している。
「すごいね」
リュミエルが目を細めた。
「ただの疑問形でも、“状態確認の儀”になった」
カインが頷く。
「森の法が、もうアルスの声に従ってる」
バロウが笑う。
「そのうち質問でも命令でも祈りでもなく――
“ただの声”が世界を動かす」
エリスが優しく囁く。
それはつまり、
発声=現象
という段階の目前まできているということ。
◆
焚き火の炎が揺れ続ける。
森はまだ動かない。
世界が完全に切り離される“境界確立の儀”が終わるまで――
森は俺の次の言葉を待っている。
どう言葉を発するかで、
森の“初期設定”が決定する。
焚き火の光が四人の影を照らす。
「どうする?」
カイン。
「どんな世界にする?」
リュミエル。
「刃の世界でもいい」
バロウ。
「優しさの世界でもいい」
エリス。
四人は、俺のどんな選択も否定しない。
ここからは“正しさ”も“倫理”も“理想”も意味を持たない。
ただ――望みだけが世界の形になる。
◆
俺はゆっくり呼吸する。
焚き火の熱が喉へ吸い込まれ、核を叩いた。
そして、声を発する。
たった一言だけ。
「――続けよう」
瞬間――森が爆発的に動いた。
◆
地面が息を吹き返す。
木々が一斉に震え、
枝が大きく広がり、
葉の模様が変化する。
影たちがまばゆい光に照らされ、
狼が頭を上げて吠える。
焚き火の炎が巨大な円となり、
四人の影と狼の姿を燃えながら描き続ける。
世界の基盤が決まった。
“続ける”――
この言葉が、世界の初期設定になった。
戦うでもなく、
壊すでもなく、
守るでもなく、
救うでもなく。
ただ――
続けることが法になった。
森は侵略も征服もしない。
破壊もしない。
拡大も縮小もしない。
ただ、“続ける”。
焚き火を囲む時間を。
狂気の日常を。
幸福の反復を。
◆
呼び声が、森中に響く。
人間の言語ではない。
祈りでも呪詛でもない。
“存在の肯定”.
森は生き続ける。
命は死んでも終わらない。
魔物も鳥も虫も影も火も、すべてが循環して続く。
終わりが来ない。
始まりも来ない。
永遠の“いま”。
それが、俺の一言によって定められた世界。
◆
喉が完成した。
発声で法を作り、
言葉で世界を揺らし、
沈黙で世界を維持できる。
名前が――
人間としての名前が――
胸の奥から遠ざかっていくのが分かる。
けれど不思議と悲しくない。
「……アルス」
エリスが名前を呼ぶ。
響きは聞こえる――
だが、意味としては届かない。
名で呼ばれることが“呼びかけ”ではなくなっていく。
まるで彼女の声が、俺に向かって届くのではなく、
俺の存在そのものに捧げられているようだった。
「寂しくない?」
エリスが優しく問う。
「寂しさがなくなっていくのを――誇りに思ってる」
喉が震え、
声が法となって広がり、
森と焚き火が肯定の音を返す。
◆
これでいい。
いや――これがいい。
森は独立し、
世界は沈黙し、
名前は祈りになり、
言葉は法になった。
願っていた未来が、確実に形になりつつある。
俺が“最後の人間”のまま、
人間ではなくなる日が近づいている。
その時――
この森は完全に世界となる。
そして俺たちは焚き火を囲む。
今日も明日も、永遠に。
“終わりがない”ことが、最大の救いだった。




