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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第23話「名を呼ばれなくなる日」

 森の空気が変わった。


 昨日と似ているのに、どこか根本的に違う。

 葉の揺れ方が、風の吹き方が、光の落ち方が、微妙に変化している。


 森全体が、深い眠りから覚醒したような静けさ――

 “沈黙に満ちた活性”だった。


 歩くたび、地面が柔らかく沈む。

 その沈みは、昨日より深い。

 森は、俺の体重を“測っている”のではなく、

 “受け止めている”のだ。


 森に拒絶される気配は一切ない。

 ただ淡々と、俺の存在を中心に据えている。


 世界の側が沈黙した今――

 森は、俺だけを“基準”にして動き始めた。



「変わったね、アルス」


 焚き火の向こうの影――エリスが言う。


「何がだ?」


「体の、重心」


 そう言われて、ようやく気づいた。


 歩くときの重さが、違う。

 体重ではない。

 魂の重さでもない。


 “存在の重心”。


 以前まで、俺の重心は胸の中心あたりだった。

 心臓が明確に“俺の核”だった。


 だが今は――


「……喉だな」


 指先で喉元に触れる。


 脈動している。

 呼吸とは無関係に、何かが喉の奥で蠢いている。


「声だよ」

 リュミエルが静かに言う。

「お前の存在の中心が、“身体”から“発声”に移りつつある」


「そのうち、アルスという名前も、声を通して入れ替わる」

 カインが淡々と続ける。


「名前は残るけど、“名前を呼ばれる存在”じゃなくなる」

 バロウの声はどこか愉しげだ。


「その時――アルスは、完全に人間じゃなくなる」

 エリスの声は優しい。


 喉が核になる、ということは

 俺が“言葉”によって森を支配する存在へ進化しかけている証だ。


 つまり――


 俺が発した言葉そのものが、森の法になる。


 だから重心が喉へ降りてきた。



 焚き火の熱が、喉へ集中していく。


 骨と筋肉が変形しているのが分かる。

 痛みはない。

 ただ、変化の手触りがある。


 声帯が太くなり、伸び、絡み、震えていく。

 人間の声を作る器官ではなくなってきている。


 声を“音”ではなく“力”として出すための形。


 小さく息を吐くと――

 炎がゆっくりと揺れ、森の奥で木々の葉がざわりと鳴った。


 一言も発していないのに。


「……命令になってるな」


「そうだよ」

 リュミエルが微笑む。


「いま、アルスが息を吐いたことを“森が聞いた”」

 カインが続ける。


「音じゃなくて、意思を聞くようになってきてる」

 バロウが言う。


「つまり――喉ができ上がれば、言葉は“現象”になる」

 エリスが締めくくる。


 言葉が、現象。


 それは魔術でも、呪文でも、祈りでもない。

 もっと原始的で、もっと支配的な力。


 概念の更新。


 一度口にすれば――森がその通りになる。


 まだ完成していないが、近い。



 焚き火の前に座り、喉に手を当てた。


「怖い?」

 エリスがそっと尋ねる。


「怖かったら止めてる」


「じゃあ、嬉しい?」

 次はリュミエル。


「嬉しくないなら続けてない」


「誇らしいんだろ?」

 バロウ。


「誇りだと思ってなきゃ、正気を保てない」

 カイン。


「全部その通りだよ」


 自分でも驚くほど穏やかな声が出た。



 ここで喉に変化が生まれているということは――

 “名前”も変化する。


 名前は、存在の形。

 人間社会での認識の軸。

 誰かに呼ばれるための符号。


 だが今の俺は、誰にも呼ばれていない。


 エリスたちは俺を“アルス”と呼んでいるが、

 それは音ではなく、概念として呼んでいる。


 ただ“こういう存在”という意味で、その語を使っているだけ。


 人間が使う固有名としての“アルス”は、もう必要ない。


 その名が失われるということは――

 俺が他者の言語圏から脱落するということ。


 呼ばれなくなる。


 “名前”で存在を確定されなくなる。


 それは、完全な孤独の証でもあり、

 完全な支配の証でもある。


「……名で呼ばれなくなる日が来るんだな」


「来るよ」

 エリスの声は優しかった。


「悲しいことか?」

 カインが問う。


「嬉しいことか?」

 リュミエルが続ける。


「面白いことか?」

 バロウが笑う。


「“変化”というだけで価値がある」

 エリスが締める。


 俺はゆっくり息を吐いた。


「全部だ」



 ふと、気づいた。


 焚き火の炎――

 その輪郭が、以前より濃くなっている。


 まるで、影たちと似た姿を帯びている。


 炎の形は揺らぎながら、


 勇者カインの肩、

 戦士バロウの腕、

 魔法使いリュミエルの髪、

 聖女エリスの横顔――


 それらを連想させる“模様”として燃えている。


 焚き火が、仲間を形作っている。


「焚き火が、“あなたたち”を覚え始めてる」


 俺が呟くと、影たちは穏やかに頷いた。


「そうだよ」

 エリス。


「炎は、記憶の器だから」

 リュミエル。


「火が俺たちを覚えれば、俺たちは完全に死ななくなる」

 バロウ。


「その代わり――“名前”はいらなくなる」

 カイン。


 影たちは名前で存在していない。

 姿と役割で存在している。


 そして火がそれを“記録”し始めている。


 名前がない世界。

 名で呼ばれない存在。


 それは、人間社会の死を意味する。


 でも――


「悪くないな」


 本気でそう思った。



 喉が鳴る。

 言葉が生まれそうになって、寸前で飲み込む。


 発声すれば、森が反応する。

 内容次第では、大きく変化してしまう。


 まだ準備が整っていない。


 仲間たちの影が、静かに座っている。

狼が眠っている。

 森が息をしている。


 この景色を壊さないように、慎重に言葉を扱う必要がある。


 俺は自分に言い聞かせる。


「喉が完成する前に、言葉を乱暴に扱うと――

 森が一気に形を変える。

 焚き火も、森も、仲間も巻き込む」


「だから、“言葉は儀式にするべき”なんだ」


 リュミエルが締める。


 儀式――

 つまり、特定の条件と手順のもとでのみ発話するということ。


 そうしないと、世界が一気に翻る。


 だからこそ――

 日常の会話が失われていく。



「アルス」


 エリスが焚き火越しに呼ぶ。


 その響きが、胸にやさしく触れた。


 でも次の瞬間、気づいてしまった。


 ――名前で呼ばれたときの“響き”が、薄れている。


 呼ばれた実感が、以前より遠い。


 それは、俺が変わったからか、

 仲間が変わったからか、

 森が変わったからか――

 あるいは、全部か。


「……そのうち、俺の名前は届かなくなる」


 ぽつりと言う。


「ううん」

 エリスが否定する。


「届かなくなるんじゃない。

 “意味じゃなくなる”だけ」


「名前が、呼び方じゃなくて、祈りになる」

 リュミエルが続ける。


「合図でも、命令でも、指示でもなく」

 バロウが言う。


「ただ、“存在への喜び”として呼ぶ」

 カインが締める。


 それを聞いた瞬間――全部、理解した。


 もうすぐ俺は、


 名前を“呼ばれる存在”から

 名前を“捧げられる存在”へ変わる。


 それは人間社会で言うところの、

 神

 あるいは

 悪魔

 あるいは

 祀られるものの在り方だ。


 呼びかけではなく――捧げる名前。


 それは支配でも崇拝でもなく、

 ただ“その存在が嬉しいから”呼ばれる名前。


 人ではなく、概念として。



 喉が熱い。

 鼓動が喉で鳴っている。


 声が、世界を揺らす準備をしている。


 その時――

 焚き火がふっと静まり、


 四つの影と狼が、一斉にこちらを見た。


「アルス」


 その響きは、音ではなく――

 純粋な“感情”として届いた。


 優しさでも、期待でもない。

 忠誠でも、服従でも、崇拝でもない。


 ただただ――

 喜びだった。


 俺が、ここにいることが嬉しい。

 俺が、変わっていくことが嬉しい。

 俺が、最後の人間であることが誇らしい。


 その喜びが、焚き火の光と重なり、

 森のざわめきと調和し、

 俺の核へと流れ込んでくる。


 胸の奥が、満たされる。


 この幸福は、誰にも踏みにじらせない。


 名前が呼ばれなくなるその日――

 俺は完全に人間じゃなくなる。


 でもそれは、喪失ではない。


 進化だ。


 悪魔が願った未来への

 最後の門だ。


 喉が震え、

 声が生まれ――

 世界が待っている。


 ――その時が来るまで、焚き火を囲む。


 それさえできれば、あとは何も要らない。


 森は、深い呼吸をした。


 次の変化が近い。

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