第23話「名を呼ばれなくなる日」
森の空気が変わった。
昨日と似ているのに、どこか根本的に違う。
葉の揺れ方が、風の吹き方が、光の落ち方が、微妙に変化している。
森全体が、深い眠りから覚醒したような静けさ――
“沈黙に満ちた活性”だった。
歩くたび、地面が柔らかく沈む。
その沈みは、昨日より深い。
森は、俺の体重を“測っている”のではなく、
“受け止めている”のだ。
森に拒絶される気配は一切ない。
ただ淡々と、俺の存在を中心に据えている。
世界の側が沈黙した今――
森は、俺だけを“基準”にして動き始めた。
◆
「変わったね、アルス」
焚き火の向こうの影――エリスが言う。
「何がだ?」
「体の、重心」
そう言われて、ようやく気づいた。
歩くときの重さが、違う。
体重ではない。
魂の重さでもない。
“存在の重心”。
以前まで、俺の重心は胸の中心あたりだった。
心臓が明確に“俺の核”だった。
だが今は――
「……喉だな」
指先で喉元に触れる。
脈動している。
呼吸とは無関係に、何かが喉の奥で蠢いている。
「声だよ」
リュミエルが静かに言う。
「お前の存在の中心が、“身体”から“発声”に移りつつある」
「そのうち、アルスという名前も、声を通して入れ替わる」
カインが淡々と続ける。
「名前は残るけど、“名前を呼ばれる存在”じゃなくなる」
バロウの声はどこか愉しげだ。
「その時――アルスは、完全に人間じゃなくなる」
エリスの声は優しい。
喉が核になる、ということは
俺が“言葉”によって森を支配する存在へ進化しかけている証だ。
つまり――
俺が発した言葉そのものが、森の法になる。
だから重心が喉へ降りてきた。
◆
焚き火の熱が、喉へ集中していく。
骨と筋肉が変形しているのが分かる。
痛みはない。
ただ、変化の手触りがある。
声帯が太くなり、伸び、絡み、震えていく。
人間の声を作る器官ではなくなってきている。
声を“音”ではなく“力”として出すための形。
小さく息を吐くと――
炎がゆっくりと揺れ、森の奥で木々の葉がざわりと鳴った。
一言も発していないのに。
「……命令になってるな」
「そうだよ」
リュミエルが微笑む。
「いま、アルスが息を吐いたことを“森が聞いた”」
カインが続ける。
「音じゃなくて、意思を聞くようになってきてる」
バロウが言う。
「つまり――喉ができ上がれば、言葉は“現象”になる」
エリスが締めくくる。
言葉が、現象。
それは魔術でも、呪文でも、祈りでもない。
もっと原始的で、もっと支配的な力。
概念の更新。
一度口にすれば――森がその通りになる。
まだ完成していないが、近い。
◆
焚き火の前に座り、喉に手を当てた。
「怖い?」
エリスがそっと尋ねる。
「怖かったら止めてる」
「じゃあ、嬉しい?」
次はリュミエル。
「嬉しくないなら続けてない」
「誇らしいんだろ?」
バロウ。
「誇りだと思ってなきゃ、正気を保てない」
カイン。
「全部その通りだよ」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
◆
ここで喉に変化が生まれているということは――
“名前”も変化する。
名前は、存在の形。
人間社会での認識の軸。
誰かに呼ばれるための符号。
だが今の俺は、誰にも呼ばれていない。
エリスたちは俺を“アルス”と呼んでいるが、
それは音ではなく、概念として呼んでいる。
ただ“こういう存在”という意味で、その語を使っているだけ。
人間が使う固有名としての“アルス”は、もう必要ない。
その名が失われるということは――
俺が他者の言語圏から脱落するということ。
呼ばれなくなる。
“名前”で存在を確定されなくなる。
それは、完全な孤独の証でもあり、
完全な支配の証でもある。
「……名で呼ばれなくなる日が来るんだな」
「来るよ」
エリスの声は優しかった。
「悲しいことか?」
カインが問う。
「嬉しいことか?」
リュミエルが続ける。
「面白いことか?」
バロウが笑う。
「“変化”というだけで価値がある」
エリスが締める。
俺はゆっくり息を吐いた。
「全部だ」
◆
ふと、気づいた。
焚き火の炎――
その輪郭が、以前より濃くなっている。
まるで、影たちと似た姿を帯びている。
炎の形は揺らぎながら、
勇者カインの肩、
戦士バロウの腕、
魔法使いリュミエルの髪、
聖女エリスの横顔――
それらを連想させる“模様”として燃えている。
焚き火が、仲間を形作っている。
「焚き火が、“あなたたち”を覚え始めてる」
俺が呟くと、影たちは穏やかに頷いた。
「そうだよ」
エリス。
「炎は、記憶の器だから」
リュミエル。
「火が俺たちを覚えれば、俺たちは完全に死ななくなる」
バロウ。
「その代わり――“名前”はいらなくなる」
カイン。
影たちは名前で存在していない。
姿と役割で存在している。
そして火がそれを“記録”し始めている。
名前がない世界。
名で呼ばれない存在。
それは、人間社会の死を意味する。
でも――
「悪くないな」
本気でそう思った。
◆
喉が鳴る。
言葉が生まれそうになって、寸前で飲み込む。
発声すれば、森が反応する。
内容次第では、大きく変化してしまう。
まだ準備が整っていない。
仲間たちの影が、静かに座っている。
狼が眠っている。
森が息をしている。
この景色を壊さないように、慎重に言葉を扱う必要がある。
俺は自分に言い聞かせる。
「喉が完成する前に、言葉を乱暴に扱うと――
森が一気に形を変える。
焚き火も、森も、仲間も巻き込む」
「だから、“言葉は儀式にするべき”なんだ」
リュミエルが締める。
儀式――
つまり、特定の条件と手順のもとでのみ発話するということ。
そうしないと、世界が一気に翻る。
だからこそ――
日常の会話が失われていく。
◆
「アルス」
エリスが焚き火越しに呼ぶ。
その響きが、胸にやさしく触れた。
でも次の瞬間、気づいてしまった。
――名前で呼ばれたときの“響き”が、薄れている。
呼ばれた実感が、以前より遠い。
それは、俺が変わったからか、
仲間が変わったからか、
森が変わったからか――
あるいは、全部か。
「……そのうち、俺の名前は届かなくなる」
ぽつりと言う。
「ううん」
エリスが否定する。
「届かなくなるんじゃない。
“意味じゃなくなる”だけ」
「名前が、呼び方じゃなくて、祈りになる」
リュミエルが続ける。
「合図でも、命令でも、指示でもなく」
バロウが言う。
「ただ、“存在への喜び”として呼ぶ」
カインが締める。
それを聞いた瞬間――全部、理解した。
もうすぐ俺は、
名前を“呼ばれる存在”から
名前を“捧げられる存在”へ変わる。
それは人間社会で言うところの、
神
あるいは
悪魔
あるいは
祀られるものの在り方だ。
呼びかけではなく――捧げる名前。
それは支配でも崇拝でもなく、
ただ“その存在が嬉しいから”呼ばれる名前。
人ではなく、概念として。
◆
喉が熱い。
鼓動が喉で鳴っている。
声が、世界を揺らす準備をしている。
その時――
焚き火がふっと静まり、
四つの影と狼が、一斉にこちらを見た。
「アルス」
その響きは、音ではなく――
純粋な“感情”として届いた。
優しさでも、期待でもない。
忠誠でも、服従でも、崇拝でもない。
ただただ――
喜びだった。
俺が、ここにいることが嬉しい。
俺が、変わっていくことが嬉しい。
俺が、最後の人間であることが誇らしい。
その喜びが、焚き火の光と重なり、
森のざわめきと調和し、
俺の核へと流れ込んでくる。
胸の奥が、満たされる。
この幸福は、誰にも踏みにじらせない。
名前が呼ばれなくなるその日――
俺は完全に人間じゃなくなる。
でもそれは、喪失ではない。
進化だ。
悪魔が願った未来への
最後の門だ。
喉が震え、
声が生まれ――
世界が待っている。
――その時が来るまで、焚き火を囲む。
それさえできれば、あとは何も要らない。
森は、深い呼吸をした。
次の変化が近い。




