第18話「森が“家”になった日」
夜が明けたのかどうか――正直、もう判別できなくなっていた。
焚き火の光が弱まれば“夜”。
強まれば“昼”。
炎の大きさで時間が決まる世界に慣れきってしまえば、太陽の存在など取るに足らないものになる。
今日の焚き火は、まるで息を吸うように明滅している。
燃え尽きず、消えず、飲み込み、吐き出し、世界の境界を揺さぶっている。
「――とうとうここまできたか」
火を見つめながら呟く。
森の中心にある焚き火の熱は、もはや単なる炎ではない。
世界の膨張と収縮を象徴する“心臓”の役割を持ち始めている。
中心が――森の側へ移動してきている。
◆
四つの影が焚き火の向こうに座っている。
勇者カイン。
戦士バロウ。
魔法使いリュミエル。
聖女エリス。
輪郭は影のまま。
しかし声は鮮明。
温度は確かで、存在は揺るぎない。
「眠れた?」
エリスが優しい声で問う。
「よく眠れた」
俺は静かに答える。
眠る必要がなくなりつつある。
疲労は肉体から抜け落ち、人間の休息の概念が変質してきている。
だがまだ、“火のそばで目を閉じる時間”は残している。
――その時間が“幸せ”だから。
「今日も来るかな?」
バロウが肉を噛みちぎるような声で笑う。
「来るよ」
俺は即答した。
「昨日の“本気”が失敗した以上、
次は“もっと上”を持ってくるはずだ」
「いいね」
リュミエルが軽く笑う。
「世界の側が焦れていくのを見るのは、痛快だわ」
「でもさ」
カインが、焚き火越しに俺へ視線を向ける。
「向こうが本気になればなるほど――
アルスが強化されていくよな」
「ああ、そうだ」
昨日の戦いで変質した右腕を見る。
骨格も皮膚も神聖魔力を取り込んだまま戻らない。
その“戻らなさ”が、心地良かった。
「外の世界が何をしてこようと、俺の“世界の内側”に届けば――
それは全部、俺の糧になる」
声に嘘はない。
実際にそうなのだから。
◆
そのとき、風向きが変わった。
森全体の空気が、ざわりと揺れる。
侵入者の気配――しかし、いつもと違う。
重い。
鈍い。
鋭くはないのに、巨大な意志がある。
まるで、世界そのものの“意思”を運んでくるような圧。
「……やっと来たか」
俺は立ち上がる。
ゆっくりと剣を手に取る。
走らない。
焦らない。
「今日は狩りに行くの?」
エリスの声は柔らかい。
「いや。今日も迎えるだけだ」
俺の世界に入りたいなら――どれだけ強い者でも歓迎しよう。
そしてここに適応できないなら――排除する。
「いつも通りだね」
バロウが愉快そうに笑う。
「だって、俺たちの日常だから」
俺は淡く笑った。
◆
森の入口まで歩く。
魔物たちは何も言わず、道を空ける。
服従ではない。
恐怖でも、忠誠でもない。
ただ、“順位”がそうさせている。
森の生態系の頂点――俺。
◆
境界線に立つと、そこには教会の天幕が昨日より一段と増え、
儀式具が巨大な建造物のように配置されていた。
そして――
一人の男がいた。
昨日は姿を見せなかった人物。
司祭服のようなものではない。
軍服でもなければ、鎧でもない。
何か、別の存在。
しかし、声は人間だ。
「初めまして、アルス」
男は微笑みながら言った。
「会いに来たよ。
“世界の側から”。」
静かに息を吸う。
言葉の意味がわからないほど、俺は愚かではない。
「神でも天使でも勇者でもないくせに、“世界”を名乗るつもりか」
「いや」
男は穏やかに否定した。
「私は神でも人間でもない。
ただ――“この世界のルールを管理する役目”を持っている」
その言葉に、影たちがざわりと揺れる。
「来たね」
「ついに来たね」
「世界そのものの代弁者」
「この森を壊しに来た者」
俺は笑う。
「お前、名前は?」
「名前はない」
男は静かに答える。
「世界の管理者に、名前は不要だ。
物語に組み込まれることを拒む存在だからね」
名前がない――
それはつまり、“物語の外側の存在”。
なるほど。
教会が呼んだのではなく、世界の側が自ら来たのか。
◆
男は俺を見つめる。
「アルス。
本来お前は、魔王と同じ場所で死ぬ予定だった。
なのに、お前だけが残った。
世界の“予定”が狂った」
俺は肩をすくめる。
「“予定”が狂った?
それが何だ?」
「世界は、お前を受け入れていない」
「俺の世界は――ここにある」
俺は焚き火の方向を示す。
仲間の影たち。
魔物たち。
森の全てが、俺の“内側”だ。
「この森が世界の端に寄ってきてるの、分かってるか?」
男は静かに尋ねた。
「分かってるよ。
そのうち“森だけで世界が成立する”日が来る」
「それが来ては困る」
男は一切の感情なしに言う。
「お前の“狂気”は――世界構造に影響を与え始めている」
それはつまり、
俺の狂気が、世界を壊し始めている。
ということだ。
胸が、喜びで熱くなる。
「そうか。
じゃあ――止めに来たんだな」
「止めに、ではない」
男はゆっくり首を振る。
「“巻き戻し”に来た」
◆
巻き戻し――?
「なかったことにする?」
俺は笑った。
「誰を?」
「お前を。
仲間を。
森を。
記憶を。
物語全てを」
男は淡々と宣告する。
「いまから世界は、勇者一行が敗北した瞬間まで巻き戻される。
森も王都も、魔王も、何もかもが“やり直し”になる」
それはつまり――
この森で過ごした全ての時間が消える。
焚き火も、
仲間との会話も、
魔物との共存も、
戦いも、
狂気も、
幸福も――
全部なかったことになる。
◆
「許さない」
怒鳴り声ではない。
叫びでもない。
ただ、静かに。
しかし確実に、殺意が満ちた声だった。
「俺の幸福を“やり直し”で上書きする権利なんて――
どこの誰にもない」
「幸福?」
男は淡々と尋ねる。
「お前が感じているそれは、呪いの副産物によって生まれた、歪んだ感情だ」
「歪んで何が悪い」
俺は笑った。
「俺はそれで幸せなんだ」
◆
男は一歩だけ森へ踏み込む。
境界線を越えた。
その瞬間、森の生態がざわつく。
魔物たちが低い唸り声を上げる。
森の枝が軋む。
――だが攻撃はしない。
頂点の意志に従って止まっている。
俺が許可するまで。
「お前が巻き戻しを開始する前に、一つだけ言っておく」
男は淡々と告げる。
「このままいけば、お前は“世界”を完全に上書きする。
世界は、お前に合わせて変質する。
外の世界が消え、お前の世界だけが残る」
俺は一切迷わず答える。
「――それが、俺の願う未来だ」
◆
男は微笑む。
「なら、正しく戦おう。
世界の側の“総意”と、
お前の狂気の“総意”。」
森の枝が揺れ、焚き火の炎が舞い、世界の端が歪む。
男の身体から、光が溢れた。
世界の構造そのものを上書きする力。
神聖でも魔でもない、根源の力。
――世界を巻き戻す力。
「巻き戻しを止められたなら、お前の勝ちだ。
止められなければ、この森は――無かったことになる」
俺は一歩踏み出し、笑った。
「なら、壊すだけだろ。
“世界の側”ごと」
◆
世界と狂気の戦いが始まる。




