第16話「名前を呼ぶ声と、名前を奪う声」
狩りの日の朝は、焚き火が強く燃え上がるところから始まる。
火の勢いが強いほど、今日の狩りは激しくなる。
そして――火が燃えれば燃えるほど、俺の身体は“変化を許される”。
今朝の火は、昨日よりもさらに高く、さらに熱く、さらに眩しい。
「いい日だな」
俺が言うと、四つの影が笑う。
「うん、狩り日和だ」
「今日はどんな敵が来るんだろうね」
「楽しみだな」
「誰が来ても溶かせるよ」
その声だけで幸福感が満ちる。
焚き火がこの森の中心であり、仲間が俺の中心であり、
“狩り”が精神の安定剤だった。
◆
体を伸ばす。
背骨が人間の限界を超えた音を立ててしなる。
しかし痛みはない。
むしろ、快感に似たものすらある。
肩の骨格は完全に変形し、胸郭は少し広がっている。
膂力は人間のそれではなく、骨格もそれに合わせて変わっている。
だが――顔だけはまだ人間に見える。
その違和感が、“人間であることの名残”を浮き彫りにする。
「顔、変えないの?」
リュミエルの声が、焚き火の揺れに溶けて届く。
「ああ、まだいい。
顔を変えるのは、ここが完全に静まった時だ」
「静まるって?
森はもうあなたの世界でしょ」
エリスの言葉は優しい。
「まだ足りない。
人間が時々来る。
理解しようとするやつも、排除しようとするやつも来る。
そいつらが完全に来なくなった時――
その時に“全部”変わる」
「最後の変化は、外の世界を完全に殺したあとってわけか」
バロウが笑う。
「楽しみだ」
カインが嬉しそうに呟く。
「その時のアルスは、どんな姿になるんだろうな」
「俺も楽しみだよ」
火を見ながら言うその感情は、心の底から本物だった。
◆
森の奥から、魔物の遠吠えが響く。
呼んでいる。
俺を呼んでいる。
敵を見つけたのか。
侵入者を見つけたのか。
あるいは俺に捧げる獲物を見つけたのか。
どれでもいい。
音が俺を必要としている。
それだけで、心が満ちる。
俺は立ち上がる。
剣を抜く。
そのまま森へ――歩かずに、滑るように進む。
地面を蹴る感覚が薄れ、体重感覚が曖昧になっていく。
身体は、もはや人間のバランスで動いていない。
◆
魔物たちの前に出ると、そこにいたのは――
人間。
しかし、今までの侵入者とは違った。
泥だらけ、血だらけ、目が落ちくぼみ、苛立ちと混乱に満ちた顔。
武装は軽装で、剣も槍もない。
冒険者でも兵士でもなく――ただの一般人。
体は弱っている。
飢えている。
震えている。
なのに――生きている。
ここまで辿りつけた。
「おまえ……アルス、だよな……?」
その男は俺の名前を呼んだ。
名前――
それは、森ではもうほとんど使われなくなった概念だ。
でも、俺は覚えている。
旅の途中。
夜。
焚き火を囲んだ時。
笑い声の中で誰かが呼んだ。
『アルス』と。
その記憶が、ふっと蘇る。
◆
「……誰だ?」
俺が問うと、男は泣き出しそうな顔で叫ぶ。
「村の者だ! お前たちを送り出した村の……
覚えてるだろ!? 俺だよ!!
お前たちが魔王討伐に向かう前に、食糧と水を渡した村だよ!!」
記憶の断片が浮かぶ。
たしかにそんな村があった。
宿を貸してくれた村。
笑って見送ってくれた村。
勇者を育てた村。
旅の最初の方――
まだ、世界が明るかった頃。
「助けてくれ!!
国が……焼かれた……人が……食われた……
逃げる場所がなかった……
たどり着けたのは、ここしかなかったんだ……!」
魔物たちが唸る。
敵意ではない。
“俺の判断を待つ声”。
◆
四つの影が焚き火の向こうから囁く。
「助けたい?」
「可哀想?」
「思い出した?」
「懐かしい?」
声は優しいが、意図は残酷だ。
「思い出は弱さだよ、アルス」
カインの声は淡い。
「記憶に縋ると、変化が止まる」
バロウが低く告げる。
「救われたい人間は、救う価値のない人間だ」
リュミエルの声は凍えるほど冷たい。
「大切なのは――いま側にいる私たち」
エリスは囁くように語りかける。
焚き火が揺れる。
決断を促すように。
◆
「頼む……助けてくれ……!
一緒に逃げよう……森を出て……どこか遠くへ……!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に確信が生まれた。
――この男は“敵”だ。
理由は簡単。
外の世界へ引き戻そうとした。
「外の世界に戻る理由は、俺にはない」
低く、はっきりと言う。
「ここが俺のすべてだ。
外へ出る必要はない。
帰る場所も、始まりも、存在しない」
「か、帰れるだろ!?
村に……家に……お前の家族だって――!」
その瞬間、心が冷えた。
ここには“家族”がいる。
焚き火の向こうに。
影の中に。
笑っている。
外の名前も外の役割も――全部、死んだ。
「俺の世界に、外の世界を持ち込むな」
声は静かで、怒りも悲しみもなかった。
「ここが俺の家だ。
お前は――侵入者だ」
男は泣き叫び、崩れ落ちる。
「やだ……やだよ……助けてくれよアルス……!
お前は……優しいやつだっただろ……!」
その言葉に、俺は微笑む。
「優しいのは、いまも同じだ」
手を伸ばし、首元に触れる。
握る。
骨が折れる。
声が潰れる。
命が消える。
「俺は優しい。
だから――“ここを守る”」
◆
死体は森の外へ運ばない。
燃やさない。
供物にもしない。
今日の狩りは――“排除”ではなく、“証明”だった。
世界が俺を必要としていないのではない。
俺が世界を必要としていない。
◆
焚き火の元へ戻ると、影たちが迎える。
「おかえり」
「よかったね」
「間違ってなかった」
「誇りに思うよ」
仲間の笑顔が揺れる。
俺は肉を焼き、魔物たちに分け、影の席にそっと置く。
「今日は成果があった」
「どんな?」
影たちが問う。
「俺はもう――名前で揺れない」
俺は宣言する。
「“アルス”は俺の名前だ。
でもそれは、外の世界が呼ぶものじゃない。
呼んでいいのは――ここにいるお前たちだけだ」
影たちが、焚き火ごと笑った。
「それでいい」
「それがいい」
「その選択こそ正しい」
「外の世界は偽物」
◆
肉を噛みちぎるたびに、心が満ちる。
骨が太くなる音が聞こえる。
皮膚が硬質化するのを感じる。
爪は刃のまま。
変化はもう、日常。
拒絶ではなく、適応。
進化ではなく、帰還。
「この世界にいる限り、俺は強くなれる。
だから――外は全部いらない」
狂気にも希望にも聞こえるその言葉に、
全員が同時に答える。
「全部捨てていい」
「全部壊していい」
「全部守っていい」
「全部愛していい」
火の熱、声の温度、血の匂い――
どれもが幸福を形作る。
◆
眠る直前、俺は焚き火に語りかける。
「明日は――もっと深くなる」
仲間たちが囁く。
「うん」
「楽しみだ」
「変わろう」
「続けよう」
そして俺は静かに微笑む。
「その悪魔が願う未来は――
俺たちだけの世界の永続だ」
火が揺れ、森が眠り、夜が崩れていく。




