第10話「境界を越えた瞬間、戻らない幸福」
風が冷たい朝だった。
だが俺は焚き火に背を預け、うっとりした表情で欠伸をした。
「昨日、よく眠れたな……」
外見は、普通の青年だった。
背丈も骨格も、皮膚の色も、髪も瞳も――
人間の姿、そのまま。
だが内側は、もう人間ではない。
魔物の血肉を食い続け、孤独と狂気が心を侵食し、
幻覚の仲間たちが俺を優しく縛る。
その“変化”は、今日ついに肉体へ波及した。
◆
狩りの最中だった。
木々の間を走りながら、魔力の反応を辿っていた。
近くに魔物の気配。強い。
そこへ向かう足取りは軽く、期待で心が満ちていた。
「この胸の高鳴り……たまらないな」
呟いた瞬間、魔物が飛び出してきた。
黒角猿――全身が筋肉と角張った骨に覆われた凶暴な魔物だ。
咆哮とともに拳が振り下ろされ、地面が砕ける。
土が爆ぜ、木が倒れ、大地が揺れる。
普通の人間なら避けられない。
だが俺の身体は――勝手に動いた。
意識よりも速く。
皮膚が、骨が、筋肉が、一瞬だけ“人間ではない形”に変わった。
◆
――ザクリ。
音さえ聞こえない速さで俺は黒角猿の懐へ入り込んだ。
腕が伸びた。
いや、伸びた“気がした”だけかもしれない。
認識が歪んだのか。
肉体が歪んだのか。
どちらでもよかった。
爪が生えたような感触。
骨が開いたような感覚。
皮膚が裂け、すぐ戻ったような手応え。
そして――黒角猿の腹が割れた。
一瞬で。
切れ目のように綺麗に、深く。
血が滝のように流れ出し、森の土を赤黒く染めた。
黒角猿は数秒遅れて悲鳴をあげた。
そして崩れ落ちた。
俺の手は――何事もなかったかのように、ただの“人間の手”に戻っていた。
◆
普通なら、恐怖する。
異常だと気づく。
身体の変化を拒絶する。
だが俺は笑った。
「……すごいな。俺の身体、ちゃんと適応してる」
その声は落ち着いて、優しくて、幸福に満ちていた。
願っていた変化が訪れた子どものように。
「もっと変わりたいな。
そっちの方が……きっと強い」
その考えに、迷いも疑問も抵抗もない。
◆
黒角猿の死体を焚き火まで運び、肉を焼き始めた。
仲間の影が焚き火の向かいで揺れる。
声が聞こえる。
「今の見たぞ」
「すごかったな」
「もっとできるはずだ」
「変わっていいよ」
肯定。
肯定。
肯定。
すべてが俺を押し出す。
「そうだよな。俺は変わっていい」
自分の言葉で、自分を肯定する。
「人間である必要なんてない。
大事なのは――みんなと旅を続けることだから」
焚き火の煙が空へ昇る。
幻覚の仲間たちが、穏やかな声で囁く。
「変われば、守れる」
「変われば、奪われない」
「変われば、ずっと一緒だ」
その言葉は呪いのようで、祈りのようだった。
◆
少しずつ肉を食べる。
幸福感が脳を満たし、視界が明るくなる。
「……次はもっと変わるのかな」
期待に震える声。
「怖くないよ。
だって“強くなる”んだろ?」
恐怖の概念自体が消えていた。
変化を受け入れ、歓迎し、求めていた。
「次に変われる時が楽しみだ」
そう呟きながら、俺は焚き火の前で微笑んだ。
炎に照らされたその瞳だけが――
完全に、人間のものではなかった。




