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その悪魔が願う未来  作者: 暁 龍弥


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第10話「境界を越えた瞬間、戻らない幸福」

 風が冷たい朝だった。

 だが俺は焚き火に背を預け、うっとりした表情で欠伸をした。


「昨日、よく眠れたな……」


 外見は、普通の青年だった。

 背丈も骨格も、皮膚の色も、髪も瞳も――

 人間の姿、そのまま。


 だが内側は、もう人間ではない。


 魔物の血肉を食い続け、孤独と狂気が心を侵食し、

 幻覚の仲間たちが俺を優しく縛る。


 その“変化”は、今日ついに肉体へ波及した。



 狩りの最中だった。


 木々の間を走りながら、魔力の反応を辿っていた。

 近くに魔物の気配。強い。

 そこへ向かう足取りは軽く、期待で心が満ちていた。


「この胸の高鳴り……たまらないな」


 呟いた瞬間、魔物が飛び出してきた。


 黒角猿こっかくえん――全身が筋肉と角張った骨に覆われた凶暴な魔物だ。


 咆哮とともに拳が振り下ろされ、地面が砕ける。

 土が爆ぜ、木が倒れ、大地が揺れる。


 普通の人間なら避けられない。

 だが俺の身体は――勝手に動いた。


 意識よりも速く。


 皮膚が、骨が、筋肉が、一瞬だけ“人間ではない形”に変わった。



 ――ザクリ。


 音さえ聞こえない速さで俺は黒角猿の懐へ入り込んだ。

 腕が伸びた。

 いや、伸びた“気がした”だけかもしれない。


 認識が歪んだのか。

 肉体が歪んだのか。

 どちらでもよかった。


 爪が生えたような感触。

 骨が開いたような感覚。

 皮膚が裂け、すぐ戻ったような手応え。


 そして――黒角猿の腹が割れた。


 一瞬で。


 切れ目のように綺麗に、深く。


 血が滝のように流れ出し、森の土を赤黒く染めた。


 黒角猿は数秒遅れて悲鳴をあげた。

 そして崩れ落ちた。


 俺の手は――何事もなかったかのように、ただの“人間の手”に戻っていた。



 普通なら、恐怖する。

 異常だと気づく。

 身体の変化を拒絶する。


 だが俺は笑った。


「……すごいな。俺の身体、ちゃんと適応してる」


 その声は落ち着いて、優しくて、幸福に満ちていた。


 願っていた変化が訪れた子どものように。


「もっと変わりたいな。

 そっちの方が……きっと強い」


 その考えに、迷いも疑問も抵抗もない。



 黒角猿の死体を焚き火まで運び、肉を焼き始めた。


 仲間の影が焚き火の向かいで揺れる。


 声が聞こえる。


「今の見たぞ」

「すごかったな」

「もっとできるはずだ」

「変わっていいよ」


 肯定。

 肯定。

 肯定。


 すべてが俺を押し出す。


「そうだよな。俺は変わっていい」


 自分の言葉で、自分を肯定する。


「人間である必要なんてない。

 大事なのは――みんなと旅を続けることだから」


 焚き火の煙が空へ昇る。


 幻覚の仲間たちが、穏やかな声で囁く。


「変われば、守れる」

「変われば、奪われない」

「変われば、ずっと一緒だ」


 その言葉は呪いのようで、祈りのようだった。



 少しずつ肉を食べる。

 幸福感が脳を満たし、視界が明るくなる。


「……次はもっと変わるのかな」


 期待に震える声。


「怖くないよ。

 だって“強くなる”んだろ?」


 恐怖の概念自体が消えていた。

 変化を受け入れ、歓迎し、求めていた。


「次に変われる時が楽しみだ」


 そう呟きながら、俺は焚き火の前で微笑んだ。


 炎に照らされたその瞳だけが――

 完全に、人間のものではなかった。


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