<予備校の裏>
「トオル君は何やってはるのん?」
ミヤサワ君は真夜中の誰もいない予備校の教室の隅で、巻き尺のようなものに絡まれている男子高校生、トオル君の霊に声を掛けた。
「あなたは誰ですか?」
トオル君は一瞬びくっとしてから、ミヤサワ君に問うた。
「僕は『ミヤサワ君』だよ。トオル君を迎えに来たんだけど…変なものに絡まれているねえ。」
《絡まれているのか? いや? トオル君の方がその巻き尺のようなものに、自ら絡まっているように見えるな。》
「君の押さえ込もうとして絡まっている、この巻き尺の様なものはいったい何だい?」
「偏差値です」
受け答えで気を逸らせたトオル君はあっという間にその紐のようなものに巻き付かれて、身動きが取れなくなっていた。
「あっ、あっ! おじさん助けて!」
トオル君の情けない声にミヤサワ君は苦笑してから、その紐に触れると、触れたところから紐は、すっと消えた。
「偏差値は大学教員の味方で敵だ。戦闘経験もある。そんな実態のないものに遅れをとるものか。」
ミヤサワ君は小さな声でつぶやいた。
「おじさんは誰ですか? なんで偏差値を消せるの?」
「おじさんは生前、大学教員をしていたんだ。偏差値を『操作』する方法を知っているよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「ああ、偏差値は操作できる。指定校推薦や自己推薦入試などの年内入試で定員枠をある程度、埋めてしまえば、予備校の観測する一般入試の倍率は高くなり合格ラインも高くなり、偏差値も底上げできる。」
「…なんか、ずるいですね。」
「ずるくは無いよ。年内入試は予備校の発表する偏差値で輪切りにされ、自分の行きたい大学へ行けなくなる学生さんへの正しいチャンス供与だよ。僕は予備校の発表する偏差値もそれに踊らされる受験生も滑稽に見える。『僕は大学でこれを学びたい!』と早くから腹をくくっている受験生なら、この制度はむしろ僥倖じゃ無いのかな?」
「僕は…大学選びは偏差値で決めるベキものだと思ってました。」
「それは、全然正しくないと思うよ。 就職先を決める時に、業界や職種を研究せずに、その会社の知名度やSNSでの評判を元に決めているのに似ているね。最近の若いヒトは中身よりも『人気』を元に進路を決めるのかな?」
「だって、自分で判断なんて出来ませんよ。それに自分で何をしたいかなんて考えるのは面倒くさいじゃないですか。」
ミヤサワ君は《ヤレヤレ》と首を横に振った。
「君みたいな考えで大学や学部や学科を選ぶと、入学してから後悔するよ。最近、退学理由が『進路再考』の学生が多いのは、これが理由かな?」
トオル君はミヤサワ君のその質問から目を逸らした。そして、話しを逸らすように質問した。
「ところで、ミヤサワさんは僕を迎えに来たって… どこへ連れて行くんですか?」
「君を連れて行く先は、狭間の世界というところだよ。日本風に言えば三途の川かな?」
「ということは、僕は死ぬんですか?」
「いや、もう死んではるから…気づかなかったの?」
「…気づきませんでした。 そうか、僕はもう死んでいたのか。道理で『偏差値』を捕まえることが出来るわけだ…」
トオル君の霊は、ピチピチと頭を揺らすウナギのような偏差値を押さえ込みながら、呆然とミヤサワ君を見ていた。
「あのね。その君が捕まえている偏差値も、『幻想』だからね。実際にあるものじゃないからね。」
「…」
「だいたいねえ、人の能力をそんな偏差値などと言うひとつの尺度で見積もれるわけが無いじゃないか。偏差値は、予備校や高校の先生が学生さんの個性や適性を見なくても、その進路を決めることができるように開発されたものだよ。それに意味があるわけじゃない。偏差値を大学選びの参考にするのは正しい使い方だとしても、それに進路をゆだねるのは間違っていないかな?」
「…」
トオル君は、眉をハの字にして困ったか顔をした。そして、顔を上げてミヤサワ君を見上げた。
「それに、入学入学はスタートだよ。決してゴールではない。」
そのミヤサワ君の意見を聞いて、トオル君は、目を字分の手の中でピチピチとうごめく『偏差値』におとし、じっと見つめた。彼の手の中で『偏差値』はその色を失っていった。




