井戸端の客
夏の終わり、蝉の声も途絶えた季節。思いがけない連休に気づいたのは、土曜の夜のことだった。翌朝、軽食を買いにコンビニへ立ち寄った麻衣は、何気なく手に取った雑誌の山奥の風景に目を奪われた。深い緑に包まれた古い集落の写真が、都会の喧騒に疲れた心に静寂を約束しているようだった。
衝動的に日帰り旅行を決めた麻衣だったが、現地で開催されていた祭りに心を奪われ、気がつけば帰路のバスの最終便を逃していた。都会暮らしに慣れ切った生活で、田舎の不便さを甘く見ていたのである。行きのバスが一時間以上かかっていたことを思えば、徒歩での帰路は現実的ではない。
夕刻はとうに過ぎ、街灯もまばらな山道で、麻衣は途方に暮れていた。バスの通り道を辿って歩いているうちに、背後から声をかけられる。
「こんなところで、お一人でどうなさいました?」
振り返ると、黒い着物に赤い帯締めが映える女性が立っていた。艶やかな黒髪を後ろで結い上げ、整った顔立ちをしているが、薄闇の中では年齢が読み取れない。二十代にも三十代にも見える、不思議な佇まいの女性だった。
「すみません。帰りの便を逃してしまって。どうにか駅まで歩こうかと」
麻衣が答えると、女性は困ったような表情を浮かべた。
「こんな時間に山道をお一人では危険でしょう。もしよろしければ、今晩は私の家でお休みになっては?」
女性が指差す方向に、木造の古い家屋が佇んでいる。田舎らしい佇まいだが、特に目を引くのは庭の井戸だった。都会では見ることのない光景に、麻衣は時代から取り残されたような感覚を覚える。
ありがたい申し出だったが、見知らぬ人の家に泊まることに躊躇いがあった。
「お気遣いありがとうございます。でも、駅には歩いて4、5時間つきますし、そちらでお世話になるのはご迷惑かなと」
「お気遣いいただいてありがとうございます。でも、駅まで四、五時間ほどですし、ご迷惑をおかけするのは」
手に持っていたスマホで経路を示そうとした時、画面が真っ暗になった。バッテリー切れである。日帰りの予定で、充電残量を気にかけていなかった。モバイルバッテリーも持参していない。
その様子を見た女性は、やさしく微笑んだ。
「それでは心配です。お布団もございますから、ぜひ」
断った手前、気まずさもあったが、麻衣はその提案を受け入れることにした。
家に着くと、女性は奥の間に案内してくれた。
「ごゆっくりお休みください」
そう言って襖を閉める女性を、麻衣は座布団に正座して見送った。しばらくすると襖が開き、女性が湯気の立つお茶を運んできた。
「どうぞ」
差し出された茶碗は古く、その縁には黒い染みが浮いている。経年劣化とも思えるが、薄明かりに照らされると、まるで指紋のようにも見えた。泊めていただく身で断るわけにもいかず、麻衣は茶碗に口をつけた。
驚くほど甘く、まろやかな味が舌を通して全身に染み渡る。思わず表情がほころんだ。
「うちの井戸水で淹れました」
女性がうっすらと笑いながら告げる。
「お休みになる部屋は隣です。何かございましたら、お声をおかけください」
そう言うと、女性は再び襖の向こうへ消えた。携帯の充電ができていない以上、時間を知る術は壁にかけられた古時計だけだった。針が午前零時を指そうとしている。安堵と疲労で、麻衣は隣室の布団に横になり、いつしか意識を手放していた。
夜半、異様な喉の渇きで目が覚めた。
持参していたお茶はとうに空になっている。申し訳ないと思いながらも、麻衣は部屋を出て廊下を歩いた。すると、窓から庭の様子が見える。女性が井戸端で何かを覗き込んでいる姿があった。
深夜に井戸で何をしているのか。わずかに背筋が冷えたが、喉の渇きは限界に達していた。麻衣は外に出ることにした。
近づくと、井戸の中から一定の間隔でかすかな水音が響いている。ぽちゃん、ぽちゃん、と単調なリズムが夜の静寂を破っていた。
女性はこちらの気配に気づくと、振り返った。
「おかわりをお持ちしましょう」
既に手には茶碗が握られている。まるで麻衣が現れることを予期していたかのようだった。茶碗を受け取ると、そこからじんわりと温かさが伝わってくる。冷たい井戸水を入れたはずなのに妙だと感じたが、渇きはそんな疑念を許さない。
いざ口に運ぼうとした瞬間、茶碗の中の水面に目が留まった。月光に照らされた水面は鏡のように静まり返り、底知れぬ闇が続いている。思わず茶碗を覗き込んだ瞬間、水底から青白い顔がゆらりと浮かび上がった。見開かれた目が、まっすぐに麻衣を見つめている。
その瞬間、麻衣は理解した。
これは井戸水ではない。底に沈められた前の客なのだ。
女性の手が麻衣の背中を押した。
冷たい井戸の中へ、暗い水の底へ。
麻衣の身体が水中に沈んでいく。
井戸の水面に波紋が広がり、やがて静寂が戻った。
井戸の底で、麻衣は口を大きく開けたまま沈んでいく。やがて水面は再び鏡のような静寂を取り戻し、次の迷い客を待ち続けるのだった。