第95話 目を離すと直ぐに居なくなるのが猫
沈みかけた夕陽がサイラスの影を長く伸ばす――逆光で顔は分かりにくいが、辺りに響いた盛大な溜息から呆れた表情をしているだろう事は間違いない。
そんな溜息に、ユーリはクロエを踏みつけようとしていた足を下ろした。
「ジジイ、こんな所で何してんだよ」
眉を寄せながら、クロエの腕を縛っていたパーカーを巻き取るユーリに、「それはこちらの台詞だよ」とサイラスが頭を抱えながらユーリへ向けて歩きだした。
「上に行くと聞いていたが、まさかたった数時間で軍と……しかも佐官クラスと揉めるとは」
サイラスが再びもらした盛大な溜息を、吹き抜ける風が攫っていく。
「全く。私がたまたまここに用があったから良いものを……」
ブツブツと呟くサイラスが、ユーリを通り過ぎてクロエに手を差し出した。
キョトンとした顔のクロエがその手を握る――とサイラスがクロエを引き起こした。
「サイラス・グレイだ。ここからは貴官が案内してくれる、と聞いたのだが?」
そう言いながらサイラスが後方をしゃくれば、成程、少し遠くに軍用車両と思しき車が止まっているのが見える。
どうやらサイラスを連れてきて、ここでクロエに引き渡す予定だったのだろう。ところが当の本人が、ここでユーリと切った張ったの大立ち回りだったため、遠くに避難していたという状況らしい。
「……すまない、グレイ卿。お見苦しい所を」
そう言いながらクロエが夕陽に染まる頬をより紅く染めた。どうやら過失に気づき、それを大いに恥じているようだ。
「構わないさ。大方ユーリ君が貴官を煽ったのだろう」
溜息をつきながらユーリを睨むサイラスだが、「先に手ぇ出してきたのはそいつらだぞ」とユーリは不満顔で口を尖らせるだけだ。
「例えそうだとしても、軍と揉めるなど……」
そこまで口を開いたサイラスだが、「いや」と苦笑いを浮かべて首を振った。
「君はそういう人間だったな」
サイラスはもう何度目になるか、という盛大な溜息と共に今度はダンテへ視線を投げた。
「ダンテ君も私が来たから、と止めるのを放棄しないでくれたまえ」
サイラスの苦言にダンテは肩を竦めて「いや〜。大将が言った方が言う事きくかな〜ってね」ヘラリと笑ってみせた。
どうやらダンテは、いち早くサイラスの接近を気がついていたようで、ユーリを止める役目をサイラスに丸投げしていたようだ。
「全く……問題児ばかりだな」
片手で頭を抱えるサイラスが、クロエに再び向き直った。
「ヴァンタール少佐、ウチの支部員たちが失礼をした。きつく言い含めておこう」
サイラスの謝罪にクロエは「いや、こちらこそ――」と首を振ったのだが――
「こらジジイ。勝手に出しゃばって、挙句の果てにきつく言い含めるだぁ?」
額に青筋を浮かべたユーリが「面白ぇ、次はテメェの番だ」とサイラスに向けて歩きだ――すのをダンテが抑え込んだ。
「こら、キザ男! 放しやがれ!」
「ボーイは喧嘩してないと死ぬのかよ〜」
暴れるユーリとそれを抑え込むダンテ。その様子にもう一度溜息をついたサイラスに、クロエが苦笑いを浮かべて口を開いた。
「先程まで渦中にいた私が言えた義理ではないが……苦労しておられるな」
「ご理解痛み入る」
同じ様に苦笑いを浮かべたサイラスに、「しばしお時間を頂戴しても?」とクロエが表情を真剣なものに戻した。
それに頷いたサイラスに、「感謝申し上げる」と頭を下げたクロエが、今も暴れるユーリの下へと歩き始めた。
ゆっくり近づくクロエに「ンだ? まだやんのか?」と口を尖らせるユーリだが、クロエは真剣な表情で黙ったままだ。
ユーリの前で立ち止まったクロエが、「キッ」と目を細めてユーリを睨みつけた。
「ユーリ・ナルカミ……今回は私の完敗だ。だが、次やる時は絶対に負けない……」
クロエが少しだけ声を震わせた。恐らく彼女にとって、負けた事は相当ショックなのだろう。相手がユーリのような何処の馬の骨とも分からない輩であれば尚更だ。
それでもプライドを捨てて負を認め、ユーリに再戦を挑むのだ。本当は実直で騎士らしい性格なのかもしれない。
クロエの言葉にユーリが「フッ」と小さく笑った。クロエがプライドを捨てた事や、彼女の本質をユーリは分かっている。分かっているのだが――
「菓子折り持ってくるなら、リベンジマッチも考えてやるよ」
――それを素直に受け取らないのがユーリと言う男だ。
そんなユーリの態度にクロエの顔面が再び紅く染まっていく――
「き、きききき貴様――」
「再戦したいんなら、『お願いします』の一言くらい当たり前だろ。この負け犬野郎が」
顔を赤に染めるクロエを前に、「ケケケケ」とユーリが悪い笑い声を上げている。
それを見たカノンが苦笑いを浮かべ、
ダンテが「バカがいるぜ〜」と呆れた声を漏らし。
サイラスが溜息をついて頭を抱えた。
「だ、誰が貴様にお願いなどするものか! 不愉快だ! もう二度と私の前に現れるな!」
顔を真っ赤にしたクロエが、肩を怒らせてユーリに背を向けた。
その様子にユーリは誰にも気づかれない様に、ホッと胸をなでおろした。クロエの性格上、煽れば憤慨して有耶無耶になるだろう事を見越して煽ってみたのだが、それが上手く功を奏したようで安心したのだ。
こんな猪突猛進騎士っ娘に付き纏われては敵わない、と言うのがユーリの本音だ。ハンターとしての任務に加え、サイラス達への協力、【八咫烏】への対応、そしてノンビリした休日など、ユーリ自身クロエに時間を割くほど暇ではないのだ。
大股で踏み込むように歩くクロエの後ろ姿は、怒りを何かにぶつけなければ気がすまない。そういった雰囲気だ。恐らく軍の誰かしらが、訓練と言う名の彼女のストレス発散に付き合う羽目になるのだろう。
そんな見ず知らずの被害者へ、せめてもの感謝と謝罪の意を込めて、ユーリは静かに合掌と共に頭を下げた。
「グレイ卿! 行きましょう! ここに居ると不愉快です!」
クロエが首だけ振り返ってユーリを睨みつけた。そんな彼女にもう一押し、と言う具合に煽るような表情で手を振るユーリ。
クロエの顔が更に紅く染まっていく。どう見ても夕陽のせいではないそれに、未だユーリを拘束したままのダンテが「もうやめとけって〜」と呆れた声を出す頃、クロエは「フン」と鼻を鳴らして今度こそ背を向けてサイラスと共に高い壁の向こうへ消えていった。
残された軍人たちとユーリ達三人。
「とりあえず、今回は見逃してくれないかな〜?」
ダンテの嫌らしい提案に、ユーリは面白くなさそうに鼻を鳴らした。「見逃してくれ」こちらが、ユーリが決闘で勝っておきながらも、相手に権限があるように言っているのだ。
こちらが勝手に撤収してしまえば、軍の連中のプライドが許さないだろう。知らぬとは言え慣習を破って突っ込んできたユーリ達をみすみす逃がした事になる。
だが向こうが「見逃す」、向こうに決定権がある、と言えば話は変わってくる。向こうが敢えてユーリ達を許したという、既成事実は壁よりも高い彼らのプライドを守ってくれる。
それが分かったからこそ、ユーリは面白くないと鼻を鳴らしたのだ。
気に食わないなら、全員叩きのめせば良い。
そう言いたげなユーリの視線に、ダンテが小さな溜息とともに首を振る。
「これ以上暴れたら、支部長の雷じゃすまないぜ〜」
ダンテの苦笑いに「知ったことか」と言いたげな視線を向けるユーリではあるが、確かに落とし所としてはこの辺りが妥当なのだろうと、それ以上は口にすることはなかった。
そんな二人を前に、軍人たちが顔を見合わせ頷いて口を開いた。
「今回は知らなかったという事で不問にする。次からは気をつけるように」
騒動の終わりを告げる言葉に、「はいは〜い」とダンテが笑いながらユーリを引きずって後退し始めた。
ズルズルと引き摺られるユーリだが、
「おい、そういや猫――」
最も大事な事を思い出したと、ダンテとカノンを振り返れば、二人共「あ」と声を上げて周囲を素早く見回す始末だ。
「あそこです! 向こうの家の影に――」
「追え! 何の為に来たか分かんねぇぞ!」
「大方ボーイのせいだけどな〜」
三人が慌てた顔で猫が消えた住宅へと向けて全力で駆け出した――
☆☆☆
サイラスはクロエに連れられ、長い廊下を歩いていた。
窓から差し込む夕陽は燃えるように輝き、廊下を歩く二人の影を大きく伸ばしている。
伸びる影を従えて、サイラスが辿り着いたのは奥にある扉だ。
あまり大きくはない。そして華美な装飾があるわけでもない。どちらかと言うと、質素な作りのそれは、サイラスにとって好感触だ。……とは言え、扉の向こうの人物が、同じ様に好感触とは限らないのだが。
そんな扉の前でクロエが敬礼。
「閣下、サイラス・グレイ支部長をお連れしました」
クロエの凛とした声に、『ご苦労。お通ししろ』と扉の向こうから男性の声が響いた。
その声に「はっ」と短く返事をしたクロエが、扉の脇にあるパネルに触れた――パネルが光り、圧力が抜けるような音とともに扉が開いた。
「グレイ卿、どうぞ――」
中へと促すクロエに「案内、感謝する」とサイラスが手を上げて扉を潜った――
扉の先は、僅かに入る夕陽が照らす、薄暗い執務室であった。サイラスの執務室を彷彿とさせる作りのそれは、執務机と応接用のソファとコーヒーテーブルがあるだけの簡素なものだ。
唯一違うのは、机の向こうと右の壁に大きな窓がある事くらいか……その右側《南》の窓が夕陽の橙を拾うことで、部屋の中の物が薄っすらと浮き上がっていた。
簡素な執務室に明かりもつけずに居たのは、二人の人物――机を背に座る男性と、それに侍るように控えるメイド姿の女性だ。
その身分を考えると、この部屋はあまりにも質素すぎる気がするが、豪華で華美な物を好む連中の一員にしては好感が持てるな、とサイラスは小さく笑った。
「忙しいだろうに、急に呼びつけてすまないな」
光を僅かに受けながら、窓の外を見たまま男性が口を開いた。
「いえ、貴方の呼び出しに勝る仕事などありませんよ――」
サイラスが男性を見つめながら大きく息を吸い込んだ。
「【国土解放軍】総司令官、ロイド・アークライト卿のお呼び出しに勝る仕事など」
サイラスの発言に、ロイドが肩越しに振り返って「おべっかが上手くなったか?」と笑みを見せた。
「お戯れを。年寄を誂わないで頂きたい」
サイラスが苦笑いを返してみれば、「貴殿はまだまだ現役でいけるだろう」とロイドが笑いながら椅子ごとサイラスに向き直った。
「さて、時間もあまりない故、単刀直入に言おう」
机の上で手を組むロイド――部屋の闇が夕陽を少しずつ外へと押し出していく――それを前に腰の後ろで手を組むサイラス。
「此度の呼び出しの件、ハンター協会イスタンブール支部への協力の申請だ――」
不敵に笑うロイドを前に「協力……ですか?」とサイラスが眉を寄せた。
「ああ、協力だ……」
ロイドが言葉を切った瞬間、完全に部屋が闇に覆われた。
「我々は何としてもダンジョンを見つけたい。その作戦への協力を要請する――」
真っ暗な部屋に、ロイドの声だけが不気味に響いた。
☆☆☆
「んまー。エリザベスちゃーん」
依頼人の中年女性が、嫌がる猫を抱きしめながら頬ずりをする前で、
「ドラ猫め」
「シーッです」
「色々疲れた〜」
と三者三様の感想を漏らすユーリ達。
髪の毛や服に刺さった無数の植物や小枝から、かなりの激闘があったことだけは分かるが、誰も彼もがそれを口にはしない。
既に陽は落ち、太陽の恵みがある上層も闇に包まれる時間帯だ。早く帰ってシャワーを浴びて食事をして……そんな事を考える三人ではあるが、もう少し後でもいいかな。とも思っている。
なんせ散々苦労させてくれた猫が、中年女性からの熱い抱擁に苦しんでいるのだ。その姿をもう少しだけ堪能してもいい。そう思う三人であった。
「これ。また逃げるぞ」
「だからシーッです!」
「俺はもう手伝わねえからな〜」




