序章 その出会いは偶然で
西暦2XXX年、ユーラシア大陸中央西部イスタンブール。
都市を覆う巨大なプレートの隙間から、差し込む陽の光が下層の街を柔らかく照らしている。旧時代からの名残が見える建物から、巨大な摩天楼まで。雑多な建物が所狭しと並ぶのが、今の時代のイスタンブールと呼ばれる街だ。
そんな街の一画、下層でも旧時代の建物が多く残る区画……
「さあ、寄ってってくれ!」
「工場直送、新鮮な野菜だ!」
「何のこっちは、今朝仕入れたばかりの天然物だよ!」
通りに並ぶ雑多な屋台からは、威勢のいい声が聞こえてくる。ちょうど昼飯時とあって、通りを歩く人々が多いのも彼らの呼び込み熱に拍車をかけているのかもしれない。本来はかなり広い通りなのだろうが、左右に並ぶいくつもの屋台のせいで、少々道幅が狭くなっている事は問題か。
今も通りを歩く人同士の肩がぶつかるのだが、それは日常茶飯事と、お互い特に気にする素振りもなく通り過ぎていく。彼らの興味が喧嘩などの雑事よりも、屋台から漂う匂いというのも大きな理由かもしれない。
とにかくそんな屋台通りを、人々にぶつからぬよう目を輝かせながら器用に歩く青年が一人。浅く被ったフードから見える黒髪黒目の青年、名をユーリ・ナルカミ。長身かつ鍛え抜かれた体躯と、整った目鼻立ち。多くの異性が振り返ってしまいそうな男だが、今は完全に食欲に支配された餓鬼のように、屋台を物色している。
とある事情でここ数日、干し肉ばかりを齧っていたユーリからすると、この通りは当に食の宝石箱と言っていい場所なのだ。だからだろうか、どこからともなくフワリと香るパンの匂いに、ユーリは主張する腹の虫をなだめるように、胃を上から押さえた。
「呼んでる。炭水化物が俺を呼んでいる」
人通りの多い通りを、ユーリがノシノシと歩く。先程まで器用に人波を縫っていた男とは思えぬほど、堂々と通りの真ん中を最短距離で歩くユーリの目には、まだ見ぬパンが映っている。
遠くから漂うパンの香りに誘われ、意気揚々と進むユーリの視線の先に、通りのド真ん中を占領する男達の背中が見えてきた。まだ遠いこの位置からでも、背はユーリ同様高く、幅はユーリよりも広いことだけはわかる。
「ンだァ? あの邪魔な木偶の坊は……」
眉を寄せ、独りごちるユーリの言う通り、通りを歩く人々も迷惑そうな顔を浮かべつつ、それでも男達と視線を合わさぬよう俯いて端を通り過ぎるだけだ。天下の往来で何とも邪魔な連中だ、とユーリが思ったその時、
「お、お断りします」
と男達の向こうからか細い女性の声が聞こえてきた。
「いいじゃねーか。アンタのせいで痛めた肩を、向こうの路地裏でちょーっと優しく介抱してくれるだけだって」
ゲラゲラと笑う男達だが、「何見てんだよ」と目が合った男性に睨みを効かせ、それに萎縮するように周りを歩く人達も男性も目を逸らして通り過ぎていくだけだ。
恐らく男達が誰かに絡んでいるのだろうが、この世界ではある意味で日常茶飯事だ。突如として現れたモンスターのせいで、世界が一変した今の世の中では、この程度の騒動は珍しくもない。
通りを歩く人々は、自分に火の粉が降りかからぬよう、ただ嵐が過ぎるのを待つように、道の端でやり過ごすだけ。それもこの世界では日常茶飯事……なのだが――
「おいこら木偶の坊。退け」
男達の背後から声をかけるユーリに、ちょうどその場を通っていた男性がギョッとした表情を見せた。巻き込まれるとでも思ったのか、男性が慌ててその場からダッシュで逃げ出したのと同時、男達が「あ゙〜?」とドスを効かせた声で、ユーリを振り返った。
首だけで振り返り、無言でユーリを睨みつける男達の目は「あっちに行ってろ」とでも言いたげだ。もちろんユーリにもそれは通じているが、それに同意出来ないのがこのユーリ・ナルカミという男である。
「ナンパがしてぇんなら、他所でやれ。往来の邪魔だこのデブ」
ユーリの言葉に、男達の蟀谷に青筋が浮かぶ。
「おい兄ちゃん。今のはもしかしてだが……俺達に言ってんのか?」
睨みつける男を、ユーリが鼻で笑い飛ばした。
「テメェら以外誰がいるんだよ。ンなことも分かんねぇなら、無理して文明社会に馴染まなくていいぞ」
嘲笑を浮かべ、「今すぐオークの里に帰れ」と言うユーリに腹がたったのだろう、男達三人がユーリへまっすぐに向き直った。
「いい度胸だな」
「俺達の邪魔をすると、どうなるか教えてやろうか?」
指をポキポキと鳴らし、ユーリを睨めつける男達だが、ユーリはそれすらも鼻で笑い飛ばす。
「お前らの邪魔だぁ? 勘違いすんな。お前らが俺の行く道を邪魔してんだ。殺されたくなきゃさっさと退け」
ポケットに手を突っ込んだまま、顎で通りの端をしゃくるユーリが、「俺の視界の外でやれ。したら見逃してやるよ」と笑った時、男の一人がユーリの胸ぐらを掴んだ。
「テメー……」
男が憤怒の表情で、ユーリの胸ぐらを捻り上げると、ユーリの胸元から小さな木製のタグがフワリと舞った。千切れて飛び出した安っぽいタグに、男達が一瞬目を剥き、そして直ぐにその顔を下卑た物に変えた。
「ウッドのガキが、粋がってんじゃねーぞ」
男がユーリに顔を近づけたその時、
「ゴフッ……」
身体を〝くの字〟に曲げた男が口から血を流し、ユーリの目の前に膝をつく。男は何とか耐えようと、腹を押さえて身体を震わせるのだが、耐えきれなかったのだろう、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
男を見下ろしたユーリが、少しだけ伸びてしまった自分のTシャツの首部分を軽く引っ張る。
「Tシャツ代、弁償しろよ」
男の顔面を蹴り上げたユーリが、ひっくり返った男の腕についたデバイスを引きちぎった。端的に言えば財布を分捕ったに近い行動のユーリは、悪びれる様子もなく倒れた男の指をデバイスに宛てがい、通りのド真ん中で堂々とそれを立ち上げた。
「て、テメー! 何やってんだ!」
仲間の一人が声を張り上げるのだが、「うるせぇな。慰謝料だよ」とユーリはしかめっ面でデバイスを操作し続ける。
「ちっ、しけてんな」
男の持っていた金を、自身のデバイスに送信したユーリが、空になったデバイスを倒れた相手の口にねじ込み……男の横っ面ごと踏み抜いた。
肉と骨が潰れる音とともに男の口の端から血と涎が撒き散らされ、ユーリの履く軍靴のような編み上げブーツの爪先を汚す。
「きったねぇな……」
爪先についた血と涎を、倒れた男に擦り付けたユーリが、男達へと向き直った。
「おい。テメェらも有り金全部寄越せ。慰謝料だ。俺の時間を無駄にしたことへの――」
悪びれる様子もなく、「くれくれ」と手をクイクイ動かすユーリの異常性に、男達も分が悪いと感じたのだろう、ユーリから一歩後退り、焦ったような顔で声を張り上げた。
「て、テメー。さっきのタグはハンターだろ? 能力者が一般人相手に――」
叫ぶ男が声を出すこともなく吹き飛んだ。
ユーリの足刀蹴りによって、喉を潰された男が通りをゴロゴロと転がり、残った男がその仲間を振り返った瞬間、
「一般人だぁ? モグリが何言ってんだよ」
悪い顔をしたユーリの拳骨が、男を地面に叩きつけた。
地響きすら発生する一撃に、男は地面にめり込み完全に沈黙。
舞い上がる砂塵に、ユーリが「くそ、健康に悪いだろ、これ」と顔の周りを払ったその時、ユーリは薄れた砂塵の向こうにいる女生と不意に目が合った。
白銀のロングヘアに陶磁器のような白い肌。整った外見とは裏腹に、苦労が垣間見える薄汚れたエプロン姿の女性は、蒼海を切り取ったような瞳を驚いたように見開き、ユーリを見つめている。
(やば……)
目が合った瞬間、ユーリは何故か隠れないといけない、そんな焦燥に駆られ、フードを深く被り直した。
「あ、ありがとうございます――」
「勘違いすんな。別にアンタを助けたわけじゃ――」
頭を下げる女性にユーリが面倒そうな顔を見せた時、通りの向こうから警笛が響く音が聞こえてくる。
「チッ……まだ登録も終わってねぇのに、捕まったらマズいな」
独りごちたユーリは、男達にチェーンを千切られたタグを拾い上げるとユーリは急いでその場を後にした。
急ぎ駆け出したユーリの手元にあるタグから、千切れたチェーンがスルスルと落ちる。
「あ、あの――」
女性が慌ててそれを拾うが、ユーリの姿はもうそこにはなかった。
ユーリが遮二無二逃げるのは、ここで捕まるわけにはいかないからだ。なんせ、ユーリはまだ不法滞在者でしかないのだから。
アングラから出てきたばかり、街へは偽造のタグで侵入したばかり。今捕まれば、それこそ喧嘩のお灸くらいでは済まない。確実に処刑台真っしぐらな事態に、ユーリは「三十六計逃げるに如かず」と、通りを抜け、路地を駆けていく。
この巨大迷路のような、イスタンブール下層街を、道も分からぬままただひたすらに――
「どっちに行った?」
「あっちだ!」
逃げるユーリも、所々で鳴り響く警笛も、この巨大迷路のような下層街では、小さなゴマ粒のような出来事だ。いや、ユーリ達だけではない。この下層そのものが、下層の天井たるプレートの上にある上層からしたら、気にも留めない小さな存在。
そしてこの巨大な二層式の街を取り囲む、黒い壁の向こうに広がる世界からしたら、この街すらちっぽけな存在と言えるだろう。
なんせ街の外にある広大な世界は、人類ではなくモンスター達のテリトリーなのだから。
壁の外には、今もモンスター達が人類を滅さんと、闊歩しているのだ。
これはそんな世界で、アンダーグラウンドから表の世界に現れた非常識な問題児ユーリと彼の仲間の物語。そして――。
「どうしよう、これ。協会に行ったら会えるかな――」
既に見えなくなったユーリの背中に、女性がポツリと呟いた声は誰にも届かない。
そして――この偶然の出会いを果たした二人が、ともに運命に抗い世界を救うまでの物語。