蠍の星-1
森を抜けた先に小さな浜辺が佇む。
静かな波の音と、時折風が吹けば木の葉が揺れる微かな音だけが聞こえる。夜の海に月の光が差し込んで、白い橋が架かっているように見えた。
「とても静かね」
砂浜の上で、尾鰭を抱えて座るセレナが口を開いた。
「うん。波の音がよく聞こえる」
隣で同じように座るシャウラが頷いた。
シャウラはセレナよりも頭一つ分背が高く、顎の輪郭に沿って左右に分けられた前髪から鼻筋の通った端正な顔が覗く。腰まで届きそうな後ろ髪を後頭部の辺りで一つに束ねている。
本来は華美な装飾やフリルで着飾るジュストコールを何の装飾も施さずに羽織っているが、生地の光沢や、前立てや袖口にあしらわれた控えめな刺繍のきめ細かさが上質なものであると物語っている。
セレナはシャウラの姿をまじまじと見つめた。
(素敵な人。何度も会っているのに、未だに夢みたい)
夜に映える姿と静かな声。セレナはすっかり恋に落ちていた。
(今のあたしたち、恋人同士に見えたりするかな……なんて)
セレナはふんわりと空想を始めた。脳内が賑やかになってきた頃、冷たい風が二人の髪を揺らした。
「風が出てきたかな。寒くはない?」
「寒くないわ。で、でも……」
「でも?」
「貴方にくっつく口実にしてもいい?」
セレナはありったけの勇気を振り絞り、耳まで赤くして問いかけた。
「うん、いいよ」
シャウラは柔らかく微笑むと、セレナの肩をそっと引き寄せた。
「えっ、あっ、えっ?」
「こうした方が暖かいよ」
シャウラの手の感触が外套越しの肩へと伝う。
「あたしもこのままがいいわ……」
セレナはぎこちなく彼に凭れた。二人は寄り添いながら、夜の海を眺める。
「……シャウラって変わった名前よね? あまり聞かない言葉だわ」
セレナは何気なく尋ねた。
例えば、セレナの本名はセレナーデ。音楽を愛する父が付けた。
人魚たちは生まれ持った性質で、別の言語を用いても意思の疎通が図れる。
その為に、セレナのように文字や、言語の違いを判別できる者は極めて少なかった。
そんなセレナにとっても、シャウラという名も、シャウラが使う単語も耳に馴染みがないものが多かった。
「ああ、俺はずっと北の砂漠の方の生まれだから」
「砂漠って水がないところでしょう? 海の方まで本が届かないのね。シャウラってどんな意味なの?」
「…………」
セレナの問いにシャウラは物悲しそうに瞳を伏せた。
しばしの沈黙の後、セレナが訂正を試みるよりも先にシャウラが口を開いた。
「針。蠍の」
「針?」
一度頷いて、シャウラは続けた。
「蠍は北では王を守る者と言われていて……俺の父さんは偉大な王になるといつも言ってる……それで、俺は王を守る為の生き物ってわけ」
シャウラは自嘲気味に語った。それは、悲しみや怒りを全て諦めてしまったようだった。
「蠍って素敵じゃない。シャウラは蠍が嫌い?」
瞳を輝かせるセレナに、シャウラは訝し気な視線を送る。
「好きじゃないな。毒を持つ獰猛な生き物だ」
シャウラはまるで自分がそうであるかのように愚痴を零す。
「……遠い島国の本で、蠍は心優しい生き物だと伝えられているのよ。他にも乱暴者の狩人をその毒で退治した、とか」
セレナは小さく息継ぎをしてから、ゆっくりと空を見上げた。
「今日はちょうどよく見える。あの赤く光る星、あれが夏の夜に見える蠍の星よ。燃えるような深紅の光が、地上を照らして守ってくれるの」
「蠍の星……?」
雲一つない夜空に、幾多の星が眩しすぎる程に輝いていた。その中でもひときわ赤く、蠍の星が瞬いている。空を見上げるシャウラの琥珀色の瞳に、蠍の赤色がくっきりと映った。
「星の名前になるくらい立派な生物よ。もっと胸を張ってほしいわ」
セレナが弾けるような笑顔を向けると、
「うん……、初めて自分の名前が悪くないかもって思った」
シャウラもつられるように微笑んだ。
「誰かを守れるって素敵なことよ。それじゃあね」
セレナは手を振って、海へと帰って行った。
ぱしゃんと水飛沫が跳ねると、すぐに静寂が戻った。