四人の朝
翌朝、彼方はいつも通りの時間に起きる。
そっと自室の扉を開いて共用部屋の様子を窺うと、アトォはすでに起きていて、なにやら本を眺めていた。
共用部屋には彼方や恭介がマケットで買って読み終えた本が何冊か放置されており、どうやら、それを手に取ったようだ。
「あ、おはよーございます」
「はい、おはよう」
こちらに気づいたアトォが彼方の方に顔を向け、挨拶してくる。
「それ、読めるの?」
「文字は読めませんが、絵は見られます」
アトォは、そう答える。
「これは、書物、で、いいんでうすよね?
これほど大量の紙を、はじめて目にしました。
とても贅沢だな、って思います」
「そうか」
彼方は、頷く。
「そっちでは、紙は貴重品なの?」
「というか、ほとんどありませんね。
わたしも、話に聞くだけで、実物を見たことはありませんでした」
アトォは、質問に答える。
「なにかを書きつける用があったら、薄くした木を使います。
セッデスの人たちは、柔らかくなめした革に書くこともあるそうですが、それも貴重な品で、特別な時にしか使わないそうです」
紙の製法が伝わっていないのか。
それとも、紙の原料になるような植物が生えていない環境なのか。
いずれにせよ、向こうでは、紙はほとんど使われていないようだった。
そこへ、マーケットの使用法などを伝えたわけで、あちらでは今後、価値観の崩壊が起こるのじゃないか。
などと、彼方は想像する。
「顔洗うけど、どうする?」
彼方は、アトォにそう声をかける。
「なんだったら、こちら風の歯の磨き方とか、教えるけど」
「はい」
アトォは、素直に頷く。
「おつき合いさせていただきます」
基本、利発で、素直な子だよな。
と、彼方は思う。
育ちがよいのだろうか。
「アトォさんは、いい家柄の出とかなの?」
「いい家柄、という意味がわかりません」
彼方が質問すると、アトォは即答する。
「身分、という意味でなら、フラナの一党はあまり、血筋で上下関係を決めないんですよね。
どこの家に生まれても、本人の能力に応じて仕事を割り振られますし。
わたしは、たまたま、多少は精霊と意思を通じ合わせられたので、幼い頃から巫女組に預けられているのですが」
なら、あくまで個人的な資質、ということか。
「巫女さんかあ」
彼方は、声に出しては、そう呟く。
神社で赤袴を身につけている方々、ではなく、あくまでフラナの文化の中で、巫女だと位置づけられているわけだが。
「精霊、って、本当に居るの?」
「少なくとも、あちらには居ましたね」
そういってから、アトォは細かく身震いをした。
「その、うぃ様ほど強力な精霊は、流石に居ませんでしたが」
あの野生の精霊、そんなに凄い代物なのか。
キッチンに降りて、アトォに新品の歯ブラシを渡す。
「それで、この歯磨き粉をにゅと歯ブラシに出して」
彼方は、自分で実演して見せた。
「こう、歯ブラシで、歯をまんべんなく、こする。
歯磨き粉は、変な味がすると思うけど、あとでうがいして吐き出して。
多少は飲んでも害はないけど、これ、基本的に食べ物ではないから」
「はい」
アトォは、素直に頷いて自分の歯ブラシに歯磨き粉を出して、自分の口の中に歯ブラシを入れる。
「うっ」
想定外の味だったのか、一瞬、身震いしたが、それ以降は普通に歯を磨いていた。
うがいをしてから顔を洗い、彼方はアトォにも新品のフェイスタオルを渡す。
アトォも、顔を洗ってからフェイスタオルで水分を拭き取った。
「これからどうするんですか?」
「朝の日課を済ませたあと、朝食作りかな」
アトォに問われたので、彼方は答える。
「ぼちぼち、あとの二人も起きだしてくると思うし」
「お供します」
断る理由もなかったので、彼方はアトォを伴って家の外に出た。
発電機の燃料を補充し、給水塔に魔法で水を補充する。
「寒くない?」
「寒いですけど、我慢できないほどでもありません」
「素直に上着を着なよ」
彼方は、アトォにサイズを確認してから、ライトダウンジャケットをマーケットで買って渡した。
「とりあえず、これ着てて」
「あの、昨夜も、ハルカ様からいろいろいただいていますし」
「いいから、遠慮しない。
こっちはポイントが余っているくらいだし、それに、アトォさんはうちのお客様なんだから」
家に戻ると、恭介と遥が起きていて、キッチンで朝食を作っていた。
挨拶を交わして、彼方も朝食作りを手伝おうとしたが、
「手が足りているから」
と二人に断られる。
「いつもこんな感じなんですか?」
「だいたい、こんなもんだねー」
味噌汁の鍋を見ながら、遥が答える。
「家事は基本、手が空いている人がやる感じ。
三人とも忙しい時なんかは、ちょー手抜きになるけど」
ご飯と味噌汁、焼き魚に香の物という日本風の朝食は、アトォにも不評ではなかった。
「ご馳走ってわけではないけど、うちらの国の標準的な朝食、になるのかなあ。
トーストとコーヒーだけで済ます人も多いけど」
と、遥が説明する。
「味噌汁、大丈夫だった?
慣れないと、塩味がきついかも知れないけど」
「塩も、あちらではそれなりに貴重品ですので」
彼方が訊くと、アトォはそう答える。
「かえって、ありがたいくらいです」
「ありがたい、か」
恭介が、呟く。
「それ、味の評価じゃないよね」
「でも、そうか」
彼方が、いった。
「あちらは、海が遠いの?」
「かなり、遠いですね」
アトォは、即答する。
「ほとんどの人は、一度も見ないまま生を終えます。
わたしも、見たことがありません」
「じゃあ、塩はどこから?」
「少し遠いですが、いくつか、岩塩の産地がありまして。
それと、食べ物に含まれているもので、自然に摂取する感じです」
「うーん」
彼方は、難しい顔になった。
「そういう経済も、マーケットがあるだけでがらりと変わってくる可能性があるなあ」
「少なくとも、栄養状態は大きく改善されるだろうな」
恭介が指摘をした。
「ポイントさえ稼げれば、飢えは駆逐されるはずだし」
「今さらだけど、社会全般に与える影響、大きすぎない?」
「本当に、今さらだなあ」
恭介は、そんな風に答える。
「影響は大きいが、少なくとも悪い影響ではない。
今の時点では、そう納得するべきじゃないか?」
「文化破壊の観点とかは?」
「二の次三の次の問題だろ、それは。
まずは、死ななくてもいい人が死ににくくなった。
そのことを、喜ぶべきだ」
「あの」
アトォが、遥に顔を向けて、確認する。
「お二人のいっていることが、半分も理解出来ないのですが」
「あー。
いつのものことだから、放っておいていいよ」
遥は、投げやりに答える。
「うちの男どもは、だいたい、こんな感じだから。
意味不明でも、しばらくは放っておいてあげて」
「はぁ」
アトォは、小さく頷く。
彼方と恭介も、別に感情的に口論をしているわけではない。
というより、あえて極端な前提を口にして、その対論を引き出す。
そんな、遊戯めいた対話をおこなっているように見受けられた。
この三人と同じ年頃の同族たち、その顔を思い浮かべて、アトォは、違和感をおぼえる。
フラナの一党には、こういう理屈っぽい子は、いなかったなあ。
これは、この二人だけの特性なのか。
それとも、この地の人々に共通する性質なのか。
もう少し、様子を見る必要がありそうだ。




