帰還
少し前のことになる。
亥のダンジョン、その扉の前で意識を取り戻した恭介は、体中が痛むことに気づいた。
痛みを感じる、ということは、死んではいないのか。
のろのろと、そう思考し、なかな持ちあがらない腕を無理に動かして、ひときわ痛む右目の周辺を手探りで確認する。
あ。
大きく、陥没している。
これは、下手すると、脳まで圧迫されているな。
などと考えつつ、回復術を反射的に使う。
陥没していた頭骨が勝手に修復され、元の形に戻ろうとする。
その過程でまた大きな痛みを感じるのだが、恭介は、それを無視した。
実は、この程度の痛みを感じることには慣れてきていて、恭介はそれと共存することを学びはじめている。
なにより、回復術により、確実に修復されることがわかっているので、多少の痛みはあえて無視するようにしていた。
痛覚よりも、身体の機能回復の方を優先するべきであり、もっと切実な要請であると判断しているのだ。
手探りで右眼窩周辺の回復を終えると、紗が掛かったようにぼんやりしていた視界も、明瞭になる。
記憶はなかったが、損傷状況から見て、頭部を強打したことは明らかだったので、欲をいえば精密検査などを受けたいところであった。
が、ここはあいにく、元の世界ではない。
精密検査に必要な設備も人員もいなかった。
実際に出来ることは、回復術の機能を信頼する、しかない。
次の点検を開始する。
視覚と触覚で、体のあちこちを点検した。
痛みは、ほとんど体中に感じていた。
特にひどい右腕を確認すると、上腕部であらぬ方向に折れ曲がっている。
手で曲がっている周辺を探っても、肉の内部で骨が細かく割れている様子もない。
単純骨折ってやつかな。
そう思いつつ、恭介はそこにも回復術をかける。
曲がっていた骨が急に動き出し、強引に元の形に戻ろうとする。
当然、強い痛みを感じたが、恭介はなんとか低いうめき声を出すだけで我慢した。
左足首も、本来ならばあり得ない方向にねじられている。
痛みはないが、手で探るとその部分に奇妙な感触があり、骨が細かく砕けていることがわかった。
おそらく、だが。
粉砕骨折というやつで、同時に、その部分の神経ごと、やられている感じなのだろう。
かろうじて、血流は足先まで届いているようだが、その他の運動に必要な機能は、ほとんど死んでいる状態だった。
狂戦士として戦っていた時に、意識しないまま、出血を止める程度の回復術を使っていることは、これまでにもあった。
おそらく、だが、失血しすぎると気を失うと、それ以上、戦えなくなるので、狂戦士のジョブであっても、最低限の回復はする。
そういうことに、なっているのだろう。
これも、恭介は回復術を使って、どうにか元に戻す。
その他にも細かい傷はあちこちに残っていたが、そこまで大きな損傷を元に戻せば、どうにか拠点までには帰れそうだった。
どうにか、生き残ったか。
と、恭介は思う。
単身でダンジョンマスターに挑むのが、ある種の自殺行為であることは、恭介自身も理解はしていた。
ただ、現状、この方法の他に、この亥のダンジョンを攻略する方法が思いつかない。
さらにいえば、多少なりとも成功の可能性を持つプレイヤーは限られていて、恭介自身の成功率が一番、高そうに思えた。
ドラゴン戦の時と同じく、一種の賭けであったが、どうやら今回も、ぎりぎりで勝ち越したようだ。
もっともない勝ち方だという自覚はあったが、もっとスマートな勝ち方を思いつかなかったのだから、仕方がない。
立ちあがり、体中に付着した土埃などを手で払う。
服も、かなり損傷していた。
酔狂連最新作の、かなり強靱な繊維で作られたものだったが、対マスター戦ではこうなるようだ。
あちこち破れた服の上に、倉庫から出したコートを纏い、同じく倉庫から出したマウンテンバイクに跨がる。
今の状態では、歩くよりも、自転車に乗る方が、まだしも楽だった。
帰ったら、また怒られるのだろうな。
と、恭介は、思う。
特に、遥に。
恭介とて、自分を案じている人たちを無闇に怒らせたいわけではないのだが。
しかし、元の世界に戻る手掛かりがほとんどない現状では、全ダンジョンマスターを倒すのが、一番、確実性が高い。
そのまま素直に元の世界に返して貰えるとは、恭介自身も思っていなかった。
が、少なくとも、帰還するためのなんらかの手掛かりくらいは、掴めるのではないか。
恭介は、そこに一縷の望みを託している。
そのためには、何度か死んでもいいか。
と、思うくらいには。
拠点に戻ると、訓練に参加していた人たちにドン引きされた。
どうやら、恭介の今回の行為は、彼らにとってかなり非常識な行為であるらしい。
恭介にいわせれば、
「リスクは最小に止めているし、他に手掛かりらしいものがないのだから、仕方がないではないか」
ということになるのだが、彼らの認識では、今回の恭介の行為は、どうやら自傷行為と似たり寄ったりであるようだった。
割と、冷静にリスクとリターンを計算しているつもりなのだがなあ。
と、恭介は思う。
聖女が居ることで死んでも復活可能なこの環境。
それに、ダンジョン内部で死んだらその旨、全プレイヤーにアナウンスされることも、周知の事実となっている。
仮に、自分がダンジョン内で死亡したら、ほぼ確実に、宙野姉弟は自分を復活させてくれる。
その、はずであった。
ここでの死と、元の世界での死は、その前提に立てば、大きく意味が違ってくる。
しかし、彼らにとって死とは、なんの種類もなく、単純に死でしかなく、その意味するところも、元の世界と同一だと認識している。
認識の切り替えをしている自分がドライ過ぎるのか、それとも、まだ切り替えが出来ていない彼らの方が、頭が固いのか。
そのどちらが正しいとも、いえなかった。
ただ、圧倒的な多数派なのは彼らであり、感覚がおかしいのは自分である。
ということは、彼らの態度から、十分に理解が出来た。
こんな世界に来ても、おかしいのは、おれか。
と、恭介は思う。
宙野姉弟も、自分の感覚に精一杯合わせてはくれるのだが、頭では理解してくれても、心の中から共感してくれるわけではない。
わかりきったことではあったが、恭介は、この世界でも孤独だった。
奇異の目で見守られつつ、亥のダンジョンでの出来事をざっと説明し、恭介は、
「疲れているから」
といって、自宅に戻る。
遥が、当然のようについて来た。
「無理していない?」
「無理は、していないよ」
帰る途中、そう訊かれたので、恭介は反射的に答えている。
「いつもの通りさ」
いつもの通り。
元の世界で普通に暮らしている時でさえ、恭介は、自分の感覚と他の人たちの感覚が、大きくズレていると感じることが多かった。
だから、今回のこれも、「いつもの通り」なのだ。
元の世界と、同じ。
いつもの通り、さ。
「普通にしているけど」
遥は、さらに、そんなことをいって来る。
「本当は、見えないところとかに、もっと深い傷とか負ってるんでしょ?」
「痛みは、当然あるよ」
恭介は、そう答えた。
「ただ、損傷の度合いまでは、自分では判断がつかないな。
一応、ダンジョンを出たところで、自力で歩ける程度にまでは治して来たつもりだけど」
「家に戻ったら、詳しく調べないとね」
遥は、かなり真剣な面持ちになっている。
「それもお願いしたいけど、まずはシャワーを浴びたいな」
恭介は、そういった。
「傷の治療とかは、そのあとでゆっくりとやればいいよ」




