070 チヒロラは、とっても退屈なのだった
うっそうと茂る森の中に、ポツンと簡易テントが張られていた。
三方に細い棒を刺し、それを中央で束ねて、三角錐となる小さなテントだ。
テントを覆う白地の幕には、赤い線で複雑な文様が描かれている。
そのテントの前で、二本の角をメトロノームのように揺らして、退屈そうに座る少女がいた。
ゆるふわカールの銀髪もゆれて、金色の瞳がクリクリと可愛らしく動く。
鬼の子、チヒロラである。
チヒロラは、テント内のお師様に声をかけた。
「お師さま、大丈夫ですかー」
すると間をおいてテント内から、くぐもった声が聞こえてくる。
「大丈夫だー」
チヒロラはそれを聞いて、小さなため息を付いてしまう。
ここ七日間、お師さまはずっとテント内に籠り切って、出てこないのだった。
チヒロラから声をかけないと、何も話をしてくれないので退屈なのである。
七日ほど前に、空に向かって身振り手振りしているとき、また「帰って来い」と言われたらしい。
けれどお師さまは、「黒き萌える輝き」にあともう少しの所まで来たので、帰りたくない。
だからまだ行けるからとか何とか言って、会話を切ったらしい。
そしてため息をつき、少しボンヤリする。
落ち込んでいるかと言えば、そうでもなかった。
待たせているのだから、もっと早く進もうと考えて、次の日には無理に北へ行こうとするのだ。
その結果、濃い瘴気を浴びすぎて、また動けなくなってしまった。
大分、粉が吹いてしまい、ただいま結界内で体を修復中なのである。
逆にチヒロラは、北に行くほど調子が良くなっていくのだが……チヒロラはもう一度ため息をついた。
「はー」
もう七日も経っているので、お師さまの体はかなり復元できている。
なのでチヒロラのため息は、お師さまを心配してのものではない。
退屈から来るものだ。
チヒロラが一人で散歩しようとすると、お師さまが危ないからと言って止めてしまう。
初めは素直に従っていたチヒロラも、流石に七日目ともなると不満がたまってくる。
「お師さまは、あぶないと言うけれど、チヒロラだって強いんですよー」
チヒロラはそっとむくれて、つぶやいた。
チヒロラは、そこそこ強さには自身があるのだ。
もって生まれた治癒力は、お師さまの魔法にだって負けていないと思う。
更に生まれながらのスキルとして、チヒロラは炎が使えるのだ。
だから一人では危ないと言われると、思わず頬を膨らませてしまう。
「お師さま、チヒロラだってすごいんですよー」
今のお師さまは体力を回復させるため、活動を最低レベルに抑えている。
生者に例えれば、ずっとウトウトしている状態だ。
アンデッドであるお師さまは「アンデッドは寝ない」と言うけれど、チヒロラには活動を抑えている状態と、寝ている状態の違いがよく分からなかった。
「お師さま~」
チヒロラはもう一度、声を掛けてみる。
しばらく待つと……
「ふが……」
何だか、返事らしきものがきた。
「やっぱり、寝ていると思うんですけどー」
チヒロラは二本の角をゆっくり揺らすと、小さな声でお師さまに話しかける。
「お師さま、チヒロラは少し、お散歩してきますね」
チヒロラは、お師さまの返事を待たずに、そっとテントから離れていった。
初めての一人歩きである。
一人で森を歩き、見知らぬ葉っぱを摘まんでは眺める。
同じ山でも、場所によって微妙に植生が違う。
チヒロラは、そこが面白いと思う。
「うん、違うね……うん……へへ」
こんな事を一人で考えるとは、まるでお師さまみたいではないか。
「チヒロラ見てごらん。これは違うのだよー。へへへ」
お師さまの口真似をして、ご満悦である。
お師さまと同じ形にしたローブをはためかせて、手頃な草を根元から引っこ抜き振り回す。
魔法の杖のかわりだ。
いつかお師さまみたいに、色々な魔法が使えるようになりたい。
それが、チヒロラの夢だった。
そうしたらきっと、お師さまのことを手伝えるから。
チヒロラはとっても気分が良くなって、足取りがフワフワしてしまう。
森ではすぐ方向が分からなくなるが、チヒロラは気にしなかった。
そんな夢見る少女の真後ろに、いつの間にか大型の肉食獣が張り付いている。
音もなく近付いてくる。
ぴょんぴょんして進むチヒロラは、全く気付いていない。
忍び寄る獣は、鼻先をチヒロラの後頭部に近付け、匂いを豪快に嗅いだのだった。
ぶほーーーーっ
「ひいいいいいいいっ」
チヒロラは鼻息が聞こえるまで全く気付かなかったから、振り向いて腰を抜かしてしまった。
「ふあっ!」
そこには見上げるほどの大きな獣がおり、鼻先にはチヒロラを、軽々と飲み込めそうな口があった。
チヒロラは、獣の口から目が離せなくなってしまう。
口から覗く牙は、一本一本が鋭く尖ったナイフのようだ。
いくら治癒力が高くても、首を食われたら終わりだろう。
――森にはお前など、丸吞みにできる輩がゴロゴロいるからな
以前、お師さまから言われた話しが、チヒロラの脳裏によぎった。
「ふあああああああっー」
チヒロラの自慢の炎は、心が乱れて出そうとしても、湿った薪のように付いてくれなかった。
獣の鼻息で、前髪がゆれる。
「ぶ、ぶあ゛あ゛あ゛……」
チヒロラの瞳から大粒の涙がこぼれた――
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