651 楽市は、穏やかに腑抜ける「楽市沼」
新しく移住者たちの街となった、ハインフックの朝は早い。
街をぐるりと取り囲む、高さ20メドルの城壁。
獣人の女たち数百人が、その最上部の通路で昨日採取した木の実、草の実、シダ類の若芽、クリム貝などを、通路に広げて天日干しにしていた。
城壁から山々を眺めれば、ほったらかしにされていた段々畑が見える。
そこでは、放置されても平気で生えていたキビに似た穀物を、雑草ごと刈り取る男たちの姿がアリンコのように見えた。
他に見えるのは昨夜仕留めたモースやイナシルを、川辺で解体する男たちの姿。
視線を近くに戻せば城壁のすぐ外の平地で、収穫した穀物を脱穀する姿も見て取れる。
男女混じって唄いながら、すたとんと穀物を叩く木槌の音が、城壁の上まで届いてきた。
翻ってハインフックの街を眺めて見れば、空き家となっていた家々の煙突から、炊き出しの白い煙が幾筋も立ち昇っている。
つい先週まで廃墟だったとは思えない活気が、ハインフックに漲っていた。
城壁の一角に建てられた塔の上に、赤いローブを羽織った黒髪のキキュールが佇んでいる。
彼女は、通りをせわしなく行きかう獣人を眺めながら、隣に立つ楽市へ語りかけた。
「獣人は、つくづくしぶとい連中だと思う。
食料が無いならないで、獣の本領を発揮して、自分たちで何とかしてしまうからな。
山へ入って食べられるものを何でもとって来て、8万もの群れの胃袋を満たしてしまう。
それだけじゃないぞ、ラクイチ。
見てみろ。
今は冬に備えて、せっせと保存食作りまでしているんだ。
ここに連れて来たのは獣人ばかりで、何とかなるとは思っていたが、これほど早く順応するとは思っていなかった。
ふふ……改めて獣人は面白い。
勤勉でガマン強く、集団行動に長けている。
それぞれの個体は弱くても、一丸となった時に生まれる力は、他のどんな種族よりも優れているだろう。
私はそう思うぞラクイチ、ふふふふっ」
我がことのように自慢するキキュールを、ちらりと見つめて楽市も頷く。
「そうだよね。
あたしもダークエルフの赤ん坊のとき、千里眼の子たちに助けられて思ったもの。
獣人たちは強いよねえ」
「だがなラクイチ」
「うん」
「獣人にも、脆い所がある」
「うん」
「このハインフックは、仮の住まいだ。
とは言っても、気に入ったのならば永住してもいい。
冬を越えて暖かくなったら、別の地へ行ってもいい。
元々住んでいた集落もあるだろうから、少なからず帰る者もいるだろう。
だがそれまでは、このハインフックで一冬過ごすことになる。
長く住めば、集落同士の軋轢も生まれるだろう。
誰がどう、デカイ群れを仕切るのかとな。
まあそれは私が主導して、調整するから構わないのだが……」
「うん、よろしく」
「やはり獣人には、デカイ重しが必要なのだ。
しっかりと強い者の庇護下で群れを統率しないと、獣人の心は不安定になってしまう。
拠り所となる、強者が必要なのだ。
それはお前にしか出来ないことだ、ラクイチ」
「うん、分かってる」
楽市が、塔の中央に立つ。
楽市は漆黒の尻尾を出すためいつもとは違い、普段の黒い小袖と合わせて、踝まで隠れる漆黒の袴を履いていた。
楽市が城壁塔の上を舞台とし、ゆっくりと舞い始める。
舞台のソデで丸くなっていた松永が、鼻先を天へと向け、朗々と遠吠えを始めた。
森の守護獣と呼ばれる一角の獣の声は、周囲の獣人たちの全神経を張りつめさせ、顔を城壁塔へと向けさせる。
その恐ろしくも美しい遠吠えを、無視できる獣人など一人も居ないのだ。
面白そうだからと脱穀のお手伝いをして、一緒に歌っていた霧乃たちも、木槌代わりの木の棒を放り投げて、城壁塔を見つめた。
霧乃たちに脱穀のやり方を教えた獣人の少女が、怯えながら霧乃の裾を引っ張る。
「あれ、なに?」
「あれ? あれは、まーなかだよ」
「まーなか?」
松永専門家の朱儀が、獣人の少女へ補足説明をした。
「たぶん、らくーち、おどるから、
みててーって、いってるよっ」
「おどる? みてて?」
夕凪がゆらゆらと、楽市の舞のマネをする。
「こんなやつ、らくーちの、へんなやつっ」
夕凪の動きがくねくねとデタラメで、豆福とチヒロラが笑いながら一緒に踊り始めた。
「まめも、でーきーるーっ」
「らくーちさんのちょっとゆっくりで、つまんないですけど、とっても綺麗なんですよっ」
おかしな踊りに霧乃と朱儀も加わって、5人で好き勝手に楽市のマネを始める。
獣人の少女は顔が青くなった。
姿の見えぬ凶獣のロングブレスで、辺りに走った緊迫感に対して、霧乃たちのふざけた態度が余りにも冒涜的に見えたのだ。
少女にはそう思えて、言いようのない不安がつのる。
恐ろしいので踊るのを止めてくれと、言おうとしたその時。
城壁塔の上部で、爆発的に瘴気の濃度が跳ね上がった。
それは、漆黒の太陽と言うべき存在。
終わりかけた夏がもう一度戻って来たかのように、ハインフックを含めた辺り一帯の山々を、隅々までその後光で照らす。
獣人の少女は先ほど抱いた不安など吹き飛んで、その暖かな黒い光を全身で受け止めた。
この幸福感を、少女は覚えている。
ベイルフで復活した際に、浴びた後光と同じものだ。
黒き太陽から、信じられぬほど巨大な漆黒の蛇が立ち現れた。
やっぱりそうだと、少女は確信する。
鱗のない黒い肌に、金の流紋が走るあの大蛇だ。
これは2度目の邂逅。
獣人の少女は膝から崩れ落ち、湧き上がる“忠義心”で息がつかえて、嗚咽が止まらない。
それは少女だけでなく、この場にいる全ての獣人が抱く思いだった。
楽市が巨大な尻尾を出した城壁塔の、ちょうど反対側。
南側の城壁塔の上で、シノとキキュールはピッタリくっつきながら座っていた。
「いやあ、ラク殿に頼んで良かった。これで観光名所が一つ増えた。
あの城壁塔も、ベイルフの北の塔と同様に、ん?
キキュール、何と言っていたかな?
ラク殿が言っていた、あの概念?」
「ジンジャだろ」
「そうそう“ジンジャ化”させて聖地とし、獣人の心をがっちりと掴む。
これが一番手っ取り早い。
キキュール、私は“トリイ”と言う柱も建てようと思うのだが」
「シノ。
それを建てるなら、“オキツネ”と言う石像も左右に置こう。
手を洗う場所も作り、吉凶を占う紙くじも用意して――」
シノとキキュールは獣人を“楽市沼”にはめるため、“ジンジャ”なるもののプランを話し続ける。
二人にとって、こういった時間も楽しみの一つなのだろう。




