634 それは、記憶の原野で生まれた反則技。
モールスムーンはダミーの記憶とは気づかずに、食い入るように見つめていた。
彼女の前で、巨大なライカが微笑んでいる。
これはチェダーの視点だった。
チェダーが食い入るように、ライカを見つめているのだ。
「ナンダコレ」
チェダーの視点だとブレまくるので、モールスムーンは視点を切り替える。
地味だが、これもモールスムーンの能力の一つだ。
チェダーの視点を元にして3次元的に再構築し、箱庭を眺めるように、好きな角度から記憶を見つめる事ができる。
切り替わった視点では、チェダーの全体像が映っていた。
チェダーは、空中に浮かばせたスライスチェダーの上で正座をしている。
彼の眼前には、あられもない姿のライカが幾人も浮かんでいた。
これ全て、フーリエが出現させたライカの幻である。
なにゆえにチェダーは、ライカの前で正座しているのか?
チェダーの顔は、長穂耳まで真っ赤だった。
なにゆえ顔を赤くする?
その視線は、ベッドで寝そべるライカを見つめたかと思うと、直ぐに逸らされ泳ぎまくっていた。
なぜに泳ぎまくる?
ちらちらとライカを見つめては胸元を押さえて、チェダーの呼吸が荒く切なくなっていく。
「ナンダコレ、ナンダコレ、ナンダコレ」
モールスムーンはナンダコレを言いながら、何となく察してしまった。
これはあれだ、あれなのだ、煩悩というやつだ。
ほんきかっ!?
チェダーは羽織っていたローブを脱ぎ、綺麗に折りたたんでそっと脇へ置く。
背筋は伸ばしたままで、いちいち律儀な男であった。
白いシャツ姿となったチェダーは、胸元の第1ボタンへ指をかける。
「チョットマテ、チョットマテ、チョットマテ」
第1ボタンが外れると、チェダーは指先をゆっくりと第2ボタンへ這わせた。
「アー、アー、アー、アー、アー?」
第2ボタンを外すと、チェダーは第3ボタンも――
「エー、エー、エー、エー、エー?」
どおりで隠すわけだっ。
隠さなくては、いけないわけだっ。
どうしてうちの兄どもは、どいつもこいつもアホばかりなのかっ!?
モールスムーンは隠す理由に合点がいき、開いた口が塞がらない。
「バーカードーモー」
――ちょっとあの子には、刺激が強すぎたかしら
でも弱い刺激だと、あなたは直ぐに興味を失ってしまうでしょう?
シュミーア・ウィスローは聞こえてくる、調子っぱずれなモールスムーンの声に耳を傾ける。
耳を傾けながら腰に手を当て、目の前に浮かぶ巨大な立方体を眺めた。
それは彼女が追い求めた、“女王の記憶”である。
しかし明らかに、他の記憶の星座とは形が違った。
とても星座とは呼べぬ代物で、ヒノモトで例えて言うならば、それは“原子の配列”に似ていた。
金属を構成する原子が規則正しく並ぶように、記憶の媒体である星々が、タテヨコ四角くみっちりと並んでいる。
ぎゅっとくっついて並び、一つの強固な立方体を作っているのだ。
シュミーアはそれを見つめて、軽く首をふる。
――あれから、5000年経ちますのに
モールスムーンは、開けられずじまいなのですね
かつて地底より洞窟妖精を引き連れ、地上へと進出した女王がいた。
その名は、シュミーア・ウィスロー・SSR8・ソービシル。
彼女は自ら千里眼の乙女となり、大陸中を偵察し、地上の者どもと領土争奪に明け暮れていた。
その当時、女王が供回りとして連れていた、自動筆記型のメタルゴーレムがいる。
女王はそのメタルゴーレムに、過去行った自分の行動、当時の思考など、その他諸々を全て克明に記憶させていた。
そのメタルゴーレムに、山脈ドラゴンの秘術をもちいて一体化したのが、他でもないモールスムーンであった。
モールスムーンは5000年前の女王失踪時、何か手掛かりはないかと、そのゴーレムに取り憑いたのだ。
しかし自動筆記のメタルゴーレムの記憶には、女王による鍵がかけられていた。
その鍵はかなり複雑で、モールスムーンは開けようとしたが結局開ける事ができず、現在もそのままだ。
今も“女王の記憶”は、モールスムーンの中で眠っているのである。
その記憶を、シュミーアは欲しているのだ。
――あらあら、5000年かけても解けない魔法の鍵なんて、
私が開けるなんて無理なのでしょうね
ですがそんな鍵は、ふふふ……別に開けなくても良いのでしょう?
そう言ってシュミーアは、おもむろに記憶の立方体を齧り始めた。
なんとも魔法をかけた者の、想定外の開け方。
シュミーアはヒノモトのカミキリムシのように、何の苦も無く星々を嚙み砕いていく。
古今東西、鍵など開けなくても、野生の獣は壁を齧って入り込むものなのである。
生まれながらの記憶の住人。
それは記憶の原野で生まれた、獣だからこそできる反則技だった――




