631 魔薬(コールカイン)の先に見えるもの。
金髪のショートボブを揺らしながら、チェダー・ダイムスは瓦礫の海岸を歩いていた。
頭は力なく項垂れ、その紅い瞳は足元の瓦礫ばかり見ている。
すぐ傍まで波が寄せて、白く泡立っていた。
チェダーは何の感慨も浮かべず、瓦礫を踏みしめていく。
初めは足元の瓦礫一つ一つが、針山城や旧帝都の街並みだったなんて信じたくなかった。
それに何故、旧帝都で海原が広がっているのか?
まるで意味が分からない。
魔薬が切れた後は禁断症状も相まって、無様に慌てふためいた。
なぜだっ!?
信じられないっ!?
どうしてっ!?
しかしいくら喚こうとも、寄せては返す波の音が消えるわけではない。
そんな細波を一日中聞いていたら、喚く気力も失せてしまった。
だから歩いている。
じっとしていたら現実が何なのか分からなくなり、心が壊れてしまいそうだから。
潮風に巻かれながら歩いていると、前方に石造りの小屋が見えてくる。
それは瓦礫の岸辺に、ぽつんと建つ一軒家だ。
小屋は未曾有の災害から、奇跡的に生きのびた建物ではない。
瓦礫の上に、新しく建てられたものである。
建てたのはモスマンたち。
生き残った、チェダーたちのために建築した。
口から吐く糸を接着剤にして、瓦礫を積み上げた一軒家なのだ。
木製の扉や窓枠は、海岸のあちこちから拾ってきたものを流用してある。
小屋の脇には大きな穴が掘ってあり、そこに霧となった長男が、スライスチェダーのボックスごと埋め込まれていた。
チェダーはたたずみ、その小屋を眺める。
その小屋が見えたという事は、チェダーが瓦礫の海岸を一周してきたという事。
チェダーは昼間にあの小屋をでて、海岸を左へと進んだのだ。
そのまま海岸沿いをひたすら歩いて行って、今またその小屋に出くわした。
これは何のことは無い。
チェダーが海と思っているものは、実際は直径7キリルメドル(㎞)ほどの湖で、チェダーはぐるっとそこを一周しただけなのである。
ただしそれは、断じて湖ではなかった。
昨晩のこと。
チェダーはボックスに使用していない、スライスチェダーで沖へ出た。
空に浮かぶライカの幻影たちの脇を通り、馬鹿みたいに大きな黒い巨人を大きく迂回しながら飛んだ。
そのまま真っ直ぐ、“対岸”を目指して飛行する。
しかしいつまでたっても、対岸へたどり着けないのだった。
幾ら飛んでも反対側の岸が見えない。
そのうちチェダーは、恐ろしくなって引き返してしまう。
チェダーは昨晩の恐怖を、思い出しながら海を眺める。
「やっぱりここは、空間がねじれているんですね。
海岸に沿って歩くと、普通の広さなんですよ。
でも海の中心へ行くほど、空間が広がっているんです。
これ、どう思いますか?」
チェダーは、岸辺に一人のはずだ。
なのに誰かへ、話しかけているようだった。
「あっ、そうなんです僕もそれは思いました。
この空間のねじれ。
どこかライカやフーリエの住む領域。
天空立方や、
煉獄立方に似ていますよねっ。
何か関係が、あるのでしょうか?」
チェダーは首を傾げつつ、腰に手を当てた。
「はあ……それにしてもあの空。
見てくださいあの沖合。
無数の太陽がいつまでも変わらぬ夜空に蠢いて、まだらに明るかったり暗かったり、時間がさっぱりわからない。
見ていると僕、気がおかしくなりそうですよ。
えーとっ、今は夕刻のはずですが……」
そう言って、チェダーは後方へ振り返る。
時間が知りたければ、海に背を向けて後ろを見ればいい。
後方には絶えず空中を流れ続ける、瓦礫の壁があった。
モスマンの槍の効果で、ぐるぐると領域のフチを回遊する瓦礫の群れだ。
それが密になって同じ方向へ流れているため、あたかも壁のように見えるのである。
その壁の隙間を通して、外界の光が見えるのだ。
今は正しく夕刻であり、瓦礫の壁がほんのり赤く色づいていた。
「ひょっとしてですけど、ここは立方になる前段階の空間。
原始のキューブとも言うべき――
ああ、すみませんっ。
今はそんな事を、考えている場合じゃないですよね。
大丈夫です、任せてください。
あなたを実体化する方法は、必ず僕が見つけてみせますから」
そう言ってチェダーは、コールカインの原液が切れてもまだ見える、幻の女王に話しかけた。
「待っていてくださいね、母上」




